約束通り、七時を回った頃、シオンと童虎の両先輩が訪ねて来た。
この人達に呼び出される時には、立場上あまり良い思い出がなく、どうしても緊張を拭えない。
勿論、アイオロスの春の病で世話になったこともあるのだけれど、話がある、と真面目に切り出されては、そのような話題とも思えなくて。
差し入れてもらった中華のテイクアウトで、ひととおり晩餐をすませた後、ミロから貰ったジャパニーズ・グリーンティーを飲みながら、その話は始まった。
「つぎのOB定期演奏会だが。お前は、本番に乗れるのか?」と。
「風の噂に、お前が遂に実家に戻るらしいと聞いている。土日はほとんどロンドンには居ないようだし、なるほど、戻るつもりならば腰を上げるに遅すぎるくらいだ。今期、選曲委員会では、お前かフェアファックスのソロでショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲という話もあがっていたが、ここへきてそのような噂が流れ出し、委員も混乱している」
ショスタコーヴィチなどという話は全く耳にも挟んでいなかったため、私は驚いた。
「それは、失礼ですが、委員の皆様の勇み足かと……。ミロはともかく、私にあの難曲は無理です」
「しかし、お前はチャイコフスキーを弾いたではないか」
「あの時は……一日練習に費やす時間があったのです。しかも、今はもうあの時ほど指は動かない」
シオンは、じっと私の目を覗き込み、些か不機嫌に言った。
「いいかね、チェトウィンド。これは、私が進めている話ではない。委員のジジイどもは、お前か、フェアファックスだと言ったのだ。私に指名が下れば受けて立つところだが、残念ながら、私ではない」
私は口を噤み、音を立てぬよう唾を飲み込んだ。
「まあそう言うな、どのみちあの曲はお前のテイストではなかろう? 来年あたり、ベートヴェンかバッハでも候補に挙げようぞ」
童虎がからからと笑い、シオンの肩を叩いた。シオンはむっとしたように童虎を振り返り、やるならシベリウスだ、と呟いた。
「まあ、それはあくまで脇の話だ。問題は──我々の見る限り、お前に、とても爵位を継ぐ覚悟があるとは思えぬことだ。そうであろう? 童虎」
「ああ、まあ、そういう体にはなっておらんなあ。一族の屋台骨を背負う体には」
再び、シオンの眼差しは私を居抜き、私は磔にされたはやにえのように動けなくなった。
「人はお前の外見に惑わされよう、お前は一見模範的な紳士に見えるからな。だが、我々には見える。お前の背中は、誰か他の者の力強い支えに寄り添って生きる者の背中だ。それは、一家の主の姿ではない……今のお前には、爵位も、お前の一族も、背負えぬ」
「今のお前の体は、屋根の下で家を守る者──女の体に最も近い」
口の中が、からからに乾いた。
たしかに私は、アイオロスに強く依存している。けれど、それでも、独立した一個人であろうと願い続けてきたし、そのための努力も怠っていないつもりだった。
けれど、人が見過ごしてしまう僅かな兆候を読む技を身につけた彼等がそう断ずるのなら、きっとそうであるに違いないのだ。
彼等は、外見に惑わされることはない。微妙な骨の配置、筋肉の動き、疲労の偏りを読み、それを矯正する技を持つ。東洋に伝わる「気」の使い手でもある。
私が凍り付いていると、童虎が、笑いながら、しかし真摯に語りかけてきた。
「そんなに絶望的な顔をせんでも。別に珍しいことでもないんだがな。たとえば実家から離れられんパラサイトやニートの連中もそうだし、女房が食い扶持を稼いでいて圧倒的に強い家庭でもたまにある。ただ、男女の家庭では、生物的な差が気構えのかなりの部分を補う傾向があるから、おまえさんほどはっきりとは差が出ない、ということだ。役割分担ができて、双方それに満足なら、別に問題もあるまい?」
「しかし……私は……」
「おまえさん一人のせいでもあるまい。アイオロスが相当甘やかしとるようだからな」
「童虎よ、話がずれている。問題は、チェトウィンドが実家に戻るつもりなら、いまのままでは立ち行かんということだ」
再びぴしり、とシオンが釘を刺し、私達は押し黙った。
「……爵位をつぐ気は、ありません。」
暫くの沈黙のあと、私は漸くそれだけ押し出した。掌に、汗が滲んだ。
「全て、弟に譲るつもりで……それで、週末は、その交渉に、弟のもとへ出かけていたのです」
シオンは僅かに眉を顰め、それから、細く長い溜息を吐き出した。
「成程な。ならば納得がゆく。……しかし、これほど長く交渉にかかるということは、弟御の諒解は得られておらぬのだろう」
「……当然かと。彼は……私が爵位を継ぐ妨げにならぬよう、と、遠い異国の地に送られたのですから。今更、爵位を継げと言われても……」
「たしか、執事と二人きりでアメリカに渡ったのだったな。丁度お前がクィーンズベリに入った年に。」
「はい………」
「では、お前は、最初から、この交渉が難航することを承知していたわけだな」
厳しい一言に、私は俯いた。どんな理屈も、結局は言い訳に過ぎない。大学を出て十年以上経つのに、態度を明らかにしてこなかった事で、どれだけの人を傷つける事になるのか。
「……こういうのはなあ……タイミングが肝要なんだよな。我々のように、パブリックを出た時点で行方をくらましてしまえば、若気の至りで済んだかもしれんのだが」
童虎がのんびりと呟き、私は思わず目を見張った。
そういえば、この二人も、それぞれ家に縛られるものがあったはずだ。
二人とも、このイギリスからヨーロッパ大陸に広いネットワークを持つ華僑の嫡男で、誰もが将来はその主要ポストにつくと信じていた。それが、二人とも実家とは縁を切り、二人で整体の施療院を開いている。
「勝手に話を作るな。私は行方をくらますつもりも無かったし、未だに実家では私は出入り禁止扱いだ。若気の至りで片付いてもおらん」
「うん、まあ、華僑の若様を連れ出せば、そういうことにもなるわなあ」
「茶化すな。本当に大騒ぎになったのはお前の家であろうが」
ひとごとに気をとられている場合ではない、と重々承知していても、アイオロスの前では決して見せないこの二人の気の置けない会話に、私は興味を引かれた。
それで、思わず、こう訪ねた。
「あの……もし差し支えなければ、聞かせていただけませんか? 先輩が、どうして今の形に落ち着いたのか。……私が参考にするには、少々遅すぎるとは承知していますが……」
シオンはつと私を睨み、それから、溜息をついて、言った。
「……よかろう。少なくとも、お前がすべきではない事の参考にはなるかも知れぬ。……そうはいっても、転げ始めた事態をうまくおさめる方法など、無きに等しいのだがな」