ヴァヴィロフのアヴェ・マリア

まともに食事をする暇もなかった1st semesterが漸く終わりに近づいている。
もともと補欠で合格した身なので、今回の期末試験でまともな成績がとれないと、退学扱いになる。
我ながら、よくまあ生きている、という感じだ。
ウサギ達がいなかったら、もっと生活が滅茶苦茶になって、とうに脱落していたかもしれない。
あまり構ってやれないのは可哀想だけれど、彼等の食事の時に自分も食べる、と決めたお陰で、少なくとも最低限の生活はできている。


専門のピアノは、同級生に比べて遅れが甚だしいので、勿論手は抜けない。
一日10時間ピアノに費やすとすると、残りの学科、副科はその残りの時間しか割けない。
幸い、楽典はほとんどパブリック時代の知識で事足りるし、ソルフェージュでもそんなに苦労はしていないから、問題は副科だ。
音楽を専攻する場合、必ず自分の専門とは別の分野を副科として選択しなければならない。
アンサンブルなどの時に、相手の楽器の都合を知るための副科だから、弦楽器専攻なら管楽器や声楽、あるいはピアノといった感じだ。同じく、ピアノ専攻の場合も、鍵盤楽器以外から選ばなくてはならない。
本当は、余裕があれば、弦をやりたかったけれど、そういう贅沢を言える身分ではないと判断して、結局声楽にした。
これなら、幸い、基礎はそこそこできている。
私の過去を知っている人間などここには居ないが、流石に教官にはすぐにバレた。
「クワイヤとここでやる声楽は違うから」
と、クワイヤ出身者なら必ず言われるであろう(ほとんどイヤミに近い)忠告を貰って、あまり好きでもないイタリア歌曲を何曲かやらされて、今に至る。
課題は課題なのでこなさなければならないが、学期末の副科コンサートで選ぶ曲は自由に決めて良いと言われた。配点は課題で70、自由曲で30だから、まあ大してウェイトは重くないのだけれど、自由曲くらいイタリア語から離れたい(まあ、ラテン語は別に構わないけれど……)。
さて、何にするか、ヘンデルあたりでも歌うか、と、副科の課題を発表する掲示板を眺めていたら、いきなり声をかけられた。
「君さ、クワイヤ出身者だよね?」
振り返ると、若いのに少々頭の毛の寂しい青年がこっちをみていた。
「……ええ、そうですが」
「僕、ファゴット吹いてるマリオ・カッシーニといいます。副科の声楽、同じクラスなんだけどさ……」
「ええ、知ってますよ。あまりイタリア語得意じゃないんで、今まで話したことなかったけど」
「ああ、そうだったんだ! なんか、えらく落ち着いてるし、ちょっと近寄り難いと思ってたんだ。でも、こないだの課題の発表で、多分クワイヤやってたんじゃないか、と思ってさ。僕も昔やってたから」
そういえば、彼の歌い方もクワイヤ出身者にありがちな、あまりヴィヴラートをかけない歌い方だった、と思い出した。
「三つ子の魂なんとやら、ですよね。あれだけ子供の頃に、絶対にかけるな、と指導されると……」
「そうそう! そもそも、あんまりヴィヴラート強い歌い方、好きじゃないんだよ、僕。それなのに、もっとドラマチックに歌え、の一点張りでさ……」
それは、ベルカント唱法発祥の地のイタリアでは仕方あるまい、と思ったが、とりあえずそれは口にせず、用件を訊ねることにした。
「それで、僕に、何か?」
マリオは、ちら、と周囲に視線を走らせてから、こう囁いた。
「君、ファルセット出る?」
「……は?」
「いや、試験の自由曲の話。ペアでやってもいい、って話だから、出来れば誰かと組みたいと思って。その方が、お互い楽だろ?」
「まあ、それは、そうだけど……」
それは勿論、ソロで一人で舞台を仕切るより、複数人数の方が断然ラクだ。まあ、そもそも人に合わせるのが苦手だと駄目だが、クワイヤをやっていて合わせるのが苦手ということはない。
「で、僕にファルセットが出たとして、あなたは何のパートを歌うんですか?」
何年もまともに訓練していないので、今も出せるかどうかは自信ないが、実はパブリックの頃、声変わりした後も、アルトが弱いときはたまにファルセットで助けてやっていたので、まったく経験がないわけでもない。
しかし、大人になってあまりファルセットを披露すると、結構色眼鏡で見られる、ということも知っている。
なんとなれば、実際、カウンターテナーには結構ゲイも多いからだ。
……まあ、そう見られたとしても、自分の場合ちっとも間違っていないので非難は出来ないが、余計なちょっかいをかけられるのは嫌だ。
自分だけそういう目をみるのは嫌だな、と思っていたら、明るい笑顔がかえってきた。
「そこが相談なんだけどさ、僕もカウンターテナーで歌うから。というか、実は僕高い方が得意で……。イタリア歌曲とか殆ど興味ないし、副科でそこまで時間割くのもあほらしいし、どうせなら昔歌ったレパートリーでなんとかならないか、と思ってさ。あ、僕、クワイヤでソプラノソロやってたんだよ」
昔って、一体いつの話ですか?!
(というか、君、そもそも年いくつ?!)
……と、思わずツッコミそうになったが、それもぐっと堪えて飲み込んだ。
年齢不詳な容貌のマリオは、私の怪訝な顔は完全にスルーして、こう続けた。
「曲は、ヴァヴィロフのアヴェ・マリアでどうかと思ってる。アヴェ・マリアしか言わないから、歌詞覚えなくていいだろ?」
「ヴァヴィロフのアヴェ・マリア?」
「そう。……君も知ってる曲だよ。間違ってカッシーニのアヴェマリア、として広まってしまった曲だけど、どう考えたって、あんなのバロックの形式じゃない。本当は、20世紀のソヴィエトの作曲家、ウラディミール・ヴァヴィロフの作曲なんだけど、彼は自分の曲を古典・バロック時代の作曲家の名前で発表することが多かった作曲家で……だけど、この曲に関しては作者不詳、としたのに、レコード会社が勝手にカッシーニの作品、ってことでディスクをリリースしてしまって、それで定着してしまったんだ。ヴァヴィロフは貧困のうちに癌でなくなったっていうのに、みんなバロックの作曲家だと思ってるから、著作権だってまともに払われているか怪しいよ。ほら、僕、姓がカッシーニだからさ。僕の遠い先祖かもしれない人の作曲ってことで、最初は浮かれてたんだけど、真相を知ってがっかりさ。でもイタリア人は、この美しい曲がイタリア人の作曲だと信じて疑っていないからね。ここはひとつ、きちんと正しい作曲家名で発表して、奴らの目を覚まさせてやりたいじゃないか」
「間違って」の部分をやたら強調して滔々と演説をぶった彼の前に、私の思考は停止した。
……なんでもいいから、イタリア人の鼻をあかしてやりたい、かも知れない。
なにしろ、イタリア人ときたら、教授からしてレッスンの時間には20分遅れて来た上に、5分も早く切り上げていなくなってしまうし、学生は練習室の予約をしていても時間通りになんか絶対あけてくれないし、ひとつ質問すると10倍くらいの長話で返してくるし(うち質問の答えは5%程度)、挨拶しただけなのに勝手に友達だと思ってるし!!!!!
「いいですよ。やりましょう」
……と、気がついたら、この口が答えてしまっていた……。
……で、マリオに「これ聴いといて」と渡されたYouTubeの演奏をききながら、今日もウサギと夕食をとっている。
この録音は、どうやら”Casteldivi“というオランダのトリオによるものらしい。まあ、僕のファルセットも、このペアの左の方に近い音がする。右は、カウンターテナーというより、もうソプラニストに近い。声だけきいたら、女性と区別がつかない。
http://www.youtube.com/watch?v=f_dqHBsu6uw&fmt=18

