魔がさした。
昼間、どうにも眠くて、仕事の合間にうたた寝をしていたら、昔の夢を見た。
ミロの家に初めて遊びにいった、14歳の夏の夢だ。
あのときは、ミロの母堂が急にイタリアの実家に戻ってしまい、観光もかねた牧場体験のはずが、文字通り日の出から日没まで牧場実習のような状態に追い込まれた。まあ、それはそれで、初めてのことばかりで楽しかったのだけれど……
その時に、ミロはパンを買いにいくのが面倒だと、自分でパンを捏ねて焼いていた。器用に焼くものだな、と感心しつつ、出来上がったまだ熱いパンを、一日の出来事を話しながらバターも何もつけないでほおばるのは本当に美味しかった。
目が醒めて、なんとなく、その味が恋しくなった。
ミネラルウォーターを切らしていたので、仕事を切りのよいところまで片付け、近くのグロッサリーまで買い物に出た。
普段足を踏み入れる事なんて殆どない一角で、ざっと見渡すと、小麦粉だけでも大層な種類があることに驚く。イーストーは……ミロは生イーストを使っていたけれど、このグロッサリーにはドライしか置いていない。此処まで来て、レシピも何も持っていないことに気付く。
ええと……たしか、パンは強力粉……
Weak Flour(薄力粉)はあるが、Strong Flourというのはない。All Purposeというのは、多分中力粉か。
暫く物色して、For Bread、と書かれた袋に気付く。
Whole Wheat Flour。所謂全粒粉だ。
まあ、Wheatのパンなら食べたことはあるし、どうせ最初からバゲットのような難易度の高いパンが焼けるはずもないので、これでもいいか、と手にとった。
袋の隅に、申し訳程度に、Bread Machine Directionとある。パン焼き器は持っていないが、まあ、大体の作り方は分かるから、これで分量さえ分かればなんとかなるだろう。
粉の袋にあった材料を大体揃えて、帰宅した。
3-1/2 Tbsp. butter
3-1/2 Tbsp. honey
2-Tbsp. Wheat Germ
1 Cup milk
1 Large egg
2-1/4 cup Whole Wheat Flour
1-1/4 tsp. salt
2-tsp Dry yeast
Wheat Germなるものがなかったので、とりあえずスキップ。あとは、イーストをぬるま湯でふやかし、残りの材料全てをBread Machineに入れろ、といっている……(イーストは最後)
入れる順番は関係ないのか、と思いつつ、とにかく全部混ぜて捏ねる。
捏ねて、はみたが………(汗)
何だか、昔ミロの所で作った時と大分感触が違うのだ。そもそも、あまり粘ってこない。パンは捏ねて捏ねて、指先で伸ばした生地が薄く透けても破れなくなるまでグルテンを粘らせる必要があるのに、いつまでたってもべとつくだけでなかなか粘りが出てこない。
Whole Wheatは粉の重量に対するグルテンの量が少ないのだ、と気付いたが、どうしたものか……
機械で捏ねればちゃんと粘るのか、いまひとつよく分からない。
結局三十分粘って諦め、一次発酵へ。
オーブンにWMという目盛りがあったので、それより更に弱く設定してオーブンの中に突っ込んだ。
家の中に、30度を超える湿度の高い場所なんてない。手を突っ込んでみたが、ほどよい暖かさだったから大丈夫だろう、とその場を離れた。
30分後、二倍くらいに生地が膨らむ。そういえば、一次発酵にどれだけ時間がかかるのか、調べていなかった。
慌てて手元のレシピ集を見ると、1時間から1時間半と書いてある。
もう既に発酵が終わっているように見えるが、と首をひねりながら、一時間置いてみると、
なんと、さっきまで膨らんでいた生地がしぼみ始めていた……
慌ててオーブン内の温度を調べると、さっきより随分熱くなっている! これではイーストが死んでしまう。
どうもこれは失敗したな、と思いつつ、一応ガス抜きをして、二次発酵にかけてみたが、既に菌は死滅していたのか、もう膨らまなかった。
捨てるわけにもいかないので、もう膨らませるのは諦めて、平たく押しつぶした平パンをオーブンで200度で焼く。イースト入りの種なしパンだ。我ながら、珍妙なものを作ってしまった。
出来上がったシロモノは……なんというか、香ばしくはあるが、甘くないソフトクッキー、といった感じで、夢に出て来たパンとは形も感触も味も程遠い。
一緒に買って来たスイス・チーズの微かな酸味がWhole Wheatのゴツゴツした感触に合うので、とりあえずカナッペのようにしてスナック代わりに消費している。
ワインで流し込みながら、インターネットでWhole Wheatのレシピを調べてみると、どのレシピにもWhole Wheatには強力粉を混ぜて使え、と書いてあった。
成程。やはり、Whole Wheatだけではグルテンが足りないのか。
そもそも、始める前にネットで調べなかったのが敗因だが………
夢の中で、ミロはレシピも何も見ずに作っていたのだ。とても簡単そうに。
事の顛末が知れたら、あいつは腹を抱えて笑うだろう。そう思って、一度持ち上げた電話の受話器を置いた。