グリーン・ティの葉を入れ替え、ミロに教わった通り、沸騰していた湯をすこし覚ましてから急須に入れて、空になった湯飲みにきれいな緑色の液体を注ぐ。童虎は、それを嬉しそうに啜ってから、続けた。
「まあ、そんなわけで、マンチェスター大に通ったものの、すぐにgap yearを申請してこの国を抜け出した。実家には大学が忙しいから、とウソをついてな。結局二年ほどはごまかしたかな。その間、わしらはチベットにおった」
「チベット、ですか?!」
「ムウが大叔父とやらを紹介してくれてな。医学部の重鎮だった。それで、あちらの医学部に潜り込んで、チベット医学を学んだ。皮肉なことに、チベットは今中国化が進んどるから、チベット語が全くわからんでもなんとかなった。まあ、こやつはカタコトながら喋れたがな」
「チベットに行くと言って、土地の言葉も学ばぬお前と一緒にするな。ただでさえ、色々難しい土地だというのに」
「ま、それやこれやで、ノートはほとんどこやつにとってもらってな。成績は、なんとか及第点、というところだったな。
アールユーベーダの知識は、それなりに面白かったが、わしには、どうも理屈ばかりというのは性に合わん。聞けば、理論だけで七年かかるというし、流石にそこまでチベットに隠れているわけにもいくまい?
で、師匠に相談したら、これはどうだ、と、一冊の本を渡された。
それが、日本で発展した整体について書かれた本だったわけだ」
童虎とシオンが卒業してから数年、イギリスを離れていたらしい、ということは、以前OBオケの先輩に聞いた事があった。とはいえ、私自身、大学で修士を得るまでの五年間はとてもオーケストラにうつつを抜かす余裕はなかったから、彼等が不在の頃の話を詳しくきいたことはない。
彼等の使う技術が、日本で発展したものだという話はきいていたのだけれど。
「英語に訳された本だったが、すっかり魅了されてしまってな。なんとか、この著者に会いたいものだと思ったが、既に亡くなっておった。が、師匠は昔この著者と親交があり、完全とはいかないが、ある程度の真似事はできるというんだな。
それで、わしらは、昼間は学生のフリをして、夜に師匠からその技を学んだ。そうこうしているうちに、流石にイギリスにおらんことがバレて───」
「当然であろう? 私は予め、資金を親の目の届かぬ口座に移しておいたが、お前は幇の銀行から大金を再三チベットに送っておったのだからな」
「うちの一家はそのへん、緩くてなあ。誰も調べんだろうと思ったんだが、銀行側からわざわざ通告されたんじゃあなあ」
童虎はからからと笑って頭をかき、それで、大変な騒ぎになった、と付け加えた。
「とにかく一度家に戻れというから、渋々帰ったら、すっかりシオンが悪玉にされとってな。師匠はムウの大叔父だが、それはつまりシオンにも遠縁ということだ。まあ、勿論、ムウに火の粉が飛ばんよう最大限気をつけはしたが、そうすると、結局、シオンが親戚をあたってわしをそそのした、ということにならざるを得ん。
シオンは家に戻るなり監禁されて連絡もとれんし、親はさっさとマンチェスターに戻れと煩いし、わしがおらなんだ間にまた傘下に入れた別の幇の、十も年上のお目付役はつけられるしで、腐りかけていたときに、シオンが親に絶縁状を叩き付けて家を出た、という話をきいた。
まあ、わしらの世界では、親と縁を切る、というのはなんとしても避けねばならん事のうちのひとつでな。血の繋がりが強い世界だ。だからこそ、それをフイにする者は親も子も信頼されん。子は幇の共通財産だから、折角育て上げた子が幇を離れるのは、幇の損失だしな。とくにこいつほど金がかかっとると……」
「人のことを言えるのか?」
「まあ、人の事はいえんが、そういうことだ。子と縁を切った親も、幇から咎めを受ける。こいつの親は、わしの親からは睨まれ、同胞からは白い目で見られ、大変な事態に陥るところだった。
勿論、まともに大学に通いもせなんだこいつに、幇を離れてまともに暮らしていく算段など、普通なら思いもつかんだろう。第一、当面食って行く金すら持たずに飛び出したんだからな。
それで、こいつの姉御が、わしに頼みにきた。なんとか、弟を思いとどまらせてくれぬか、と」
