「カ」から始まる男の子の名前

午前中にファックスで送られてきた胸糞の悪くなる事件の案件をどうするかボスと話している時、俺のデスクの電話がなった。
どんなアホな依頼事でもこの件よりはマシ、と思って受話器を取ると、何の前触れも無く、よく知っているけれど全然可愛くない声が。


「ひとつだけ確かめとく。あの馬鹿げた手術は、お前がやらせたのか」
「は?」
一体誰の手術だ? と思った矢先に
「は、じゃねえ!」
こいつは、何かサガの事で苛々すると俺に当たる。
こいつ、というのはもちろん、サガの双子の弟のカノンだ。
「うるさいなぁ。怒鳴るなよ。仕事中だから、用件は手短にな♪」
頭の中に、小さなチワワが一生懸命吼えている姿を思い浮かべながら適当に返事を返す。
雪崩を起こしそうな書類の向こうに、ボスが資料をじっと眺めて苦い顔をしているのが見える。
「返答次第によっちゃ、二度とその仕事に就けなくしてやってもいいんだがな?」
あらら。
相当鬱憤が溜まっているらしい。
タバコに手を伸ばしてボスに合図を送ると、彼も重い腰を上げてゴミ箱から拾ってきたコーヒーサーバーの前に行ってすっかり冷めたコーヒーをマグカップに注ぎ始めた。
小休止、という事だ。
「お前ねぇ……どうしてそう喧嘩腰にしか話を始められないんだ? 仕事で見せてる愛想の良さの爪の先くらいは見せろよ」
片手でライターを弄ってタバコに火を付ける。
「お前は俺のクライアントじゃないからな」
「義理のお兄さんに対する礼儀があるでしょう?」
「誰が義理の兄だ、だれが!!!!!」
うーん……サガもだけど、思った通りの反応を返してくれるのって、ある意味心が和むなぁ……。
と思いながら、話をちょっとだけ切り出してやる。
「え? だって、お前が電話かけてくるのなんて、俺の嫁さんの事じゃないの?」
「お前の嫁じゃねえ、俺の兄貴だ。で、そのバカ兄貴だが、パイプカットやらかしたのは知ってるな?」
思わず、咥えていたタバコを手にとってマジマジと見てしまった。
「だから、お前のお姉さんが俺の嫁さんでしょ。何度言ったら覚えるのかなぁ。で、何、パイプカットって?」
眺めていた煙草をもう一回口に咥えて深々と吸い込むと、
「禁煙とか言うなよ。 ……お前、マジで知らんのか」
なんとなく、いやな響きのカノンの声。
猜疑と哀れみとささやかな優越感と、甘い報復といった所か。
「カノン、話は要点を簡潔に。エセルは煙草は吸わないよ。俺が吸うのも嫌がるくらいだし?」
「切ったのは下の管だ。vasectomy。知らんなら辞書で調べろ。お前が知らんということは、お前の出張中にでもやったんだろう」
『                               』
今、一瞬、マジで頭の中に空白が流れたぞ?
