9月22日。日本での取材を終え、会議の開かれるベルリン・フンボルト大学にむけて旅立った。
搭乗を待つ間、留守宅を守ってくれているはずのアイオロスに電話する。一週間以上もウサギの世話を押し付けて、さぞかし機嫌も悪かろうと覚悟しつつ、携帯のプッシュボタンを押した。
「Hello, ロス? 朝の忙しいときにすまない。今話しても大丈夫かい?」
「Hi, my sweaty! かまわんよ。日本はどうだった? 仕事は無事済んだか?」
……予想外の上機嫌に、一瞬怯んだ。
何故こんなに楽しそうなのだろう?
何が心配といって、一番心配なのは、(ウサギの)アイオロスだ。えせるの方は、ロスが酷いことをするとは思えないけれど、ロスはとにかく雄に厳しいから、あのおっとりした子がロスの機嫌を損ねるようなことをして食事を抜かれていたり、あるいは逆にウサギが食すべきでないものを面白がって食べさせられていたりしたら……と思うと気が気ではない。
「ああ……何とか終わったよ。少し湿度が高くて堪えたけれど……これからドイツに向けて発つんだ。そちらは? 君も、ウサギ達も、変わりはないかい? もしウサギの世話が大変だったら、ドウコに預かってもらえるよう頼んであるから……」
ロスが臍を曲げないように、つい先にウサギの様子を尋ねそうになったのを間一髪で名詞の順番を入れ替えて尋ねると、思いもかけない返答が返ってきた。
「おう、なんか結構甘やかされて上機嫌だぞ? こいつら」
……甘やかされて? 誰に?
「なんか、毎日ニンジンやらパセリやら、サラダボールみたいなのに入れてもらってるからな」
えっ……ロスが、ウサギのために、そんなことまで?
ただでさえ忙しいのに、そんな手間までかけてくれて、と感動した私に、その一言は容赦なく降り掛かってきた。
「プチの奴、絶対太ったぞ。絶対食わせ過ぎだ。うちに居た頃はもう少しスリムだった」
……プチ?!
「……ロス、ひとつ聞いてもいいかい?」
「なんだ?」
「君は今、一体何処に……」
その時、ロスの声の向こうで皿やフォーク類をテーブルに置くような音がして、よく知った声が聞こえた。
「あ、朝メシだとよ。家主に変わるわ」
全身から力が抜けた。……パブリックを出て十年が経つというのに、後輩に迷惑を掛ける悪癖は未だ治らないものか……
「カミュ……ごめんよ、またロスが世話になっているようだね……しかもウサギつきで……(涙)」
「いえ、別に構いませんよ。ウサギならうちも随分先輩にお世話になっていますし。まあ、アイオロス先輩も勝手にやってますし」
「いや、ウサギはともかく、ロスは追い出して全く構わないから! まったく、どうしてそう君にばかり迷惑をかけたがるのだろうね……(溜息)」
「おいコラ、別に嫌味でやってるわけじゃねえぞ。お前もいねえのに、あんな辛気くさい寝室で一人で寝られるか!」
どうやら、アイオロスは私が日本に発って三日目に(ウサギの)ロスとえせるをカミュのところへ預けに来て、そのままその晩カミュと飲み明かし、翌日からもちゃっかり職場から近いカミュの家に居座っていたらしい。この分では、私が戻るまでサザークの家には戻らないつもりだろう。
仕方がない。ロンドンに戻ったら、実家が契約しているワインヤードの三十年もののワインを持ってお礼に行こう……(溜息)
私は、アイオロスにとにかくカミュの邪魔をしないように、と再三念を押し、その十倍カミュに謝って、携帯電話の電源を切った。
***
実をいうと、本当は会議は20日から開催されていた。が、この時期、日本は偶然に休日が重なり、National Holidayと週末のコンビネーションで一週間に及ぶ大休暇が形成されていた。春のゴールデン・ウィークに因み「シルバー・ウィーク」と名付けられたらしい大型連休のお陰で、航空券を手配した頃には既に直通便は完売していた。(ビジネスクラスならあったのかも知れないが……)
そんなわけで、出発を2日遅らせ、かつタイのバンコク経由でフランクフルトへ飛び、そこから電車でベルリンへ向かうという、まったく未体験の航路でベルリンを目指すことになった。この時期に1000ポンド台前半で収めようとすれば、そのような複雑な経路以外に残っていなかったのだ。
夕刻5時のタイ航空便で成田からバンコクへ。現地時間22時に到着、24時にフランクフルト行きのフライトで出発し、翌朝朝の6時にフランクフルト着になる。そこから4時間Inter Cityに乗って、ベルリンに到着するのは昼になる。
