一人暮らしをしていると、時折思いがけない来客がある。
家族が居れば、いきなりベルを鳴らす前に電話の一本でもあるのだろうが、飲み会の会場に指定される事の多い我が家では「ちょっと近くまで来たから挨拶に」と手土産つきの客から、「パブを追い出されたのでその続きを」と、日付が変わってから大人数で押し寄せて、人の家のストックまで空にしていく者まで様々だ。
もっとも、酔って舌が麻痺している連中に気に入りのボトルを開けてやる義理はないわけで、振る舞うのは専ら宴会用の安いワインなのだが。
その点、今日の客はまだ礼儀の良い方だった。
夕刻、昨日買っておいたイカとムール貝を、ガーリック、ケッパー、種抜きしたオリーブ、ミロが大量に持って来たドライトマトと一緒に煮込んでアクアパッツァを作り、茹でたアスパラ、冷やしたワインと共にテーブルに並べたところでドアのベルが鳴った。
「よっ、酒飲みにきてやったぞ」
ドアの隙間からぬっと長い腕が突き出して、ぶらん、とぶら下がったプラスチック・バッグには、缶入りのギネス・ドラフトがほぼ袋の上面すれすれまで詰まっている。何が「来てやった」なのか皆目不明だが、たまにはギネスも悪くないな、と扉を開けた。
「何やってるんですかアイオロス先輩、こんな日曜の夜に」
「今言ったろうが。酒飲みにきてやったって」
「まあ、何があったかは分かりますけどね──今日、サガ先輩にウサギ除けのケーブル保護材やネットなどを買いに、ホームセンターに連れていって頂きましたから。サガ先輩が一人で車を運転してこられたので、これは何かあったな、とは思っていたんですよ」
「これで「何かあった」だったら、お前んとこなぞ何か所かいつも地殻変動、断層運動、火山噴火のオンパレードだろうが。あ、「何にもない」ってのもあるか!
よおっ! プチ、元気か? 美味いもん食わしてもらってるか?」
アイオロス先輩は上機嫌で勝手にリビングへ入り、プチの目の前で早速ひとつめの缶を開けた。
まったく。エインズワース家でそれほど「火山噴火」が起こらない理由は、サガ先輩がとてつもなく寛容だからだ、という事は計算に入っていないらしい。
この様子では、アイオリアのところは既に訪問済みとふんで、テーブルに皿をもう一枚とフォークを出した。
「そんな所でウサギ相手に暗く晩酌する前に、食事でもいかがですか。まあ、肉はありませんけど」
すると、先輩は「じゃあ、また後でな」とプチに挨拶し、ダイニングテーブルへ立ち寄ってテーブルの上を一瞥するなり盛大な溜息をついた。
「まあ、肉食べると溜まるらしいからな。気の毒に」
「そうらしいですね。だからサガ先輩も極力出さないようにしているんでしょう。お気の毒に。……で、ワインは?」
「お前が自分用にとっているやつなら飲んでやってもいいな。が、いつも団体客用に出して誤魔化している類のものならいらん」
「じゃ、交換条件で、そのギネス半分頂きます。僕は少し冷やした方が好きなので」
勝手に袋から6缶ほど抜き出して冷蔵庫に仕舞い、代わりにイタリアのヴェネト州の白を持って来た。ギネスも勿論悪くないが、アクアパッツァには矢張りイタリアワインだろう。
アイオロス先輩は、勝手にテレビのリモコンを探し当て、BBCのニュースを確認している。
こうしていても妙に違和感がないのは、昔の名残というべきだろう。
パリ大学に在籍していた頃、先輩も院で法学部に来る事になり、適当なアパートがみつかるまで暫く置いてくれ、と頼まれて宿を貸したのが、結局卒業するまでそのまま同居することになってしまったのだ(勿論途中でもっと広いアパートに引っ越したが)。
まあ、一人で一部屋借りるよりは、ルームメイトと二人で借りた方が負担も少なく、よい物件を借りられる。食事も当番制にすれば毎日作らなくて済む。何より、ひとたびアパートに戻れば英語で話せる。この開放感は、我々どちらにとっても大きかった。
(もっとも、それが後々問題を引き起こしたりもしたのだが……)
「あ、すみませんが、9時からNatureを見る予定だったので。特に今ニュースを見たいわけでなければチャンネル変えてもいいですか?」
「ほいよ」
どうやら、米大統領選の経過が見たかったらしい。何処の局でも放送していないのを見ると(当たり前だ、ここはイギリスだ)素直にリモコンを放り出して冷蔵庫を漁りに行った。
「やっぱり、肉ないのかよ?」
「ありませんよ」
「じゃあ、チップスは?」
「そんなジャンクフードもありません。ジャガイモならありますから、マイクロウェーブでふかしてバターでもつけて食べたらどうですか」
どうにも、魚料理とパンとチーズだけでは心もとないらしく、ジャガイモを洗う音がキッチンから聞こえてきた。追加で一品作ってくれる分には大歓迎なので、好きなようにさせておいてテレビのチャンネルを変えると、真っ白の狼が画面に大写しになった。
今日は、Arctic Wolvesの話らしい。
カナダの春。ある群れのリーダーの雌は身ごもっているが、何事かが起き、その年仔狼は巣立たなかった。その群れには昨年生まれた若い雌狼がいたが、自分より若い世代が育たなかった事も手伝って、随分とのんびりとした、子供っぽい狼だった。
狼は群れてチームワークで狩りをする。移動も一緒だ。あるとき、群れは水辺に寄って休息をとった。大人達は水を飲むとまたその場を離れていったが、その若い狼は、水に映る自分の顔が面白かったのか、水遊びに夢中になってしまい、気付いた時には群れの姿は視界から消えていた。
ナレーションは、経験のない若い狼がパック(群れ)をはぐれる事の危険を語っている。
「…………」
いつの間にかベイクドポテトを持ってダイニングテーブルに戻って来ていたアイオロス先輩の眉が寄った。
若い狼は、空腹を覚え、水際の鴨を狙おうとする。夏は繁殖の季節、鴨にも子鴨がついているが、母鳥の巧みな演技で、狼はあっけなく子鴨から引き離されてしまう。そもそも、水の中で水鳥に勝ち目はなく、仕舞いには小鴨にまで軽くあしらわれる始末。
若い狼は何日も食べておらず、このままでは早晩餓死するしかないが、まだ子供っぽい振る舞いの彼女は今ひとつ緊張感がない。
このまま弱って死ぬのか、と思いきや、番組の終盤で、なんと彼女は群れと再会する事ができた。
必死で探しまわったお陰で漸く感動の再会、という筋書きにはほど遠く、なんと、追いつけるはずのない水鳥を一生懸命追いかけていて、水鳥に案内してもらって群れまで辿り着いた、という結末。
彼女の同腹の兄弟が、あっけにとられて、水鳥の群れの後を鴨さながらについて泳いで回っている妹を眺めている……
「……なんだかな……あいつは、あれでも野生の狼なのか?」
呆れ返った様子の声音に、何を言いたいのか十二分に理解してしまった。
まるで、今イタリアに居る誰かみたいだ……(脱力)。
「……野生の狼でもあんなのが居るのだから、野生の鈍った人間でそういうのが居るのはむしろ当然なんでしょうね」
「だから、あれを野生認定するのが間違いだろう」
何だか、一気に疲れて、二人とも早々に寝てしまった。
ところで、サガ先輩はアイオロス先輩がここに居る事を知っているのだろうか??