「ある十二夜」に治まりきらなかったエピソードその1、だそうです。
「お、なんか今日はまた随分と暗雲立ち込めてるな。お前の頭上」
ドア側の壁にベッドを寄せているアイオリアは、その上に寝そべりながら翌日のスペイン語の課題をやっていたが、よろよろと部屋に入ってきたミロに気付いて声を掛けた。
「夕食どうするんだ? もうそろそろ行かないと閉まるぜ? オレ達はもう食って、一応お前が間に合うかどうか分からなかったからサンドイッチ貰っといたけど」
「うーん……ありがと——そっちもらう……」
小さな明り取り用の窓に面している机で歴史のレポートを書いていたカミュは、くるりと反対側のベッドに倒れこんだミロを見て尋ねる。
「紅茶、淹れて来ようか?」
「うーん……」
唸ったきりはっきりと返事をしないミロをそのままに、カミュはミロの机から大きなマグカップを勝手にひょいと取り上げると部屋を出て給湯室へ向かった。
給湯室では電気コンロでお湯を自由に沸かせるようになっている。
そこでカミュは少し考えて、コンロに使い込まれたケトルを掛けるともう一度部屋へ戻り、アイオリアと自分の分のカップ、そしてアルミの四角い箱を手にしてまたもと来た道を戻った。
お湯が沸騰する一瞬手前でケトルを下ろし、陶磁器の大きくて古い紅茶ポットに一気にそれを注ぐ。小さな丸い蓋をして、数分、葉がすっかりポットの底に沈んでいる事を確認して、カミュは三つのカップに紅い液体を注いで給湯室を後にした。
部屋では、ミロが壁に背を預けてベッドの上で胡坐をかきながらぱさぱさの卵サンドを口にしている最中だった。
「はい、熱いよ」
カミュは淹れたての紅茶をミロのベッドの横にある机に置いて、自分も椅子を引っ張ってきて腰掛けた。
「アイオリア、君の分もこっちに置いていいか?」
「ん、サンキュ」
のそり、とベッドから起き上がって、アイオリアはミロの勉強机の椅子に腰を下ろした。
「で、どうなってんだよ?」
湯気を立てている紅茶のカップを右手に、一口すすって「これ、旨い」と呟いてから、アイオリアはミロに尋ねた。
水気のないサンドイッチを半分だけ飲み込んだミロは自分のカップに手を伸ばし、ふーふーと冷ましながら一口くちに含んで、はっとしたように顔を上げた。
仄かな甘さが紅茶に加えてある。
ミロの視線の向こうで、カミュはただ静かに微笑を浮かべてミロの話を聞く姿勢でいる。
一つ、大きく溜息を零すと、ミロは今日から始まった振りを付けての練習の様子を二人に話した。
鏡を見ながら演じたこと、とても正視に堪えかねて、目を反らせば容赦なくアンガスの叱責が飛んだ事。
そして、ふいに、ミロはアンガスがカミュのダンス大会での努力と成果を高く評価している事を伝えてこう尋ねた。
「カミュは、あの時、どんな事に気を付けて女の子らしく見えるようにしてたんだ?」
カミュは、一瞬息を詰めた。
あの時の自分が、何を考えて何をしようとしていたのかなど、とてもミロに話せる事ではない。
真っ直ぐに見つめてくる瞳から目を反らすには力がいった。
少し考え込むような素振りで目を伏せて、なるべく自然に見える態度を心がけ答える。内心では冷や汗を感じていたのだが……。
「なるべく、肩を、落とすようにしたかな……特にあの時は肩が開いた服だったし、肩幅とかはかなり人の印象を左右するから——」
「そうだよな。辛気臭いヤツの肩は背中から曲がって丸いし、威張りくさってるやつは胸を反らして……って、見た目じゃ中身は分からないっていうけど、中身が外見に反映されるってるのも、真なり、だよな」
うまい具合に話を引き継いでくれたアイオリアに、カミュはほっとし、それに乗った。
「髪型とか、言葉遣いとか、服の感じとかでもなにかしらの印象を人は持ってしまうものだよ」
「お前の場合、ナリは問題ないんだから、もう少し、こう——落ち着いた雰囲気ってのが出ればなんとかなるんじゃないのか?」
落ち着いた雰囲気、と言われてミロは腕組みをして唸る。
それをじっと見つめて、カミュは腕を組み片方の手を顔の前にもってゆくと、指を顎に添えた。何か、考え事をしている時のカミュの癖だった。
「そういえばミロ、人前に出て一人で何かするのってあまりしないだろう? ウィリアムの引っ込み思案とか、マイケルの上がり症なんかとも違うと思うけれど……。
楽器を、一人で、真剣に弾くの、結構苦手なんじゃないか?」
「そ、それは、カミュだってそうじゃないか——!」
何故かミロは焦ってそう答えだ。一年前、入学して数週間目の頃、偶然カミュがピアノを弾いている光景に出会った。とても綺麗な音で、もう一度聞きたいと言ったら断られた。それよりなにより、自分が聞いている事を知った途端に演奏を止めてしまったではないか?
