奇妙な二日間だった……
2/7の昼、予め予約してあった飛行機のチケットを持って、空港に向かおうとした矢先、携帯に電話があった。勿論ミロからだ。
ひどく慌てた様子で、急用でどうしても今日は空けられない、という。
来てもらっても相手ができないから、今回はキャンセルさせてくれ、と泣きついて来た。
まあ、ミロのダブルブッキングは今に始まったことでもないし、そういう状況ならまともに食事もとっていないだろう。別に誕生日を祝ってもらう年でもないし、それならそれで、一週間分の食事を作って、部屋の掃除をして帰るから、こちらに構わなくていい、といったら、それもダメだと断られた。
いや、そう言われても……(困)
チケットは、年末にとった格安チケットで、キャンセルも変更もきかない。
大体、Webでチケット予約した時ミロも隣にいたのだから、そのことは知っているはずだ。
無駄にするくらいなら、食事だけでも作りに行った方がいい、と思うのだが、とにかくダメの一点張り。
さては、何か隠しごとをしているな、と思ったが、こうなるとてこでも口を割らないので、チケット代貸しにしてイタリア行きはとりやめた。それで、久々に美術館めぐりをして時間を潰していたら、なんと仕事できていたEllenに会ってしまった。
間が悪い、というか何というか……(汗)
当然、彼女はその日がどういう日なのか知っているわけで。
一人なのか、と訊かれ(当然だろう)、一瞬待ち合わせだ、と言ってしまおうかとも考えたが、なんとなく嘘をつけずに頷くと、すぐに仕事を引き上げてくるから絶対にそこで待っていろ、と殆ど脅迫に近い勢いで念を押された。
彼女は私より年上で、色々な意味で大人だ。結婚を前提とした恋人、という関係が解消されたあとも、良い友達であったし、彼女も今更昔の関係に戻りたいとは思っていないだろう、とも思う。
それでも、この日に彼女と会うのはあまりよくないと思ったし、我々はロンドンに住んでいるのだからいつでも別の日にまた会えるから、と、彼女が戻って来たら軽くお茶にでも誘って、それ以上の付き合いは遠慮するつもりだった。
そのつもりだった、のだが……(汗)
戻って来たEllenは、なんと友人と一緒で、その友人たちに、笑顔で謝ってみせたのだ。
「ほんとに、急なことで、ゴメン!」と。
思わず言葉もつげずにいると、彼女はにっこり笑って言ったものだ。
「予定はキャンセルしたから、夕食は付き合って」と。
こういう台詞は、彼女以外の女性が言えば押し付けがましく聞こえるかも知れない。でも、彼女は非常に気のきく女性で、相手が本当に一人で時間を持て余しているかどうかを察知する勘にも優れていた。会社に居た頃、彼女がそうして部下を誘って食事に行く姿を何度か見たことがある。女性に対し決して風当たりが弱いとはいえないこの業界で、今も第一線で活躍する陰にはそういった気配りの細やかさがあるのだろう。
「予定があったのなら、他の日に食事でも誘ったのに」
と先をゆく彼女に声をかけたら、彼女はくるりと振り返って鮮やかに笑った。
「そんな、泣きそうな顔をしているのを、放っておくわけにいかないでしょ! 折角の誕生日なのに」
泣きそうな表情、などしていないつもりだけれど、つまらない顔はしていたのかもしれない。
そもそも、誕生日にまた会おう、と言い出したのはミロの方だった。
国が離れている割には、我々は結構頻繁に会っていると思う。クリスマス休暇、2月の誕生日前後、イースター休暇、バカンス、ミロの誕生日前後、と数えると、ほぼ2〜3ヶ月に一度は会っている計算になる。
会って何をするわけでもないけれど、ミロの側は落ち着く。一人暮らしで何かを構えて暮らしているというのは、よくよく考えるとパラドキシカルだが、構えていたものが解ける、そういう気がする。
何か、感じた事をそのまま頭でこね回さずに口にしても、素直に伝わる、そういうところがほっとするのかも知れない。
他の人に何かを伝えるには、(たとえEllenが相手であっても)どうすればうまく伝わるか、常に考えてからしか口に出来ないから。
その作業は決して嫌いではないし、むしろパズルのようで楽しいことも多いのだけれど……
そうする事で、かえってうまく伝わらない相手は、これまでミロ以外には知らない。
Ellenが予約してくれた店は、なんと中華街のただなかにあって、しかも店内はアジア系の人しかほとんど居ない、という小さな店だった。入るとすぐに飲み物はときかれ、彼女は「チンタオビール」と頼んだ。
「ここ、ホントおいしいのよ」
彼女は早口でそう言って、なにやら私には見てもよくわからないメニューをどんどん注文していく。途中から諦めて、黙って彼女の注文を眺めていたら、「貴方もなにか頼みなさいよ」とつつかれ、仕方なく麻婆豆腐のベジタリアン用を頼んだ。
「え? ベジタリアンになったの?」
彼女がしまった、という表情をしたので、慌てて私は否定した。
「いや、そういうわけではないんだ。ただ、少しずつ、肉をやめていこうかと思って」
「へえ、どういう心境の変化?」
「大した事じゃないよ。以前から漠然とは考えていた。自分では殺せないものを、他人に殺してもらって食べるのはどうかな、と。勿論肉食を非難するつもりはない。ただ、自分が納得しないだけのことだから、出してもらった食事は今迄通り有り難く頂くよ。それは、相手の心遣いを頂く事だから」
「ふうん……相変わらず、自分の中で辻褄が合っていないのは具合が悪いのね(笑)。貴方、ラム好きだったのに、もう自分では買わないの?」
「そうだな……もう三ヶ月ほど買ってないかな?
