ひょんな偶然から、カミュがサンタ・チェチーリア音楽院に居ると分かった。
懐かしさや嬉しさで一杯になった俺に、カミュはきっぱりといきなり「講師」と「一学生」という線引きをし、徹底的に俺からのコンタクトを避けた。
カミュから近況を聞き出せなかった俺は、その状況に焦れて、学生課に行ってカミュの住所や電話番号を聞き出した。
カミュの緊急連絡先が俺になっているのを見て、どうしてすぐに連絡をくれなかったんだと不満のような不安のような気持ちが胸の中で膨らんだ。
その後、手に入れた電話番号に電話するも、一向に受話器が持ち上がる気配は無く、決まりきった音声メッセージを何度も聞いた。
メッセージに対して返事が返ってくることも無く、仕方なく電話を諦め手紙にする。
今どうしているのか、ちゃんと生活は出来ているのか、困ったことは無いか、イタリア語で苦労している事はないか、聞きたいことが、確認したい事が次から次へと浮かんでは消える。
自己満足の質問だと分かっていても、やっぱり気になる。
そのうち、音楽院でなんとか一度、カミュを捕まえるの成功して、クリスマスはどうするのか聞いたら、イギリスには帰らないけれど行くところがあると言われてしまった。
一人で寂しくクリスマスを過ごすのでなければ、本当に行きたい場所があるのなら、そりゃあ俺はカミュの希望を優先するしかないわけだけど……。
寂しいなぁ、と思う。
同じ国にいるのに、こんなに近くにいるのに、って思う。
結局、俺自身のクリスマスは例年通りで、師匠の教会に行って深夜のミサで楽器を弾き、一泊させて貰って帰宅した。
誰も居ない屋根裏部屋はがらんとして静かで、寒かった。
いつもはそんな風に感じないのに、カミュが今、同じローマに居ると知っていると、そんな風に感じ方が変わった。
そしてその晩から、久しぶりの風邪をひいた。
体の節々が痛くなって、熱が体に篭ってうまく発熱できないような状態から、本格的に高熱が出て、頭が痛くなって、喉が痛くなって、咳がでて……と。
どうせすることもないし、と割り切って、時間をかけて通過させ、やっと大晦日の晩に、いったん平熱より下がった体温が微熱くらいになり、これで普段どおりに生活して大丈夫、となった。
今まで漠然と飲み物しか取りたくなかった気分から、食べたい物がはっきりとしてお腹が空いた状態になったので、ミルクを温めて、パサパサになったチバッタに蜂蜜でも塗ってちょっとつまもうと、布団から這い出し、小さな冷蔵庫からミルクを取り出す。
まだ痛んでいないことを確認して、沸騰させないように鍋の側でじっと待っていると、
突然電話が鳴り響いた。
肩がビクッと上がった。
時計は既に新年から一時間は過ぎている。ニューイヤー・コールにしては時期を外してるし、そんな事をしてきそうな連中からは年越しパーティーの招待を貰い、風邪を理由に断ったから電話をかけてくるとは考えにくい。
酔っ払って? 考えられるけれど……。
でも、それよりなんかいやな感じがする……。
そんな黒々とした予感が一気に頭の中で走り回る。
電話は鳴り止む気配を見せず、俺は恐々受話器を耳に当てた。
「こちら、ウンベルト1世総合病院です。シニョーレ・バーロウは貴方のお知り合いですか?」
飛び込んできた言葉に、一瞬頭が考える事を拒否した。
というより、全力で悪いことを考えそうになる自分の思考回路を塞いだ。
電話口の問いかけに、是と答えるためにどれだけの気力が必要だったか、それは続けて聞こえてきた話の内容に膝が砕けそうになって実感できた。
ウンベルト1世総合病院は、ローマ大学付属の病院で最寄の駅は地下鉄のポリクリーニコだけれど、テルミニ駅の近くにある。
カミュは、そのテルミニ駅の向かい、サンタ・マリア・テリアンジェリ教会の裏側、木立の下に頭から血を流して倒れていて、救急車で病院に運ばれたそうだ。
急いで家を出て、駐車場に行き車で病院に駆け付けた。
カミュは俺の顔を見るなり、「うさぎに食事をやってくれ」と、鍵を突き出して一言。
俺は何秒間か開いた口が塞がらない状態になり、次いで思わず、「ふざけるな!」とカミュにきつい声を出していた。
大体、テルミニ駅は治安が悪いという事で有名だけれど、それはもっぱらスリやジプシー(ロム)の多い状態を指して言われていた事だ。
2000年に巡礼者のために大々的に駅の模様替えが行われ、近辺の様子は大幅に改善された。
イタリアでもっとも被害に会いやすい犯罪は、スリやひったくりの類だけれど、テルミニはそれこそプロも組織的に往行しているところで、プロのクオリティが高ければ高いほど、被害者は掏られた事に気づかないし怪我だってしない。
一体、何がどうしてこんな怪我を負ったのか!
