バラマーケットで食料を買い込み、馴染みのワインセラーでこの間味の良かったボーヌロマネを買った。アイオロスは、何をしに行くつもりなのか、両手に下がった薫製と羊肉に大変機嫌が良い。遊びにいくわけでも、夕食を楽しみに行くわけでもないと釘を刺すと、「交渉の一回目はまず会食から、だろ」と軽くいなされてしまった。
勿論、それでカノンが靡いてくれるなら、アイオロス曰くビジネスライクな交渉術も悪くはない。問題は、自分の弟は、決してそれで折れてくれるような性格ではないということだ……。
ユーストン駅から、ヴァージントレインに乗り、1時間半。
この英国第二の都市、バーミンガムのクリニックに、カノンはセラピストとして勤務している。
彼が何故その道を選んだのか、尋ねたことはない。おそらく、私が尋ねてはいけない質問だと思ってきたし、訊かなくても何となくわかる、ような気がするからだ。
勿論、本当のところは、分からないのだけれども。
成長の過程で地理的にも、生活環境までも完全に別れてしまった私達は、外見はともかく、中身はそれほど似てはいない。大学時代にやはり一卵性双生児と友人になったが、彼等に比べればよほど互いの事も知らない、と断言出来る。それでも、何故か、カノンが考えている事は分かるような気がするし、大体に於いてそれは外れた事がない。どうやら先方も同じ事を考えているようだから、私の一方的な思い込みというわけでもないのだろう。
カノンについて、想像した事を、あまり真剣に疑った事がない。
それこそが、私達を結ぶもっとも強い絆なのかも知れない。
でも、だからこそ、アパートまでの足取りが重く感じる。
アメリカで散々自由を満喫した身には、あの館にまつわる全てが重い柵に感じられるだろう……
私にとっては当たり前の事が、カノンにとって普通でなくなってから久しい。昔の感覚を思い出す事は不可能ではないだろうが、現在のカノンは自分の意思でそれを拒否している向きがある。彼はそうして与えられた新しい世界に適応し生きてきたわけで、今更周囲がそれを矯正する権利はないだろう。
カノンにこちらの希望を汲んでもらうには、彼にそれ相応の利益がなくてはならないが、はたして、今考えている事が、カノンの希望に沿うか……
残念ながら、そこにはあまり自信がなくて、正直、どんな反応が返って来るか分からない。つまり、この訪問の目的は、カノンが今現在意識的に目を塞いでいる事、つまりもし彼が当主になった時にどのような利益が得られるか、という事に目を向けさせる事だ。
一週間、色々考えた。
つくづく、もっと頻繁に連絡をとっておけばよかった、と後悔した。
読みが外れたら、実は、これといって有効な代替案がないからだ。
アイオロスは、いざとなったら何か物騒な手段を考えているようだ。もっともそれ以前に、彼が本気で議論を始めたら、ディベートで勝つのは至難の技と言って良い。パブリックの時代から彼が負けた論戦は見た事がないが、ロウ・スクールに上がって更に磨きがかかった。弁護士としての戦績も相当に優秀だ。
カノンもそう簡単に折れはしないだろうが、残念ながら、真っ向から対立するには相手が悪すぎると言わざるを得ない。本当は納得していないのに、言い負かされた形で終わるのでは、あまりにカノンが気の毒というものだ。
本当は、一人で来る筈だったのに。
と、何度考えたか知れない事をまた考えた。カノンが「二人で」などと言わなければ、勿論一人で話し合いに来るはずだったのだ。ただ、カノンはやはりカウンセラーとして、このような問題をペアの片方だけと話し合う事の無意味さに思い至ったのだろう。それは多分正しい事で、勿論双方がカノンと話す必要があるだろうけれど、問題は、二人同時では何が起こるか私にも想像がつかない、ということだった。
そして、その悪い予感は、私が想像さえしなかった結末をもって的中してしまったのだ。