受話器を肩に挟んで、右手にペン。それからミスプリントした書類の束からメモ用に一枚紙を失敬した。
「おや初耳だ。エセルに人体改造の趣味があるとは知らなかったな。で? なんでそれで俺にお怒りの電話なの?」
サガが実家から先月帰ってきた時。
俺はリビングに居た。
「撫でて」と強請るえせるを撫でていたら、ハムが無理矢理鼻先を突っ込んできて、仕方なく両手を使って二匹の相手をしていたら、玄関のノブが回る音がした。
サガは、うさぎに「ただいま」を言うなり俺に向かって、
「あの写真は酷いよ」
と一言。
「世界一美人の写真しか入れてないぞ?」
と俺が返す。
「ウサギはともかく……」
困った様子でそれ切り言葉に詰まってしまったサガを見て、笑いながら俺が言った。
「何が不満だ?」
ますます困ったと顔に書いて、どう直接的な言葉を用いないで注意を促せるか、サガは考えていた。
引き寄せてキスをすると、サガの顔は「しょうがない」と信号を発して、次の瞬間には完全に頭を切り替えていた。
「それで? どうだったんだ?」
「多分大体は片付いたと思うけれど、暫く様子見かな」
「お前は詰めが甘いからなぁ」
少し寂しそうに笑ったサガの頭を一撫でして、また口付けると、はんなりとサガは嬉しそうに笑った。
サガが「様子見」というのであれば、黙ってそうさせておいてやるか、と俺は思った。
ドウコと何か連絡を取っていたのは知っているが、あっちもなかなか一筋縄ではいかない。
サガが自分の問題だから自分で処理したい、ときっぱり言ったその意思は、尊重すべきだと思った。
で、それから特にサガの「お城」からも、カノンからも動きは無かったんだが……。
「ちっ……完全に独断か。奴のやりそうなことだが、お前もあいつを嫁だなんだとほざくなら、奴の行動パターンくらい読め」
サガが実家に帰ってから二週間。
それでこのカノンの反応。
この空白の二週間は、どうやら証拠固めに使ったかな、とボールペンで白い紙に幾つものチェック・マークを付けながら過去と現在に忙しく意識を走らせる。
つまり、サガは断種したから家督を告げないと脅しを掛け、泡食ったこいつらが今の今まで時間をかけて必死でその信憑性を確かめていた、って事か?
相変わらず、思い切った事をする。
「クックックッ……! 何? そこで独断か、と納得するあたり、お前も人がいいよなぁ(笑)。 で? この電話は、俺にエセルを任せる決心したから、今後ちゃんと目を離すなっていう激励の電話な訳? エセルの考えてることなんかお見通しの筈の一卵性双生児の弟君?」
「冗談。奴の一生に一度の決断を俺がバラすまで知りもしなかった奴なんざ鼻で笑ってやるさ。もしもあれがお前の差し金なら、本気で社会的に抹殺してやろうと思ったが……同じ家に住んでおきながら、まさか知らんとはな。ま、お前は所詮その程度ってことだ」
ざまあみろ!
というカノンの声が、まあよく聞こえる。
実際にはそんな事は一言も言ってないが、わざわざ俺の携帯では無く事務所に、しかも仕事しているのが明確なこんな時間に掛けてくるってのは、よっぽと腹に据えかねてるらしい。
「一生に一度の決断は、きちんと前々からそっちにも伝えていただろ? それを「気の迷い」と決め付けてはなから無視してエセルを追い詰めちゃったんだろう? なんでアレは追い詰めたら駄目だって学んでないかなぁ(笑)。完全にそっちの失策じゃないか。ご愁傷様。こっちはお蔭様で夫婦生活には何の支障もなく仲良くやってるから指噛んで眺めてろ」
「勘違いするな。奴が無茶をしたのは、お前が奴を手放さなかったからだ。あいつの本性は、長いものには黙って巻かれるし冒険も良しとはしない。無茶をするのは、周りが安全に囲っていると知ってるからで、それがなかったら一生その場で竦んで一歩だって踏み出せやしない。周りがそう育てたからな。お前等は二人して、まるでお前がその囲いになったようなつもりでいるようだが、今お前にもし何かがあったら、あいつは家にも戻れず、一人で自活も出来なくなるぞ。奴がその事を自覚していないのは愚かだが、お前まで気付いていないなら、お前等はそろいも揃って大馬鹿者だ」
「アレが長いものには巻かれるし冒険もよしとしないのは、自分がそうする事で守れるものがあると思ってるからだよ。好奇心は一人前にあるし、アレはアレでやりたい事もある。お前にあるのと同じくらいの量はな。
竦んで踏み出せなくなる事の愚かさも知っている。
今ここで俺がくたばっても、暫くはアイツが庇わなきゃ生きていけない動物もいる事だし、歯食いしばって生きるだろ。それでもまだどうにも自活が出来ないってんなら、アイツの人生だ。オレがとやかく言うことじゃない。お前が言ったように、そう「育てられた」らしいし?