どうして、と問おうとした矢先、少しぼおっとしていたカミュの目の焦点が定まり、カミュが言った。
「……ごめん。ウサギの世話があるから家に戻るとさっきから何度も言ってるんだが……話が通じない。話をつけてくれれば自分で行く」
痛みが酷いのか、眉を少し顰めて、話す様子も億劫そうだった。
そのカミュの状態が、冷水のようにカッカしていた俺の頭を冷やした。
俺はカミュのベッドの端に腰掛けると、カミュの顔を覗き込むようにして包帯の下に隠れる傷を探した。
「ごめん……怒って悪かったよ……ただ、凄くびっくりして……。看護婦さんとか、お医者さんの話、分からなかった? 後頭部を怪我しているからCTスキャンを撮った方がいいって言ってる。今日はもう遅いから、明日、もう一度カミュの様子を見てから決めたいって……吐き気とか無い? 物凄く痛いところとか?」
通訳だと言い張って、無理を言って面会時間の終わったカミュの病室に乗り込んだ。一緒に来てくれた看護婦が、俺がカミュに英語で話しかけている様子を見てイタリア語でカミュの気分を聞いてきた。
ローマ訛りの強いイタリア語での質問を、英語でカミュに質問した。
「……訛がきつくて……あと、医学用語はまだよく分からない。ウサギ達、昨日の朝7時にペレットをやったきりで……牧草もそんなに入れてこなかったし、最近水をよく飲むから、もう空になっているかも知れない……明日まで退院出来ないんだったら、すまないが、世話を頼む」
カミュの頭の中には、本当にうさぎの事しかない様子だった。
俺は、とにかくウサギの世話はしにいくからとカミュを宥めて、さらに幾つかの看護婦からの質問を繰り返し、鍵を受け取って病院を出た。
車で30分と少し、辿り着いたカミュのアパートは80年代、もしくは70年代くらいに建てられた感じの、取り立てて個性の無い建築物で、一階のカミュの部屋のドアを静かに開けると、暗闇の中、物凄い勢いで走り、逃げるような物音がした。
明かりをつければ、それは当然うさぎで、四角くいサークルの隅に、灰色の小さなウサギが身を硬くして縮こまっていた。
「久しぶりだなぁ、プチ……」
思わず声をかけて手を伸ばすと、プチはサッと動いて更に反対側の隅、トイレBOXの中に飛び込んだ。
BOXの中に牧草はゼロで、カミュの心配は当然か、と思ったとき、BOXの中に黒い塊があってぎょっとした。
「……あ……もしかして、お前が、ブラックベリか……?」
丸めた黒い毛布の塊のように、無言で、静かに、気配も薄く、もう一匹のうさぎを発見。
この二匹のうさぎ相手に、探し物の名前をつぶやきながら室内をうろうろした。
何も無い部屋だった。
カミュのロンドンのアパートメントとは全然違う。
なんにもカミュらしい、居心地のいいものは無くて、家具と呼べるような代物すらなくて、ダイニングに小さなテーブルと椅子があるだけ。
寝室には小さなベッド、クロゼットの中の衣類だって必要最低限。
本は辞書と音楽辞典、楽譜、手放せなかった照明の本が数冊。本棚が無いから寝室に並べて置いてあった。
ため息が出た。
忙しくて揃える時間が無かったのか、はなからそろえる気が無かったのか。
あまりにも、ロンドンで自分の生活環境を居心地良くしようと最大限のスキルと技術、時間をかけて作り上げられたカミュのあの部屋と違いすぎて、その落差がまるで今のカミュの精神状態を表しているようで、内臓が絞られるように痛かった。
やっと見つけた大き目のバリケンネルに二匹のうさぎを詰め込み、サークルを折りたたんで車に乗せた。
「暫く揺れるけど、我慢しろよ」
とうさぎに声を掛け、明け方前のローマ市内を走った。
翌日、朝一番で大き目のワゴン車を友達に借りて再度カミュのアパートに行き、部屋のものをごっそり詰め込んでまた戻った。
冷蔵庫の中にはたぶんウサギ用の野菜しかなかったし、運ぶものはダンボール3箱にもならなかったんじゃないかと思う。
ちょうど面会時間が始まる頃合だったので、そのまま病院に行き、カミュの容態を確認。
うさぎにはちゃんと食事をやった事、夜に行った時には確かに牧草も水も空になっていた事を伝えた。
ドウコたちの医療の考え方で言えば、人間は打ち身が一番怖い。