今年は、イースターも羊は止めようと思ってる。皆復活祭だと浮かれ騒ぐけれど、羊達にとっては受難の時期だ。しかも仔羊も殺される。もともと、その失われる命をイエス・キリストにみたてて、犠牲に感謝する日だったはずなのに、市場に出回っている彼等の肉は、そういう感謝を受けて生産されたものとは到底思えないんだ。イースターに合わせて工場で生産するように生み出され、ベルトコンベヤーに乗せられて失われていく命は、大切にされていた命の犠牲に見立てられるものではないと思うんだよ。
大切に可愛がっていた羊を絞める、そこには痛みと、命を差し出してくれたものへの感謝があるだろう。イースターはそういうことを忍ぶ日であって、買って来た肉でパーティを開く日じゃない。そこを忘れているから、需要がだぶついて無為に殺される命があったり、パーティのイベント用に生きたウサギを買って来て、イベントが終わったら捨てる、などという本末転倒なことが起こる」
つい長々と語ってしまったが、彼女は興味深げに聞いてくれた。
「そうねえ、私もスーパーでお肉は買うけれど。あれがもし、生きた豚や鶏のケージにつれていかれて、どれかを選べと言われて、その場で捌かれる姿を見なければ買えない、というシステムだったら、確実にお肉を買う回数は減るでしょうね。私が買わなくたって、誰かが買って結局殺されるでしょうけれど、目の前で殺されるのを見てまで食べたいかと言われたら……殆どの場合は、他のもので済ませると思う。でも、それでは、肉屋さんは困るわね(笑)」
「全てのイギリス人がそうなってしまったら、困るだろうけれどね。僕は、それは無理だと思う。命を奪う事にも馴れはある。それが当たり前になったら、皆それでも買うだろう。だから、結局は、これは個人の感情の問題だ。思想も何もないんだよ、本当のところはね(笑)。それでも、目を覆いたくなる真実を見ないよりは、見た上で馴れるほうが、まだ良いと僕は思う」
「痛い台詞ね。お肉買えなくなっちゃうじゃない。ところで、魚は?」
「魚は食べるよ。魚介類は、生きているのを捌くのにも特に抵抗ないから。魚も怖いだろうけれど……動物は、やはり僕ら人間に近いからかな? 彼等の恐怖の方がより身近に感じる。何度も言うけど、結局は個人の感情の問題だからね(笑)」
「成程。それなら続きそうね(笑)」
次々と運ばれて来る料理を二人でつつきながら、私達はとりとめのない話をした。
Ellenの最近手がけている仕事の話や、どんどんと変わって行く社内の方針のこと。
「あなた、いい時期に辞めたわよ」と、Ellenは苦笑した。
結局、三時間あまり喋って、店を出る時には九時半をまわっていた。少し酔いのまわった息で、ありがとう、と礼を述べたら、彼女は笑って「忘れずに彼氏に電話しなさいよ!」と言った。
お互いに、バーには誘わなかった。私から誘う事は勿論できないが、彼女もきちんと弁えていた。
それは、彼女の手の届く領域ではないと。だから、電話をしろ、などと言ったのだろう。
そういう心遣いを有り難く思う。
Ellenは、本当に素晴らしい女性だ。
家に戻ると、カードが二通届いていた。一通はミロからで、きっと私が戻った時のサプライズのつもりだったのだろう、向こうで録音したらしい演奏のCD-Rが添えられていた。
もう一通は、サガ先輩からだった。曰く、おそらくロンドンにはいないだろうけれど、誕生日おめでとう、といつもの美しい筆跡で書かれていた。
部屋に戻り、留守録をみると、一件着信があった。ミロからで、今日は本当にごめん、誕生日おめでとう、と短く録音されていた。コールバックしてみたが、二十回ベルを鳴らしても繋がらない。仕事で家をあけているのだろう、と、勝手に推測して、サガ先輩の家にカードのお礼を言うために電話した。
先輩は、電話の向こうで明らかに驚いた声を出していたが、ミロの仕事が忙しくて、と言うと何故か相当に気を遣ってくれた……
まあ、あの二人は、誕生日ごとに仕事を一週間休むくらいだから、当日になって予定キャンセルなどというのは同情に値することなのかもしれないが……(汗)
そんなわけで、土曜の夕食に招かれた。なんでも、最近日本の精進料理に凝っているのだそうで、よかったら一緒に作らないか、とのこと。
……先輩も、アイオロス先輩がいなくて、寂しいのかな?
そういうわけで、今日はこれからサガ先輩の家に向かう。勿論、ミロが送ってくれた、イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタのCD−Rも持って行くつもりだ。
以前クリスマスプレゼントは何がいいかときかれたので、冗談のつもりでイザイがいい、といったのだが、なんとクリスマスには間に合わなかったその曲をミロは制覇したらしい。
相当な難曲なんだが……(汗)
Music Schoolを出てもう何年もたつのに、よく指がまわったものだ。
もしかして、その練習にかまけていて、仕事がつまったのか?
ミロからは、相変わらずなんの連絡もない。
生きているのか、少々不安だ。