俺としては自活のノウハウは地道に積み上げてやっているつもりだが、使い方が分からないと言われたらお手上げだからな。なんてったって、その場合、俺はもうくたばってる訳だし?(笑)」
「だから家に戻れと言ったんだろうが。家にいれば、誰がくたばろうが奴の囲いは崩れないからな。あいつは見ようともしないが、俺にはお前の狡さが見える。お前は、最後まであいつを守る約束なんざ出来ないことを今俺にも明言してみせたが、あいつの前では巧妙にそれをオブラートに包んでいる。見せていないわけじゃない、見ないのはあいつの勝手だ、そう言えるだけの逃げ道をちゃんと用意しておいて、だ。
こちらにも事情がある。奴が家を継がないなら、奴が戻る場所はもうあの家にはない。ティーンの頃から酒も煙草もやり放題のお前が、あと十数年で肺癌でくたばろうが、俺達は一切関与しない。お前があいつを自分の生きている間だけの慰みものにするつもりならこれ以上は何も言わんが、多少でもこれまで家が負って来た責任を引き受けたつもりでいるなら、そのことは奴によく話しとけ」
「お? じゃあ、正式にお許しが出たのか? この電話、エセルに回さなくていいのか? あいつ、喜ぶぞォ? お前もあいつの喜ぶ顔、は見れないが、声くらい聞きたいだろ?」
「親父が二度と目の前に姿を見せるな、と言っていると伝えておけ。さぞかし楽しそうな顔が見れるだろうよ」
「なんだ。お前、そんだけ単語並べといて結局お前の用件はヴォイス・メール・ボックスのお役目だったのか。簡潔に、って言ったのに。お前の教育レベルなら出来るだろ」
「お前の理解レベルに合わせて懇切丁寧に話してやっただけだ。まあ、一番物わかりの悪かったクライアントに話すよりは短くて済んだ。よかったな」
「いや、こっちもよく分かったよ。人間ってのはいつでも本当の事が話せない生き物だってな。
お前の場合、大事な片割れに戻って来てよ、てお願いしたのに戻ってきてくれなくて、挙句の果てに勝手にお揃いでお気に入りの体の一部を変えちゃったから傷ついてムカついたのな。
その事を本人に訴えようとしても、悪い男の人に騙されているらしい大事な片割れは全然話を聞いてくれなくて、寂しかったんだよな。うん。気の毒だ。大いに同情するよ。無料(タダ)だからな。
でもな、何時までも俺で憂さを晴らそうとするんじゃなくて、お前も自立しなさいよ?
いくら同じ卵から生まれてきたとして、顔も声も似てたとしても、アレはお前とは別人だし、違う人生を歩くの。分かった?」
「ふん、別人だと思ってないのは奴の方だろ。自分が出来る事は何でも俺にも出来ると思っている。家を勘当されたところで、俺との絆は切れないと高を括ってやがる。だがそううまくいくかよ。彼奴の身勝手のツケは俺が払わされるんだ、お前じゃねえ。お前にとやかく言われる筋合いはないね」
「あー、別人ねぇ……まぁ、それに関しちゃ、お前等どっちもどっちだろ? 
あのね、じゃあどんな言葉が欲しいんだね、カノンくんは? 泣き真似でもして見せれば少しはその生理痛は収まるのかね?
俺も人間なんでね、エセルの身内から酷い言葉を投げかけられたら心が痛むわけよ。分かる?」
「どのツラ下げて心が痛むなんていってんだか。これで晴れて問題解決万々歳だろうが。それからもう一つ、もう俺の家には来るな。お前も、サガもだ。俺も当分顔は見たくないし、勘当したはずの長男が頻繁に次男の家を訪れていると知れちゃまずいんでな。どのみち、週末はいない」
「いや、「心が痛む」なんて滅多に使う機会無いから、使うなら今かな、と思って。実際、この言葉ってどういう意味なんだろな? 心に痛覚はあるのか?