強い衝撃があっても、たんこぶも出来ず、青あざにもならず、だとその衝撃は全て内側に篭ってしまうらしい。
今回のカミュの場合は出血して完全に外傷になっているけれど、出来れば十分その箇所に気をあてたい。
恐々カミュの後頭部と枕の間に手を突っ込んで、響く箇所にもう片方の手を乗せてじっと其処で呼吸するような感じを保つ。
手が温かくなってきたところで、カミュに昨日の出来事の詳細をたずねると、記憶が曖昧だと言う。
話の感じでは、大晦日に浮かれた酔っ払いの誰かに突然頭を殴られた、という可能性が高いけれど、財布も無くなっている事から警察に被害届けを出す事にする。
20分位ポツンポツンと会話を続けていると、カミュがうとうとしだしたので、そっと病室を出て、入院の手続きを済ませ、未定の検診の順番が分かったら携帯に連絡をくれるように受付に頼んだ。
病院を出て、今度は古道具屋で以前から気に入ってはいたものの使い道が無くて眺めていただけだった背の高い、奥行きのある食器棚を一つ買い、IKEAでステーショナリー・ロフトベッドのセットを購入。
一階の事務所の家具の配置を通り沿いに寄せ、一番奥くにそのベッドを置き、それを隠すように古い食器棚を置いた。
夕方近くになって、やっと待っていた病院からの連絡が入り、すぐに車を走らせ、診察の間、通訳の真似事をし、CTスキャンを撮ってもらい、その結果にようやく最後まで詰まっていた息を吐ききった。
特に頭蓋骨にヒビなどの損傷は無く、頭蓋骨内にも異常は見られないとの事。
良かった。
カミュの眩暈や頭痛が治まっていない事、通院が可能な状態では無い事、を合わせて暫く入院をして様子を見てもらうことにした。
カミュはうさぎの事を心配がって居たが、俺が責任もって面倒を見ると言いくるめて、この日から共同部屋に移動。
何かほしいものがあるか、と聞いたら教科書や楽典を持ってきてくれというので、明日、カミュの頭痛や眩暈が無くなっていたら持ってくると約束した。
食欲は無いというけれど、たぶんこの一学期間の不摂生が溜まっているのだろうと判断して、とにかく良く眠るように言い残した。
病院から戻ると、今度は俺は大急ぎで古い食器棚の天板に防水加工のしてある合板板を取り付け、さらに棚と棚を連結するスロープを取り付けるために板をくり抜いた。
正面のガラスを外し、目の細かな金属の網を張り中に空気が自由にいくようにする。
自宅近郊にあるうさぎ用品を売っている店をネットで探し、牧草やうさぎのおもちゃを買い、スーパーで生野菜を買った。
カミュにはまだ言っていないが、カミュをあのアパートに帰す気は全く無かった。
あそこにカミュは住んじゃいけない。
それが、はっきりと分かる。
だから、絶対に嫌がると分かっていても、全て独断で済ませた。
我ながら凄いスピードで処理できたと思う。
カミュのアパートの大家さんにも違約金を払うことで話を付け、古い食器棚は4階建てのうさぎ小屋にした。
一階の事務所は住宅用に使わないって約束で借りているけれど、どうせ今は設計事務所として閉じてるばかりだから、カミュが生活の場として使ったって問題ない。
そして、何よりもピアノだ。
ピアノ業者に電話してアップライトのピアノを引き取ってもらった。
どうしてもカミュにピアノをプレゼントしたくて、モデルのバイトを増やして、ちょっと無理をして手に入れた、そして、カミュが喜んでくれた思い出の楽器だ。
でも、もう一年以上も誰にも弾いてもらっていない。
それを、思い切って処分して、そして、それを下取りとしてファツィオリのセミグランドを購入した。
ファツィオリは1981年創業の新しいピアノ・メーカーで、世界最長のピアノ(3メートル以上)を作ったメーカーだと、以前ミラノに行った時に知人に教えてもらった。
手作り、音色にこだわっているとも言っていた。
その友人のつてで、スタンウェイのアップライトを下取りしてもらい、セミグランドのF183を手に入れた。
ミラノの代理店で、散々悩んだ結果、一番小さなサイズのものではなく、二番目のものにした。
