「……よかろう。少なくとも、お前がすべきではない事の参考にはなるかも知れぬ。……そうはいっても、転げ始めた事態をうまくおさめる方法など、無きに等しいのだがな」
そう呟いて、シオンは手にしていた湯飲みを置き、ゆっくりと語り始めた。
「我々が華僑(華人)の家に生まれたことは既に承知と思うが、華僑と一口に言っても色々と違いはある。私は客家人と呼ばれる一団に属し、華人でも比較的北方寄りの言語を話すのだ。国外にはそれなりにコミュニティもあるが、本国では少数派にすぎぬ。歴史的に、あまり恵まれてはおらぬので、国外に安住の地を求めて広まったともいえる。
私の一族がイギリスに渡ったのは十八世紀末だと言われる。中国と二重国籍を所持していたのは数代のみで、その後は英国籍のみの人間ばかりになったが、それでも数十年前までは英語を生涯一度も喋らずに没する者もあったと聞く。つまり、姓を変えても、郷幇(出身地に基づく集団)の絆は強く、個は幇のため存在するに過ぎぬ。私も物心つく以前からそう教えられてきたが───」
「へえ、お前んとこまだそんな教育しとるんかー! 凄いなー!」
童虎が楽しそうに割って入り、シオンは不機嫌に隣を振り返った。
「当然だ。お前達成り上がりと一緒にするな」
「まあまあ。で、わしは、このシオンと違ってな、広東省から60年代に非合法で移民した一族なんじゃよ。うちの一族は、カネはまあ、出所に問題はあるが、潤沢にあったのでな。早々に英国籍を手に入れて、各地に勢力範囲を広げた。で、このシオンの幇と衝突して、結局、先方が折れた」
シオンは、甚だ面白くなさそうにそっぽを向き、童虎は、笑みを浮かべながら、それでもある種の真剣さを込めた声音で、こう言った。
「ま、褒められた事ではない。家柄の良い姫君を、札束で頬を叩いて屈服させるようなやり方だからな。ウチは代々そうしてきたし、それで実際に嫁も随分嫁いで来た。シオンの家も、姉御がわしの従兄弟に嫁いだ。
客家幇とわしらの広東幇は対等だということになっておるが、それは客家が非常に上手く立ち回って広東人を立てているから表向きそうしていられるのだ。客家は昔からそういう技が上手くてな。中央政権とも他の幇の連中よりはずっとうまくやっていた。
そのうち、わしらが中等教育に上がる年になって、わしらの両親は、わしらを幇の中の学校ではなく私立学校に送ることにした。一応、将来幇の顔になる者同士、教育はつけておいたほうがいい、ということだったのだろう」
「私は、クィーンズベリに上がる前、お前の成績より必ず一歩下を目指せと言われたがな」
「ほんとかー?! おぬし、守った事などないであろう?」
「当然だ。補佐する者が物事を学ばなくてどうする、とバカ親どもを言いくるめてやったわ」
まあ、わしに付き合っとったら、おまえさんの成績は悲惨じゃったなあ、と笑う童虎に構わず、シオンは先を続けた。
「とにかく、家から私に与えられた役目は、この童虎を補佐する立場になって力を得よ、とその一点に尽きる。無論、それには、幇の未来もかかっている。とはいえ、学園に居れば、そのような圧力をかける者も、それを監視する者もない。私は、自分の役目が気に入らなかった。だから、クィーンズベリに居る間は、両親の言いつけを全て無視した」
「わしの方は、そういうシオンしか見ておらんかったから、はなからこいつがそんな縛りをかけられているとは気付かなんだ。それが、いざ卒業するとなったら、急に態度を改めおってな。いきなり十も年上の相手に話すような口調になって、あのときは本当に気でも違ったかと思ったぞ!」
「お前の周りにいた人間に倣ったまでのことだ。驚く事でもあるまい」
「お前は特別だ。そう最初から、態度で表していたつもりなのだがなあ。
ま、とにかく、それで、大喧嘩になった。こやつは強情を張るし、わしは気分が悪くて虫酸が走るし、で、一週間ほど、口もきかんかった。
ところが、一週間経って、こいつが、クィーンズベリのアルバムをじっと見返しておってな。あの、最後の演奏会の写真だ。つい、あの演奏はどこにいったかなあ、と聞いたら、これだ、お前はもう無くしたのか、とブッキラボウに返してきよった」
シオンはじっと黙って動かない。童虎が、嬉しそうに笑って続けた。
「それで、もういい加減、下らんモノに捕われるのは止めようや、と持ちかけた。こやつが本心でわしの配下に収まる気などないことは丸見えだったしなあ。下手に押さえつけて寝首でもかかれたらたまらんから、暫く、家を離れて世の中を見にいかんか、と誘ったんだよ」
「暫く、とはよくぞ言ったものだ。はなから戻る気などなかったくせに」
「いやいや、それはなりゆきというものだぞ、シオンよ。お前が本心から戻りたいと言えば、そうするつもりだったしな」
童虎は小さく含み笑いをして、「茶のお代わりを貰えんかな」と呟いた。