出発

父の誕生日が近づいてきたので、実家に戻ることになった。
金曜と月曜、仕事の休みを貰い、金曜は朝九時の列車で北上するつもりで、木曜のうちに、父にプレゼントする花を買いにいった。


アイオロスは既にこのことも了承済みではあったけれど、週末一人にされるのが面白くないらしく、いつもより三倍はしつこくステーキのお代わりを強請り(お陰で週末用に買っておいた分まで全てなくなった)、ドレッシングのついたサラダを(ウサギの)ロスに食べさせようとして私と攻防を繰り返し、それに飽きると今度は嫌がる(ウサギの)ロスを仰向けにひっくり返してお腹の毛を毟っていた。
私は四日分の着替えの準備などをしていて寝室と居間を往復していたため、アイオロスの悪戯にすっかり機嫌を損ねた(ウサギの)ロスが苛立ちをエクササイズ・パンのパネルにぶつけていたのに気付かなかった。部屋の窓際には、コンピュータのケーブルがむき出しのまま配線されているため、ウサギを出す時にはエクササイズ・パンで部屋を仕切って、ウサギが窓際に行けないようにしてあるのだ。
私は、仕事帰りに父の為に選んできた花をバケツに水切りし、部屋で一番寒い窓際にそれを置いていた。
折角蕾のまま買って来た花が、暖かい部屋の空気で開いてしまっては勿体ないと思ったからだ。
花屋などとうに閉店している時刻の夜中十一時。
漸くキャリーバッグに着替えをつめて寝室から出て来た私は、「何かくれるの?」とばかりに駆け寄って来て私を見上げる顔が、えせる一匹分しかないことに気付いた。
「えせる? ロスはどこにいるんだい?」
尋ねてみたが返事が返るはずもなく、えせるにパセリを一枝やり、何か食べ物を貰っている気配は決して逃さない(ウサギの)アイオロスが何処から走って来るか、と部屋に視線を投げた。
が、一向に白に茶色のブチの姿が現れない。
怪訝に思った時、私は漸く、エクササイズ・パンの砦が一カ所破られていることに気付いた。
「ロス! ロスがそっちにいる!!」
(人間の)アイオロスは、「は?」と面倒くさそうにコンピュータに向かっていた顔を上げた。
「俺は最初からこっち側にいるが?」
「そうじゃなくて! ウサギのロス!」
「ん? ああ、そういえば、さっき人の足を引っ掻いていきやがった」
「そんな……! 気付いたのなら戻してくれれば……!」
「だってすぐ居なくなったし」
「こっちにも居ないよ!」
慌ててエクササイズ・パンを跨ぎ、ウサギの姿を探して、そして、とても見たくないものが視界を過った………。
無惨に食い散らかされた、薔薇の花びらが。
思わず息を飲んだまま声も出ずに固まった私の後ろで、のっそりとアイオロスが立ち上がる気配がした。
「なんだ? 何固まってんの?」
「ロス……あれ………」
「おお、見事に食い散らかしたな」
そんな呑気な!! とアイオロスを恨めしく思いつつ、生き残った花を調べる。一本を完食してくれればよいものを……気のむくままに味見したらしい。
「……24時間開いてるスーパーに連れていってやろうか?」
ウサギの越境に気付いていながら手を打たなかったことに多少罪悪感を感じたのか、アイオロスがぽんぽん、と私の頭に手を置いてきた。
「うん……有り難う……でも、スーパーの花は傷んでるから、生き残っている花だけでなんとかするよ……」
「花が無事でも葉が齧られてたりするがなあ」
「仕方がない……素直に、ウサギに食べられた、と言うしかないだろう」
「お前、マジで、そう言うの?!」
アイオロスはお腹を抱えて笑っている。と、漸く、白いウサギがソファの下から顔を出した。
ウサギを柵の向こう側に戻し、当初買ってきたものより1/3は小さくなった花を花束にまとめ、何故か多少機嫌のよくなったアイオロス(案外、よくぞやってくれた、ぐらいに思っているのかも知れない)にコーヒーを煎れ、まあ、それなりにやる事をやって、現在朝の四時。
起きるにはまだ早いけれど、とりあえずシャワーを浴びて、今週の月曜日にドウコに頼んで入手してもらった書類が鞄に入っていることを再度確かめる。
これが、交渉の武器になるか否か。
とにかく、今日からが正念場。

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