かねてから約束してあった通り、ロンドンのサガの家を訪ねた。
昨日の朝からカンファレンスが始まった。今回は特に発表もないので気楽だ。
夕刻、一日目のプログラムが終わり、アメリカ時代からの友人と飲みに行く約束をして、サガの携帯に電話をかけた。食事はいらない、と伝えると、飲み過ぎないように、と笑いながら返事が返って来た。
十八の夏休みに、親父の目を盗んでテキーラを仕入れ、しこたま飲み過ぎた事を未だに覚えているらしい。サガは何かスクールで面白くない事があったようで、俺の倍は飲んでいたが殆ど酔っていなかった。
もうあの程度じゃ酔わない、といってやったら、飲み過ぎは体によくない、味が分かるくらいで止めておけ、などと、ヘンリーの爺さんが言いそうな事を言う。兄貴面すんな、と突っ返したら、そんなつもりは無いが、つい習慣で、と笑いやがった。
どうもサガは、俺と二人になると兄貴面をしたがる。
爵位を俺に押し付けようと企んでからは、あからさまにそういう言動はしなくなったが、本人も気付いていないところで、しっかり兄貴気取りだ。
兄貴ったって、生きた年数は一緒なんだがな。
しかも、あいつより、俺はどう少なめに見積もっても人生経験が豊富だ。
(いや、唯一俺が足を踏み入れた事のない世界をあいつは知っているが、そんなものは一生経験するつもりもないのでどうでもよい)
ふと気がつくと、俺は俺で、いつの間にか、あの箱入り息子の兄貴の面倒をみてやらねば、という気分になっているから、余計にサガの兄貴面が目につくわけだ。
土産にワインを仕入れて、サザークのフラットに辿り着く。時刻は夜十時。
ドア横のプレートには、A. Ainsworthの文字。Shrewsburyの名も、勿論、Chetwyndの文字もない。
そりゃそうだ。そんなファミリーネームが並んでいたら、分かる人間には分かるだろう。
なんだかな、と思いながら、呼び鈴を押した。
こんな、言っちゃ悪いが中の上程度のフラットに、名前まで隠して住んでるのか。
サザークはもとから、労働者の町だ。まあ、近年、テムズ川沿いは開発が進んで、高級ロフト・フラットなんかもあるが、通りを一本入ったこのフラットは、セキュリティはそこそこしっかりしているものの、少々古さが目立つ。
この所帯じみた部屋のプレートに、Ainsworthの文字に添えてS.と書き込まなかっただけ、まだましか。
そんな事をつらつら考えていたら、ドアのノブが回って扉を開いた。
「ようこそ! 迷わずに来られたかい?」
あのな。予め、三枚も地図をFaxされてりゃ、迷いようがないっつーの。
足下で、噂の肉ウサギがくるくる回っている。サガは器用にそれを避けながら、俺のコートやらなんやらを受け取り、ハンガーに手際よく掛ける。
食事はいらないと言ったのに、キッチンでガーリックブレッドを焼く匂いがして、奥のテーブルには数種類のディップソースとサラダ、シュリンプとオリーブのオードブルが綺麗に並んでいる。
きちんと整頓された部屋、バックに小さくかかっているバッハのブランデンブルグ。
あーーー……、、なんだ? この、なんとも言えない、所帯染みた空気は??
バーミンガムへの毎週の訪問で、こいつがそこそこ料理が出来るようになったことは知っていたが(昔は酷かったのだ、なんせ、ガスレンジの使い方が分からなくて目玉焼きすら作れなかったんだからな)こんなつまみを、髪を束ねて腕まくりして作っていた、というのは、なんだかコイツにはもの凄くミスマッチだ。
なんか、もっとこう、男の料理! って感じな大雑把なつまみならともかく……
レストランみたいな洒落た盛りつけでやられると……
いや、お前は、それ作るんじゃなくて、食う方の人間だろう?!
つか、お前、その材料、仕事帰りにスーパーに寄って買って来たのか?!