事務所の大きさを考えると、絶対に蓋を開けられないけれど、たぶんカミュが好きな音が出せて、なんとか練習に使えるのはこっちだと思ったからだ。
細々とした事をあちらこちらに行って済ませ、昼間にはなるべくカミュの病室に入り浸りながら五日目、七針後頭部を縫ったカミュはやっと退院が決まった。その間に警察の事情聴取は済ませたし、新学期には何とか間に合ったわけだ。
退院の手続きを済ませて、カミュを車に乗せ、一路事務所に。
カミュを事務所の前で降ろして鍵を渡して中に入って待っててもらうように頼んで、俺は駐車場に車を止めに行った。
駆け足で事務所に戻ってドアを開けると、セミグランドピアノの前に立ったカミュが振り返り、なんだか微妙な味の食べ物を食べた人のような顔をして、
「何、これ?」
と言った。
「ピアノ。カミュの練習用。音はスタンウェイの方がいいけど、練習するのにアップライトじゃ駄目だろ? だから」
カミュは、短く、はあっ、とため息をつくと、「……だからって、何もお前が買うことは」と呟くように言った。
「俺がカミュに何かしたかったからそうしただけ。音は、絶対にカミュもスタンウェイの方が好きだと思うしね。愛着もあったけど……。でも、とにかく、今は毎日ピアノを弾いてなきゃいけない時だろ? だったら絶対に自分の家にあった方がいい」
カミュの表情はにわかに険しくなった。
「自分の家って……! それは無茶だ! アパートの契約だってまだ半年以上残っているし、そもそもこの部屋は居住用には使えない契約だってお前言ってただろう? ……随分世話になったし、心遣いには感謝するけど……それは無理だ」
「アパートはもう解約した。事故で怪我して通院が必要だからってちゃんと事情を説明したから大丈夫。事務所は開店休業状態だし、生活っていっても、どうせ昼間はカミュも大学だろ? 問題ないよ、カミュが自分からここに住んでるって言いふらさなきゃ。
荷物も全部運んであるから、適当に収納とかはやり直して。うさぎは、ちょっと適当なサイズのパネルを何枚かまとめて買った方がいい。ピアノは齧られない様にプロテクトしなきゃ駄目だし、そうするとかなりいびつな形の運動場しか作ってやれないから」
「解約って、お前、勝手に……!」
カミュは、苛ついたように部屋を歩き回り、そして食器棚の前で硬直した。
「……何、これ……」
カミュは目を丸くして、3階と2階の棚で丸くなってうつらうつらしている灰色と黒いうさぎを見つめていた。
「うさぎの家。部屋が狭いから動き回れなくてかわいそうだろう? 平面は増やしてやれないけれど、縦には伸ばせるから……。一番下の木の扉の向こうがトイレ。プチは4階まで行くけど、ブラックベリはまだ一番下のトイレとその上の階までしか行かないな」
俺は、カミュの背を軽く押して、食器棚の後ろを覗かせた。
「で、こっちがカミュのベッド。本とか楽譜はみんな机に置いておいた。場所がなくなったら適当に事務所の棚使っていいから。
……生活できないって言うけど、ローマでピアノ付のアパートを探すのはめちゃくちゃ難易度が高いし、俺と一緒の部屋とかじゃ嫌だろ? でも、あんな遠くから学院に通うなんてナンセンスだ。遅くまで練習室に残って、それで今回みたいな事件に巻き込まれて練習できなくなるなんてのも馬鹿げてる。だったら、現状で一番ベストな解決策はこの形だと俺は思う」
俺は結構な勇気を集めて、覚悟を決めてそういい切った。
一方黙って俺の話を聞いていたカミュの表情は硬く厳しくなり、コメントの声は低かった。
「……あのピアノ、買ったのか? それともリース?」
「買ったんだよ。スタンウェイを下取りに出して、随分こっちも無理を言ったしね」
カミュはもう一度溜息をついた。
「……じゃ、その分は払う。引っ越しにかかった費用も。だけど、これがベストな解決策だなんてことは絶対にない。現に、お前は契約違反をしているし、随分無茶な出費もしている。
私も、お前の事務所を乗っ取るような真似は嫌だ。
今から、別の部屋を探す。……見つかるまで、暫く厄介になるけど、すぐに出ていくよ」
カミュの言葉は深く俺を刺したけれど、やっぱり俺も溜息をついてその痛みをやり過ごすしかなかった。