いや、問題が解決したんなら、お前んちまでの長距離運転の目的も無いわけだし? 行かんよ、そんな、わざわざ! 
しかしなぁ……当分は顔は見たくないなんて、当分が過ぎたらやっぱり見たいんだ……甘えっ子だなぁ……(溜息)
あ、そだ。最後にも一つ。お前も感謝しろよ? 俺も金の動かない物件でこんな愚痴聞いてやるなんてないんだからな?じゃあ、十年分くらいのクリスマスの挨拶を込めて?」
『甘えっ子』という言葉を発した途端に、受話器の切れる音がした。
すっかりチビた煙草をコークの缶の蓋に押し付けて、残り言葉を受話器に向かって唱えてやる。
「……何だ。随分穏やかな威勢のいいピザ屋じゃねぇか」
「いやぁ……これはピザ屋というよりは配管屋?」
ここ3、4日まともに寝てないボスが、自分の吸う煙草の煙に目をしばたかせながらぼそりと一言。
その右手には、朝から頭を悩ませている案件がまだ握られている。
という事は、うちでやるって事だ……。
俺は落書きしていた紙を丸めて屑篭に投げ入れると、今後の対策を練る為に立ち上がった。
九時過ぎ、携帯にサガから電話があった。
「どうしたの? 今日は遅いのかい?」
「ちと厄介なのが入ったから、もう少し準備してから帰る。食事は? 先に済ませてろ? 風呂もな」
と、いつも変わらない調子で会話して、また机に噛り付く。
資料漁りと長時間モニタを見続けて眼球と瞼がひっつくようになっている。
それを、トイレで顔洗ってごまかして、さて、これからまた一仕事だ、とチューブに乗って家を目指す。
時計はもう夜の10時を回っている。
軋むアパートの階段を上って玄関の鍵を回すと、ドアの向こうにもう人の気配を感じる。
「お帰り。お疲れ様。ご飯は?」
ちゃんと風呂にも入って、食事を済ませているようだ。
人間の食事が済むまではうさぎは居間に出してもらえない事になっているから、床の上で長々と寝そべっている二匹のウサギを見ればそれは分かる。
「何か一口つまめれば、今はいいよ。あと、冷たい水を一杯」
俺がそういうと、サガは怪訝な顔をして、それでも冷蔵庫からミネラル・ウォータと綺麗にガラスの器に盛り付けられた「ラビット・フード」とパンとチーズをトレイに乗せてキッチンの横にあるテーブルにそれを並べようとした。
「いいよ。ここでつまむ」
そう言って俺は、カミュー・バーロウがハマっている「TOFU」に良く似たチーズの乗っかったサラダを一口。バゲットに挟まったチーズを一口、かぶり付くと、一気に水で全部を胃に流し込んだ。
さて、
これで当座の燃料の補給は済ませた。
ネクタイの位置を確認し、背広の襟を引く。
「さて、サガ。少し話があるんだが、いいかな?」
サガの目が大きく見開かれた。
目を丸くして驚いている。
その手を取って居間のソファ・セットに移動し、対面で腰掛けるよう促す。
「サガ、俺の職業は知っているよな?」
サガはニコニコと笑いながら、けれど目には困惑を浮かべて
「Yes……?」
と言った。
「弁護士はな、弁護人がどんなに腐った(放送禁止用語)で(放送禁止用語)な(放送禁止用語)野郎だとしても、全力で弁護する。サポートする。金も大事だが、それ以上に重大なものがある。
『全て』を吐いてもらう事だ。これがなけりゃ、助けられるどころか、こっちまで引きずり込まれてどんなチャンスにももう手が届かなくなる。届いたはずのものにも、だ。
分かるか? 真実の無い所には、どんな助けも(放送禁止・放送禁止・放送禁止用語)以下だ」
サガは、じっと俺の顔を見つめている。
俺は、にっこりとそんなサガに笑いかけて口を開いた。
「今日の昼。カノンからわざわざ事務所に電話があった」
サガの肩が、ビクリ、と大きく揺れた。

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