ミロの剣幕をちらりと視界に入れると、カミュは再び自分の思考の奥を辿り言葉を探す。
「——僕には二種類の音楽がある、のだと思う。人に聞いてもらうための音楽と、自分自身への音楽。後者を他人と共有する事は出来ないけれど、前者の意図で人前に立つ事には抵抗はないんだよ、僕は。
僕の場合は、そういう訓練をしてきたと言ってもいい。コンサートや、教会での奉仕を通じて。
先天的に人前で注目を引く事が得意な人達もいる——でも、君は余興としてごく限られた友人の前で楽器を弾く事はあっても、真剣に音楽を通じて自分を曝け出す、という事に慣れていないんじゃないか、という気がするんだ。
去年から一緒に選択音楽で組んでいるけど、最初の頃、君はなかなか本気で僕とは合奏が出来ていなかっただろ?」
慌てて、否定の言葉を迸ろうと力むミロを、カミュは、やんわりと瞳で制した。
「君が、いい加減にやっていた、と言ってるんじゃないんだ。君は、一生懸命やろうとしていたと思うよ。むしろ、一生懸命にする事に集中し過ぎていたんじゃないかと、今ならそう思う。
君の基本的な姿勢って、実は集団の中では目立たないでいる事で、個人ではあまり自分の内面を曝け出さない事じゃないのか?」
ただ目を見開いてカミュに見入っているミロの横から、アイオリアのはっきりとした声が飛び出した。
「おいおい! こいつが目立たない主義だって?! どこをどう取ったらこいつが地味主義者だっていうんだ? おい!」
「いや、ごめん。僕もうまく説明できてないな……。
つまりさ、アイオリア、ミロが騒ぎを起こしたり、注目を集めている行動っていうのは、彼が意図してやっている事じゃないって事さ。
実はミロは、誰かの前で一人の人間として意図的に何かを「表現する」って事はしていないんじゃないかな、と思うんだ。
楽器はオケの中で、もっとも同パートの多いバイオリンだし、選択音楽では発表会なんてやらない。じゃあ、楽器以外は、と思うとそんなにミロは自己主張する方でも無いと思うんだ。正義感が強いから、その手のことに関してはこっちが追いつけないくらいの反応をするけれど、それって自己表現とは違うだろう?」
「——カミュ、お前の言ってる事って、つまり、こいつが巻き起こす騒ぎの一から百まで全て天然で救いようが無いって、そういう事か? つまり」
ゆらりと、そんな事実は許さないという怨念を背負ってアイオリアがカミュに詰め寄る。
「いや、そうじゃなくて……基本的にさ、ミロが嵌っている状況はみんな同じに見えるって事なんだ。
結局、人に自分をどう表現して見せればいいのか分からない、それに尽きているような気がするんだよ。
サガ先輩への時もそうだったし、僕との選択音楽でもそうだった。
僕等の日常生活には、多かれ少なかれ「演じている」部分があると思うんだ。アイオリアならミロの同室の友人としての役割を自覚的に努めている部分があるだろう?