「お金は、家賃としてもらうからそれ以上はいいよ。余計なお世話かもしれないけれど、家探しにやっきになって時間の使い方を間違えるなよ? それから、今俺が提案した条件以上にいい案件じゃなければ、俺はカミュをこのうちから出さないから」
「……出さない、って……まるで保護者だな。……まあ、こんな怪我していたら、何を言っても無駄か……」
保護者っていうより、本当に心配だから……あんな部屋で暮らして欲しくないし、怪我なんてして欲しくないし、病院で心細い思いをさせたくないから……変わらず愛してるから、こんな馬鹿馬鹿しい、強制なんて出来るわけもない事を条件として言っている。
もちろん、カミュがやみくもに出て行こうとしたら、こちらにも考えはあるけれど……それだって大の大人を拘束できるような威力は無いだろう。
カミュは、口を引き結んで、絶対に譲らない、と決意して見つめる俺の顔を見てちらりと苦笑すると、回れ右して食器棚の前に戻り、しげしげと中を見て
「……凄いな……これ、もとは食器棚だろう? お前が細工したのか?」
と言った。
少し虚をつかれたけれど、カミュの話題を変える、というあからさまな態度にのっかって、俺も変則うさぎ小屋に近づいてカミュの隣に立った。
「前からこの棚いいな、と思ってたんだけど使い道が無くて気にしてるだけだった。でも、うさぎって地面中で蟻みたいに巣を作ってるだろう? だったらこんなのもありかなって」
天板の上に敷いた床材は洗えるし、天板自体は撥水加工がしてあるから掃除も楽なはずだ。
うさぎの姿が目の高さに見えるのも面白い。我ながら良く出来たと思っている。
夕食はカミュの退院祝い、という事でトラステベレに食事に出た。
カルロメンタというリストランテ兼ピッツエリア。安くて味もいい。
シーフード系の食事をしながら、これからの変則共同生活のルールみたいなものを決めた。
特に誰かについてイタリア語を勉強している様子もないので、俺との会話は全部イタリア語にするか、という提案は圧倒的な拒絶のオーラとピストルの弾もはじき返すような険しい睨み付ける目と一緒に却下された。
試験は基本口頭試問だから慣れておいたほうがいいと思うのだけれど……昔からカミュはイタリア語を嫌っている。
学校で困ったことが無いか、と聞いたら特に無い、との事。
指導教官とうまくやっているか、と聞いたら、「微妙」と返ってきた。
続きを促すと、カミュは、「レッスンが進まないからな」と苦笑いした。
そして、
「この歳になって、落ちこぼれの気持ちが良く分かった。なにせ落ちこぼれた事がないからね」
と、大きく乾いた笑みを浮かべていい切った。
胸が詰まった。
すぐには、言葉が返せなかった。
知ってる。カミュはいつも優等生で、その上他の学生の面倒を任されるぐらい教師たちからの信頼も厚かった。
俺は、一瞬呆然としてしまった自分の意識を現実につなぎ戻して、言葉を探しながら懸命にカミュに思いを伝えようとした。
「……カミュ……きついと思うけど、でも、今自棄になったり傷付いたりする事はないから……絶対にないから……。
俺だって、復学したときは、やっぱり違ったよ、パブリック出てストレートに学院に進んだときとは。
もっと色んな事が怖くなってたし、どうしたって昔の自分と比べられるし、自分でも比べてしまうし……。
今の師匠にも、学院に戻ってから丸一年以上は見てもらえなかったよ。
でも、比較するのは時間の無駄だ。
昔の自分と、今の自分。誰かの技術と自分の技術。出来る事と出来ない事。
自分が満足できる比較の結果は慢心につながるし、比較して自分を傷付けていけば、きっとどこまでもその連鎖は続く。
もし、辿り着きたい場所がカミュの中で見えているなら、それだけを見て、比べるまねは止めた方がいい……うまくいえないけれど、でも希望から目を逸らさないで、そこに行くまでの道に集中して、どうしてそこに行けるか考えて……そういう事に、時間を使ったほうがいい。
みんな、辿り着き方は違うと思うし……いや、だからこそ、いい先生っていうのは必要なんだろうけれど……でも、今の先生、あんまり構ってくれないかもしれないけれど、無茶な注文もだしたりしないだろう?
