夕方から、冷たい雨が降っていた。
今年の冬は気味が悪いほど暖かく、雪がちらついたのは十一月中に二度ほどだけだ。
それでも、雨が降れば、かえって冷気が冷たく四肢に染み通る。
湿った空気の中、服についた水滴を振り払い、アパートの入口に立つ。一歩建物の中に入れば、今度は効きすぎた暖房に噎せ返る。古い建物なので、あまり温度調節がこまかに効かない。
部屋にはウサギがいるので、暖房は毎日弱くして出かけている。鍵をあけて部屋に入ると、暗がりの中、丸くうずくまる茶色の塊が見えた。
「ただいま、ロス」
声をかけてみたが、動く様子がない。流石に、今日の気温では少し寒かったのかも知れない。
そもそも、ウサギは湿気が嫌いだから、雨の日は大抵眠そうに蹲っている。
明かりをつけ、暖房を強くし、ペレットを10g計ってロスの目の前に置いた。
ペレットが皿に当たる音を聞いたロスはすっかり目が覚めた模様で、駆け寄って来て私の足の周りを何週もぐるぐると回った。
これなら大丈夫だろう。
一心にペレットを頬張っているウサギを眺めていると、玄関で物音がして、人間のアイオロスが帰って来た。
***
それから、6時間後。
たまたまテレビでやっていたムーラン・ルージュを観て(2001年のゴールデン・グローブ賞をとったミュージカルの方)人が感激に浸っているのもそこそこにベッドルームに引き込まれて、就寝しようとした矢先、奇怪な物音が聞こえた。
カリ……カリカリ………
「ロス、……何か、変な音が聞こえないか?」
「音? どうせ雨の音だろ?」
「違う、何か、齧る音……バスルームからだ……」
「じゃ、木の枝が窓に当たる音。いいからいいから♪」
「ちょっ……待って……! 絶対何か居る!」
カリ………
弱々しいその音は、ひたと止んだ。
「ほら、止まった。気にするなって。ユーレイでも何でも、俺が伸してやるから♪」
「そういう問題じゃない!! もしかしてネズミか?!」
上にぎゅうぎゅうと伸し掛かって来る体を無理矢理おしのけて、ベッドを下りた。古いアパートだから、もしかしたら排水溝を伝ってドブネズミが上がって来るかも知れない。うちにはウサギが居るのに、凶暴なドブネズミに咬まれて病気にでもなったらどうするのか。
万が一、とびかかられた時に咬まれないよう、スリッパをはいてバスルームへ向かった。矢張り、中で扉をひっかく音が聞こえる。
アイオロスを起こし、ゴミ箱を空けさせ、飛び出して来てもゴミ箱に入るよう罠をはって、そっと扉を押し開ける。
中から飛び出してきたのは、
茶色い、(ウサギの)アイオロスだった………(涙)
「ロス! だから、バスルームを使ったらウサギが中に入って来ていないか、きちんと確かめろと何度も何度も……!!!」
「知るか。コイツが生意気にも人のナニを覗きに来るのが悪い」
「ウサギと張り合ってどうする!! 見てみろ、すっかり傷付いた顔をしているじゃないか!!」
「でもお前だって、コイツが居ないのに何時間も気付かなかったわけだしー」
出て来るなり水入れにとびつき、ごくごくと喉を鳴らして水を飲んでいる(ウサギの)ロスは、すっかり拗ねて傷付いた目をしている。
てっきりソファの裏の定位置に居るのだろうと思っていたし、ムーランルージュに夢中になっていたこともあって、まさかバスルームに閉じ込められていたとは想像もしなかった。
ごめんね、ロス(涙)。
とりあえず、バナナを奮発してご機嫌を直してもらう。漸く機嫌が直って(忘れただけか?)走り始めたのをみて、(人間の)ロスが恨めしげに言った。
「俺も、折角ノってる所中断されて、機嫌が悪いんだけど?」
折角も何も、君は毎晩やる気満々だろう……(溜息)
「お前、今度、あれ着てみない? ニコール・キッドマンが着てたシースルーのレースのやつ」
着ません。
「黒はお前には似合わないな、白がいい、白」
一体、どこが機嫌が悪いんだ?
「さーて、続きやろう、続き♪」
かくして、再びベッドルームに連れ戻されて今に至る。時刻は夜中1時。
明日は発表だから、絶対2時には寝ると決めていたのに……絶対無理だ………(涙)
追記:
「ムーラン・ルージュ」は「椿姫」のパロディだと思っていたが、「ラ・ボエーム」のパロディでもあるらしい。確かに、詩人や作曲家が出て来る辺り、後者の影響を感じる。コミカルな仕上がりも、こちらの影響だろう。
「椿姫」「ラ・ボエーム」共プッチーニの代表作だが、私は後者の方が断然好きだ。昔、そう断言して、親戚に苦笑された事がある……思えば、その頃から、階級社会に反抗的だったのかも知れない(笑)。
あいつ、おかしいぞ?
人がバス・ルームに入ると必ず付いて来て人の足元をうろうろする。
何考えているんだ?