兄弟がいれば、兄は兄の役割を果たそうとするし、父親や母親にも、先生にもある。そしてそれは、一人個人の全てではないんだ。
ミロは、よく言えば素直で自分を飾ろうとしないからそういう経験が無いのかもしれないけれど、悪く言えば、集団の中でそれを見極めて自分の役割を「演じる」という事を故意か無意識かで避けている。
演劇というのは、まさにそういう役割分担の集大成で、自分でいる事より集団の中で一つ役割である事に重点が置かれる共同作業なんじゃないかな?」
「言い換えれば、こいつは協調性というものを全く持っていないって事だな?」
アイオリアがギロリとミロを睨みつけて断言する。
「さあ、それは僕にはなんとも言えないが——」
カミュは軽やかに笑ってリラックスした様子でミロに語りかける。
「多分、君にはいい機会だよ。一生懸命にやるって事に意識を集中するんじゃなく、見ている人にどう思われたいかって事を基準にして動くのも悪くないんじゃないか? 一つの経験として」
「カミュ、それ、結局オレにとって演劇はいい機会だから、頑張れって、そういう事?」
ミロはてっきり自分に何か女の役を演じる事についてアドバイスをくれると思っていたカミュの、そのアバウトな物言いに呆然として、カミュに聞き返した。
「要約するとそうだね」
にっこりと微笑み返しを贈るカミュ。
「要は慣れてないだけだよ。だから最初からうまくいかなくても当たり前。但し本番には間に合わせてくれよ、というだけで」
ますます頭を抱え込んだミロを見て、カミュは再度微笑んだ。
カミュには分かっている。何故自分がミロに惹かれたのか、その理由が。
カミュは、集団の中で自分の役割を瞬時に理解しそれに合わせて行動の出来る子供だった。役割と、自分自身に対するバランス感覚も安定している。
決して無理はしない。周囲の期待を過度に煽らないように、自分が居心地よく行動できるように、周囲へ与える自分のイメージを演出できる子供だった。
どうすれば、人とぶつからずに混雑した通りを渡ってゆけるか、「見る」事の出来る子供。
イメージを作り上げて、それに沿って行動する事は苦痛ではない。その方が相手の反応も予測しやすいし、相手も自分を理解しやすい。
無用な衝突や摩擦を回避する方法として、誰もが多かれ少なかれそういった事をしているというのが、これまでカミュにとっての常識だった。
そんなふうに、いつもと同じ光景を歩き、クイーンズベリという新しい通りに入った時、彼が居た。
人でごった返している一本の道の上を、自由奔放に走ったり、横切ったり、時に道の真ん中でしゃがみ込んでしまったり。
規則的に、パレードの一群のように前へだけ向けられていた人々の顔が、口が、ミロとぶつかる度にパッと開く。
ストロボが焚かれるように、眩しく光る。
自分には出来ない。少し考えれば、次の瞬間に人とぶつかってしまう事が分かるのに、道を横切ることなど、逆向きに歩いてしまうことなど、自分には出来ない。
今までの自分だったらポールがミロに苛立つように、きっと避けていただろう。
けれど、ミロは、時に驚くような高みに上って遠くを見つめる顔をする。
日常の雑踏など飛び越えて、飛び越えた自覚もなしに彼方の光景を語る。
そんなミロのアンバランスに惹かれる。
そして、時に気を揉む。それでは世の中を上手く泳いでいけないのじゃないか、と。もちろん、本人は「上手く」泳ぐ事など全く気にも留めていないのかもしれないが……。
「よく、見てみればいいんじゃないかな? 僕は演劇の事はよく知らないが、音楽でいうなら違うパートの音を継いで、バリエーションを膨らませたり、転調したり、その結果が一つのお芝居のようなものになると考えてみたらどうだろう——?」
「さすが、言う事が哲学的だな」
アイオリアがにやりと笑ってカミュを揶揄する先で、ミロが腕を組んだ先の姿勢のままシーツの上、どこか一点を凝視して固まっている。
「——うん……音楽で、楽器で、台詞の感じは曲の感じと一緒なわけだ……」
指を振りながら言葉のリズムを刻んで、ぐぐっと集中していくミロを横目に、アイオリアはカミュに尋ねた。
「こんな説明で「恋する乙女」って表現できるのか?」
「まあ、微妙だけど、この場合、ミロがやれると思える事の方が大事なんだ。これまでのパターンでいくと、出来ない、うまくやらなきゃと考え始めると、どんどん一人で空回りする傾向があるからな……」
「もしかして、サガ?」
「うん、まあ、サガとか、かな?」
アイオリアは、食堂でサガに声を掛けられるたび茹蛸状態になって時には逃げ出していた去年のミロを思い出し、溜息をついた。
「でもまあ、台詞を覚えておいて、舞台の上で上がってトチることしなきゃなんとかなんだろ? 後はスカート履けば誤魔化せるし」
「アイオリア——?」
まじまじとカミュはアイオリアを見つめる。
「な、なんだよ?」
「ミロは、舞台でスカートなんて穿かないんだよ? 彼の役は、「男装した少女」だ」
アイオリアは、何かいやな胸騒ぎを覚えてまだ考え込んだままのミロを見やって問う。
「おい、ミロ、それホントか? お前、女装すんじゃなかったのか?」
「? そんな話聞いてない」
まだ深く自分の考えに没頭しているミロからのそっけのない返事に、アイオリアは呟いた。
「それって、みんな知ってるのかよ?」と。