大変といえば大変な旅程だけれど、見方を変えれば、直行便で行ったところでどのみち到着は夜になるのだから、最初の一日目の宿がいらなくなる、とも言える。加えて、タイ航空は大層サービスが良かったし、シートの具合も悪くなかった。機内食もタイカレーで美味しかったし……。
バンコクでの二時間もそれなりに楽しかった。あまり店を見て回る余裕はなかったけれど、流石に真夜中まで発着便がある空港だけあって、夜十時を過ぎても店が開いている。衝動買いで、以前から欲しいと思っていたiPod nanoを買ってしまった。
バンコクからフランクフルトへのフライトはかなり空いていて、私の席も両隣が居なかったので随分とゆったり過ごさせてもらった。フランクフルトに着く前、フライトアテンダントの女性が蘭の生花を使ったコサージュを女性客に配っていたのが珍しくて、ついじっとその手元を見ていたら、にっこり微笑まれてひとつ手渡されてしまった……(汗)
どうみても手作りのコサージュだ。手間もかかるだろうに。
レディ方は喜んで胸につけたり、髪に飾ったり、バッグに留めたりしていた。矢張り、生花というのは艶やかだ。どんな宝石よりも美しく見える。
東京から7時間、バンコクから11時間のフライトを経て、タイの挨拶「ワイ」を送られながら朝6時にフランクフルトに降り立った。
***
さて、フランクフルトからベルリンまでは電車の旅になる。
チケットは、既にジャーマンレイルパス買ってあった。帰りも一度フランクフルトに戻る必要があることを考えると、正規料金を往復で買うよりそちらの方が安かったからだ。
が、空港のインフォメーションで駅の場所を尋ねた時、最初にチケットのvalidationが必要だと言われた。
つまり、一度はチケット売り場に並ぶ必要がある、ということだ。
朝の六時では、鉄道駅のインフォメーションなど空いていない。唯一人がいそうな場所はチケット売り場のみだが、そこは長蛇の列だった。これでは、並ぶだけで一時間は軽くロスしてしまうに違いない。
迷った末に、電車の中でvalidationできないかと思い、地下のチケット売り場を出てプラットホームへ出るエスカレーターを上がった。すると、地上の高架部分にもう一カ所チケット売り場があり、そちらは地下よりもずっと空いていた。大きさを考えても、こちらがメインの売り場に見えるが……あの標識に従ったら、飛行機を居りた客の殆どは地下に導かれてしまうだろう。
二十分ほど並んで窓口まで辿り着き、チケットに日付印を押してもらって、ついでにベルリン行きの乗り継ぎを尋ねると、ハノーヴァ乗り換えの電車が一時間後にあるという。
たしか、直通があったような気がするのだけれど……。
とはいえ、あまり時間を潰していると午後のセッションにも間に合わなくなってしまうので、結局その電車で向かうことにした(そしてその判断は正しかった!)
思えば、昔は電車といったら一等車しか乗ったことがなかったが、大学の予算から旅費を出してもらっている以上、無駄は可能な限り省かなければならない。私が買ったチケットも二等チケットなので、列車の表示を見ながら二等客車に乗り込んだ。
都合良く空港で数席空席が出来たので、空いた席に腰掛けて窓の外を眺めていると、初老の紳士が英語で話しかけてきた。
”Excuse me. I reserved the seat number 65B….”
座席指定の紙がなかったので自由席だと思ったのだが、どうやらドイツの鉄道は紙で座席指定をするものではないらしい。赤面しつつ謝罪しながら席を開け、指定席はどうやって見分けるのか、と紳士に尋ねると、紳士は笑って座席上部の電光板に何も表示がない席が Reserveされていない席だ、と教えてくれた。
成る程。
しかし、どこを見渡しても、何も表示されていない席などひとつもない……。
これは、ハノーヴァまでほぼ三時間、この大荷物で立っているしかないのか、とやや呆然としていると、車掌がやってきて「ここに座りなさい」と席を示してくれた。
電光掲示はしっかり区間指定されているが、先刻停車した駅で乗り込んで来なかったからキャンセル、ということなのだろう。
お陰で漸く席に着くことが出来、ハノーヴァまで暫し休息することが出来た。
その分、ハノーヴァでトラブルに見舞われることになるのだが……。
(続く)