まさか、ただの一言も切り出せなかったなんて。
帰りの電車の中、私は久々に沸き上がる怒りと、激しい眉間の痛みとで、目を開けている事が出来なかった。
カノンのアパートに上がってから六時間。アイオロスはまったく関係のない話をカノンにふり続け、結局、何一つ相談する事が出来なかったのだ。
アイオロスが、アメリカの話が出来るカノンを結構気に入っている事は知っていたし、カノンもイギリスの愚痴を言えるアイオロスに気を許している事は知っていたから、当然、ある程度の雑談は予想していたし、それで良いと思っていた。
だが、今日のアイオロスの態度は、あまりに作為的に過ぎた。
なるほど、相手を気分よくさせるのは交渉の一手かもしれないし、最初の数回は会食で話し合いはその後、という定石もあるのかも知れない。だが、カノンはビジネスの相手ではない。
何度か遮ったが、綺麗さっぱり無視された。驚いたのは、カノンがそのアイオロスの誘いに喜んで乗り、同じように私の言葉を無視した事だ。
話しに来い、と言ったのはカノン本人だが、本心は、結局有耶無耶にして無かった事にしたい、という事なのかも知れない。それならば、その言動は理解出来る。だが、そうではない、と、確信があった。
カノンは、明らかに、アイオロスとのやり取りを楽しんでいた……。
それは、今現在でさえ、彼が無理矢理連れ戻された本国で日々感じている閉塞感を証するもので、私にはそれ以上強く言葉を掛ける事が出来なかった。そうして、カノンのその鬱屈を利用しているように見えるアイオロスに、怒りを感じた。
アイオロスは、何をどうするつもりなのか。
今日の行動からは、彼の真意がわからない。
カノンと親しくなって、話はそれから、というそれだけなのかも知れない。だが、その裏に無数の計算があり、そこに何かささくれたひっかかりを感じる。彼は、彼が気に入った相手に対しては非常に親身になり世話をやく一方、自分の利益を守る為には他を切り捨てる事を厭わない一面も併せ持つ。カノンは一体どちらに分類されたのか、それが、私には見えない。
いつまでも、先延ばしに出来る問題ではない……ならば、今日あれほどに甘い顔ばかり見せる事に、一体どんな意味があるのか。
結局、家に戻るまで、ただの一言もアイオロスと話さなかった。
こちらの空気は、アイオロスも読んでいたのだろう。アイオロスもまた、こちらに声をかけるそぶりすら見せず、家に戻ってもすぐに書斎に姿を消してしまった。
溜息を抑え切れず、リビングのテーブルに腰掛けて頭痛を堪えていたら、目の前に分厚い封筒が差し出された。
「中、開けてみろ」
アイオロスが、先刻カノンと上機嫌でいた時とは別人のような表情で、正面の椅子に手をついていた。
言われるまま、封筒を開けて中の書類を数枚捲り──私は、その形のまま固まった。
「……まさか…………」
何十枚も束になったそれは、門外不出であるはずのシュローズベリ伯爵家の詳細な調書だったのだ。
古い家には、何処にも、表に出せない闇の歴史がある。
シュローズベリ伯爵家も例外ではなく、当主の責の中にはこれらの闇に光を当てぬよう上手く立ち回る事も含まれている。
立場上、私はこれらの記録を全て暗記するよう指示され、実際にそうした。簡単に倉から持ち出せるものではないし、将来家を代表する立場になった時に辻褄の合わぬ事を口走らぬように、との配慮だ。
その、極秘にされてきた筈の情報が、何故今此処にあるのか。
私は、信じられない思いで、アイオロスを見上げた。
「人がやった事だからな。そいつが天涯孤独ならともかく、家絡みで使用人も知ってる話じゃ、何処かに漏れたって不思議でも何でもないだろうさ」
「これを……一体どうするつもりだ………」
少し、声が震えていたかもしれない。此処に記録されているもののうち殆どは既に時効だが、公表されれば家名だけでなく現当主である父も無傷ではいられまい。