入学までに相当頑張ったと思うけれど、でも、やっぱりまだ付け焼刃だろ? しっかり遅れを取り戻して、次の学年までにカミュが教えてもらいたいと思える先生を見つけられればいい。
俺は、そう思うよ?」
一度唇を噛み締めて、俺は続けた。
「それから……カミュがついてる今の先生、色々評判は聞いてたんだけど……逆に、受け入れてもらえる可能性が高いのも見えたから、勝手に色々進めた。
まさかチェチーリアに来てると思わなくて、フォロー出来なかったけれど、彼女のレッスンがそんな感じなのは、別にカミュがどうとかってわけじゃなくて、いつもそんな感じ、というか……」
カミュはカルロメンタ一押しのイチ押しの「ラディッキオと海老のタリオリーニ」を口に運びながら淡々と、
「知ってるよ。そういう扱いを受けているのは私だけじゃない。彼女の目下の期待は、サミュエル・リン──それ以外は眼中にない、という感じだ。確かに、凄いよ、彼は。同期の中でも突出している。
大体、私も毎回時間どおりにレッスンを見てもらえたとしても、こっちが課題においつかないからね。別に今はそれで構わない。
人生は長いし、落ちこぼれの経験もないよりはあった方がいいだろう。
──ただ、この先何年も彼女では駄目だ。彼女では、今欠けていることを十分に教えてもらえない。テクニックをきちんと教えてくれる先生を探さないと」
と言った。
「カミュ、ピアノ科に友達いる? 相性っていうのもあるかもしれないけれど、先生の情報をお互いに交換しあうのも結構為になる。学院の先生じゃなくても、トレーナーとかしてる人もいるだろうし……。これからは俺も気をつけて見るけれど、でも、まずはあんまりあせりすぎないで、練習時間長いのもいいけど、小まめに休みを入れて、体を解して、夜はちゃんと寝て、食べるもの食べて、ってしないと、いい音だって出ないよ?」
思わず母親のようなセリフを言ってしまう事に、自分でも口うるさいな、と思う。
でも、実際またカミュは痩せていたし、なんか毛艶が悪いというか……で。
すると、カミュは笑いながら、
「昔、私が散々そう言ったときには、お前はまったく耳を貸さなかったじゃないか。……まあ、今なら、あの時のお前の気持ちも分かる。そんな事を言ったって、課題が出来なければ、先がないんだから。……ああ、言い忘れていたけど、私は補欠合格扱いなんだ。だから、今年まともな成績をおさめられなければ、来年以降はない」
と言った。
俺がカミュの忠告を真面目に聞かなかったのは最初に音楽院に在籍した2年間のことで、当時、カミュは殆ど電話にも出ない俺のことを心配して、手紙をくれたり、食べるものを送ってくれた。イタリアの郵便はなにしろ届かないことで有名だから、俺はカミュがそんな贈り物をしてくれていたことに何ヶ月も気付かなくて、軽く電話口で口論になったりもした。
以降、カミュは小包はFedexで送るようになり、中身よりも送料の方が高い、なんてことも何度もあったけど、カミュは何かと口実をみつけては、「ちゃんと食べてるか」という手紙と一緒にこまごまとしたものを送ってきた。
今なら、当時のカミュがどんな気分だったか、よく分かる。
決してないがしろにしていたつもりはないけれど、カミュにはそう見えただろう。
それにしても、昔ってもう十年も前の話じゃないか……と脱力していたら、ふとカミュが真顔になって、言った。
「体を壊したら、二年次を待たずに終わりだから、最低限は気をつけるよ。でも、そもそもが相当の無茶をしなければ達成出来ない事だし、この程度で故障するようならどのみち未来はない。それならさっさと結果が分った方がいい。自棄になっているわけじゃないんだ。