実家では、当然、サガは決して台所仕事などに手を出さない。
俺のコートを受け取ったりもしないし、部屋の片付けもしない。
それは、使用人の仕事であって、奴の立場で無責任に踏み込んではならない領域だということを弁えている。
だが、サガの事だから、こういう生活もそれなりに楽しんでいるんだろう。
とにかく、家を継ぐ人間として、贅沢を言わず与えられた環境で満足するよう、徹底的に叩き込まれたからなあ……サガは。
今時の若造が耐え切れない(俺だって耐えたくない)質素清貧の生活だって、きっとコイツは喜んでエンジョイしてしまうに違いないのだ。
「お土産ありがとう。実は、多分これだろうと思って、オードブルを用意しておいたんだよ」
サガは嬉しそうに俺からのボトルを受け取り、リーデルのペアグラスをテーブルに出して、キッチンに栓抜きをとりに行った。手にとると、なんとそいつはきちんと冷やしてあった……。
やる事が、マメだな、兄貴(汗)。
しかし、これ、当然、アイツとサガの二人用に買ったんだよな、と思うと少々複雑だ。
ふと気付いて部屋を見渡してみると、アイツが居ない筈の部屋のそこかしこに、アイツの気配がある。
綺麗に整頓されてはいるが、サガのラップトップの置かれたあいつの机とか。(なんで自分の机で仕事しないんだ?)
奴の専門に関係ありそうな事件の記事の切り抜きの束とか。
奴の予定まで細かく書き込まれたカレンダーとか。
なんだかな。
二十年前なら、サガが細かくカレンダーにつけていたのは、俺の予定だった。
まあ、俺のロンドン滞在予定も、びっちり同じカレンダーに書かれているんだが……
なんだ? この土曜日のドウコ、シオンって?
焼きもちを焼いている訳ではない。それは断じてない、と断言できるんだが、あの、実家ではそれなりにキリっとして、おいそれとは手を出せない雰囲気を漂わせているサガを、ここまで別人にしてしまうアイツは一体何者なんだ? と……
それで、はたと気付いた。
俺が、どうにもあいつが爵位を捨てる事に感情的に納得できないのは、あの実家でのサガが消えてしまうような気がするからだ。
いや、多分、気だけじゃなくて、そうなるだろう。
これは、俺の知っているサガじゃない。その、どうにも拭えない違和感が、ちょっと待てよコラ、という気分にさせるのだ。
まあ、俺に、あの実家でのサガの真似をしろと言われたら、100%嫌だと答えるから、奴にそれを押し付けるのはある意味狡いんだが……
しかし、サガは、それを自然体でやっていたのだ。少なくとも昔は。
で、今だって、家に帰れば自然にそういうモードにスイッチが入る。
当主教育の成果だ。そのへんの成り上がりには真似の出来ない風格もある。
それを、みすみす消滅させてしまうのは惜しい、という気がする。
まあ、翌日も会議だし、週末はゆっくりできるから、というので、二人でワインを一本あけ(サガはたった二杯で頬を少し赤くしていた……お前、滅茶苦茶弱くなったんじゃないか?)、夜は早めに休む事にした。
本気でキングサイズのベッドを譲ってくれるつもりだったようだが、顔を赤くした奴に説教垂れられても聞く耳もたん、と、さっさとブランケットを掴んでソファに移動。
そしたら、なんとサガの奴、ベッドが大きいから一緒に寝よう、と言い出した!
馬鹿野郎、冗談じゃねえぞ!!
余計なこと想像しちまうだろうが!!! (うぇ……気色わりぃ………)
それで、とにかく、明日までにまとめておく、と約束した資料があるので、暫く仕事をするから、と無理矢理サガを寝室に押し込んだ。
それでも、俺が足のはみ出たソファベッドでちゃんと寝てるか、夜中に心配になって、何度か起きて様子を見に来たらしい。あのなあ。もう、ベッドから転げ落ちてたガキの頃とは違うの!!
とにかく、お前がソファで寝るのも、仲良く一緒にベッドで寝るのも、却下だ、却下!!
しかし、サガの奴、昔から諦めは悪いからな……。
今晩は、どうやって寝室に閉じ込めるか………