アイオロスは、そんな私を見て、少し傷付いたような表情をした。そして、手をかけていた椅子をひいて腰掛けると、溜息をひとつついて、両手を顔の前で組んだ。
「あのさ、そこまで『信じられない』って顔されると、もう何話していいか分からんのだけど?」
「……それは………君の行動が突飛だからだろう………」
「突飛って、何が? お前の話をとことん無視したことが、か?」
悪びれもなく言われて、また鴟尾が固まったので黙り込むと、アイオロスはまた溜息をついて言った。
「お前なぁ……。それじゃ、はっきり言わせてもらうが、一生を左右する相談を、腹を割って話せる友人でもない相手にするのが、突飛でないと本当にお前は思うのか?」
言葉付きは穏やかではあったが、その言葉は、どこか鋭い針を含んでいて、私はその冷たさにぎくりとした。
「お前にとっては双子の兄弟かも知れん。だが、俺は他人だ。そしてお前は、自分でも、双子といってもカノンの事は実は良く知らない、と言ってたじゃないか。まあ、双子には双子の感応があるのかも知れんが…それにしたって、相手に負担がかかる事を頼むのに、いきなり本題でさっさと話を済ませようってお前の方が、かなり虫のいいご都合主義だと俺は思うがね」
続くその言葉に、頭から冷水を浴びせられたように感じた。
焦っていた、という事に、漸く言い訳の余地なく気付かされた。
なるべく早く真面目な相談をしようとした事に、考えがなかったわけではない。すべては、カノンの思惑で決まる。カノンにもどうしても譲れない事情がもしあるのなら、最後の選択で私が継ぐ事もあり得ると考えていたからこそ、嘘偽りでないカノンの本当の気持ちを聞く必要があった。
でも、其処には、いきなりそんな話を聞かされるカノンの都合は考慮に入っていなかった……
あまりに情けなくて、テーブルの上に肘をついた両手に顔を伏せた。肩に力が籠っていた事を知った。
未来を思う度、その先に見える障壁の高さに息が詰まる。どうすればその先に進んでゆけるのか、たった一つの失敗が全ての崩壊に繋がる、と、不安を前向きな緊張に変えるのに精一杯で……。
アイオロスには、それが丸見えだったのだろうな、と、ぼんやり考えた。
この問題は、最後には私が負うべき責だ。また、アイオロスには馴染みのない世界の柵に関する事でもある。だからこそ、なるべく彼には外に居てほしい、特殊な世界の暗部に関わらせたくない、という思いもある。
だが、そんな私の思いにはお構いなく、アイオロスは既に一家の歴史を調べ上げ、この世界に足を踏み入れて来ている……
それは、「まず出来る事は全てやってみる」事を信条にしている彼にしてみれば当然の事で、そんな彼の行動力と健全な精神に惹かれたのだと、私は思い出した。
「……確かに、焦っていた、と思う。やらなければならない事は山積みで……もし、カノンに引き受けてくれる気があるのなら、彼が傷付かないよう手を打つ必要があるし、それも厄介な人物が騒ぎ出す前に終えなくてはならない……もしカノンが今実家で進んでいる再開発計画に関与したければ、実はそれほど時間はない。……でも、その前に、カノンと私達の間の関係を強固にして、彼にもじっくり考える時間が必要だ、という事を忘れていたよ」
「お前はとかく、物事を一直線に並べて脇目もふらずに追いかけていくのが好きだからな。だが、まあ、お前の好きな学問と違って、人間はそう簡潔にはいかないってことだ」
アイオロスは、そういって笑うと、私の髪をくしゃくしゃに乱して言った。
「さて、寝るぞ! これから暫く、週末は肉と酒もってバーミンガム通いだからな。体力蓄えとかないと、もたないぞ」
そして、大きく欠伸をして、さっさとベッドルームに消えてしまった。
……悔しいが。
今日のところは、完敗だ。