辿り着きたい場所は、私にとって、諦めなければいつか辿り着ける、というものではないし、そのために無限に時間を費やせるものでもない。どんなに生活を削っても、一日は24時間、一年は365日……その間に出来ることで未来が決まる。そこの部分は、学生時代に四年以上の基礎を積んだ上で音楽院に復帰したお前とは事情が違うし、多分目的も違うだろう。……その点だけは、了承しておいてくれ。
それから……ひとつ、忠告しておく。お前も、学生を教える立場だから。
お前は多分気にもしないだろうけれど、同じ専門の学生は、仲間でもある一方で、厳しい競争相手でもある。本当にいい先生の情報だったら、そう簡単に敵に塩を送るような真似はしない。皆、そういう危うさも承知の上で、仲間をやっている。
だったら、同じ専門の学生には、そういう事は尋ねない、というのもひとつの礼儀だ。
上辺だけの付き合いならお互い相手を尊重できても、一歩踏み込んだとたんに泥沼、ということもある。親切心でアドバイスをやっても、そのように受け取ってもらえるとは限らない。……学生に、あまり安易にそういう事は言わない方がいい」
「分かってるよ。でも、アンテナを張っておくのは悪くないだろう? それに、学生は悪い先生の噂話なら容赦ないじゃないか。だったら逆に考えればいい先生だって見えてくるだろう?」
俺は苦笑してカミュに言った。
きっと自分も時には酷くこきおろされたりしてるんだろうな、と思いながら。
本当は、カミュが今になってピアノを真剣にやりだした本当の目的は何なのか、聞いてみたかったけれど、そこに綺麗なものばかりが詰まっているわけではないような気がして、ただ知りたい一心で秘密を暴いてカミュを傷つけた過去を思ったら、結局口には出来なかった。
カミュは、「本当に分かっているとは、あまり思えないな……」と独り言のように呟いて、そのまま暫く黙り込んだ。
どうしてそう思うんだろう、と俺は思う。
だけど、ただ闇雲に「どうして」を繰り返しても、心の距離は縮まらない。
去年の二月、結局カミュを失ったとき、それを学んだ。
「どうして」と相手に自分の気に入る説明を求めるんじゃなくて、自分で相手を分かる努力をしなくちゃいけない。
……もっとも、俺だって、そう努力してるんだけど……。とくに、カミュの事は、一番努力している筈なんだけど。
カミュのことを分かるのは難しい。リアや、ウォルトや、ロスに見えていることまで、俺には見えていない事が多くて……
だから、カミュが期待が外れて失望する、っていう構造も、昔からあまり変わってない。
「ああ、ひとつ、思い出した。共同生活の約束事」
ふと、カミュが顔を上げて、言った。
「お互いの仕事には口を挟まない。私もお前のヴァイオリンについては何も言わないから、お前も、私のピアノにはコメントは控えてくれ。それが、同じ家に住む条件だ」
いちいち凹む事を言ってくれるカミュに軽く落ち込みながら、俺はカミュのピアノに関しては何も言わない、という約束をした。
トゲトゲで毛を逆立ててはいても、とりあえず当分は目の届くところにいてくれるのだから、まずは良しとすべきだ。
無茶をするにしても、あんな遠くのアパートで一人で、とか、夜遅くまで寒い大学の練習室で、とかいうよりはずっといい。
それから三日後、カミュはようやく頭の包帯がとれて、大学にも通い始めた。
このまま5年間、この家で暮らしてくれたら良いけれど……カミュのことだから、いつ何処から別の物件を仕入れてくるか、油断ならない。
何か、少し意地になっているような感じもする。……まあ、そうさせているのは、俺の過去の失敗が原因なんだろうけど。
打撲の後処理も心配だし、一度ドウコに見てもらえば、無理な意地みたいなのも解けるんじゃないか、って気もするんだけど……
問題は、どうやってロンドンに連れて行くか、だよな……(溜息)。