ただし、この録音は、実音(ト短調)より半音高くしてある。
カウンターテナーによるカッシーニ…もとい、ヴァヴィロフのアヴェマリアといえば、同じくソヴィエトのカウンターテナー、スラヴァの録音が有名だ。
私自身、まだパブリックの学生だったころに、CDショップで彼のこの曲が流れているのを聴いて、その場でCDを買った。
彼のアヴェマリアは、歌詞に反して汎神的というか、なんとも言えない色気がある。聞くにはいいけれど、自分でこういう風に歌えるかといったら、ちょっと恥ずかしくて出来ないだろうな、と思う。

この曲は、テナーでも歌えて、有名なところではアンドレア・ボッチェリの録音があるけれど、私はこっちのジャマイカ人テナー、Keith MitchellがYouTubeで拾ったテナーの音源の中では一番上手いと思う。残念ながら、録音状況が酷いのと、ピアノがかなり酷いのだけれど。
Keith Mitchellは本国ではテレビにも出演しているようなテナー歌手だけれど、ジャマイカで活動しているということもあって、あまり知られていない。CDが出たら欲しい、と思う。
http://www.youtube.com/watch?v=DNkv6LnG-e0&fmt=18
……ただ、やっぱり、自分で歌うなら、デュオの方が面白そうだ。
しかし、よくよく考えてみたら、マリオだってイタリア人じゃないのか?(少々複雑)

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