童虎は、一瞬だけ、僅かに痛みを感じたような表情を見せた。
「優しい人だった。己の立場も辛かろうに、わしらを随分と可愛がってくれてな。咎めは自分が被るから、なんとか連れ戻してくれと頼まれた。だがなあ。こいつが、一度相当な覚悟で決めたに違いない事を、そう簡単に翻す玉ではないことは、わしが一番よく知っておるんでなあ……」
シオンが、フン、と小さく鼻を鳴らした。
「お前ではあるまいし。当面つなげる算段があったから出たのだ。第一、私があの家に留まっていては、お前の一家が納得せず、幇の者がいつまでも具合の悪いことになろう? いずれ、お前が実権を握れば、父母とよりを戻す道もあるかもしれぬ、と思ったしな」
「おお、そんな計算などしとったのか、おぬし! それならそうと言えばよいものを」
「言えばその場でやめたか?」
「まあ、それはないな。あの世界は、性にあわん」
童虎は再び笑い、話を戻した。
「要は、こやつの一族が負い目から解放されて、こやつにも当面食って行くだけの金があればいいのだ。わしはそう解釈した。それで、こやつの姉君の夫、つまりわしの従兄弟だが、そいつに交渉した。
わしは、金輪際、家を出て跡目はつがぬから、家はお前が好きにせい、と。まあ、こいつは、わしと違ってそれなりに野心的な男でな。実力もあるし、わしがおらなんだら跡目は継げる。
今から、客家のを連れて家を出て、おまえさんの代になるまで戻らんから金を寄越せ、といったら、気前良く出してくれた。まあ、ウチの親に知られない金をそんなに蓄えていたところからして、もう次の代は見えたようなものだったがな。
まあ、とにかくそれで、別の幇の知人のところに隠れていたシオンを迎えにいって、そのままチベットの師匠のところへ戻ったわけだ」
それから更に三年研鑽を積んでイギリスに戻り、二人で整体院を初めて今に至る。
そう結んで、童虎は茶の残りを啜った。
「……そうすると、お二人とも、今ご実家とは疎遠なのですか?」
思わずそう訪ねると、シオンが面白くなさそうに答えた。
「私の家は先刻話した通りだ。今度は童虎がこちらを連れ出した形になったので、幇への不当な圧力は表向き消えたらしいが、やはり、もとをただせば、という雰囲気がある以上、実家が復縁を求めてくることは今後もないであろう。
童虎のところも、こいつが唯一の嫡男だ。上は今も大いに荒れている。姉は心労で体を壊したと聞くが、そういう事情なので面会にゆくことも出来ぬ。まあ、義兄がすこぶる健康で執着も健在なのが救いだが」
「まあ、遠からず、あれが実権を握る日がこよう。その時は、わしら二人で姉君の気鬱を晴らして差し上げようぞ」
「勝手なことを」
「そうか? わしは、お前が忍びで逢いにゆけば、病などすぐに治ると思うのだがな? お前が追い出されたのはお前の幇であって、わしの幇ではなかろう?」
「お前を連れて戻らず我が身だけ戻ったりしようものなら、ますます心痛が増すばかりだろうよ」
シオンは溜息をつき、私の方を見た。
「まあ、長くなったが、そういうことだ。我らの場合は、実家の柵を断ち切るだけであったが、我等も家の者も無傷であったとは言いがたい。お前の場合は──事情がもう一つ複雑だからな。親を悲しませるなとは無理な相談であろうが……まあ、それでも、こじれぬに越した事はないからな。
で? 弟御がなかなか応じぬのは、お前の説得がまずいからに決まっておるだろうが、何故今のお前を見ても、お前を当主に推したがる? 我々には、全く無理な相談に思えるが」
私は、思わず言葉を失ってシオンを見た。
私はこれまで、自分が当主に相応しいと、そう周囲が勧める声しか聞いた事がなかったのだ。
こうまではっきりと、「無理だ」と言われるのは初めてで、驚きもしたし、何故か、僅かに痛みも感じた。
身勝手なものだ。
継ぐ気もないのに、何故その言葉に痛みを覚えるのか。
「いえ、……その………弟は、おそらく、昔の私の印象が強いのだと思うのですが……」
「だが、たしか精神科のカウンセラーなのだろう? 人を見る目には長けているはずだ」
「はい……」
どう返してよいのか分からず、ただそう返答すると、シオンが、唇に不思議な笑みを浮かべて言った。
「面白い。その弟御に、少々会ってみたくなった」