秘密

その日、ロスは帰りが遅かった。


いつも、帰宅が8時を過ぎる時には必ず電話をくれるのに、その夜は九時を過ぎても電話がなかった。
電話も忘れるほど忙しいのなら、こちらからの電話を受ける暇もないだろう、とは思ったが、何となく胸騒ぎを感じて、暫く迷った末に結局受話器をとった。
「ああ、エセル」
二度ほど呼び出し音が鳴って、それから、少し疲れたようなロスの声が聞こえた。
ああ、よかった、という安堵と、やはり仕事に没頭していたのを邪魔したのか、と少し罪悪感を覚えた。
「どうしたの? 今日は遅いのかい?」
「ちと厄介なのが入ったから、もう少し準備してから帰る。食事は? 先に済ませてろ? 風呂もな」
短い電話は、最後に「I love you」と告げて切れた。
食事を先に済ませていろ、ということは、まだ当分帰れない、ということだ。もしかしたら帰宅は日付が変わった後になるかもしれない。
香草焼きにするつもりだったラム肉にまたラップをして冷蔵庫に仕舞った。一人で食べても美味しくないし、夜中に重い食事はアイオロスにもよくない。明日一緒に楽しめばいいと思ったからだ。
スープとサラダ、バゲットにチーズの切れ端を乗せただけの簡単な食事を済ませて、まだ換毛の終わっていないウサギ達の毛をラバーブラシで梳いていると、部屋の外の階段を上がって来る足音が聞こえた。木の階段の軋み具合で、聞き慣れたアイオロスの足音だと分かった。
「お帰り。お疲れさま。御飯は?」
鍵穴に鍵を差し込まれる前に扉を開けると、はたして、幾分くたびれた様子のアイオロスが立っていた。
「何か一口つまめれば、今はいいよ。あと、冷たい水を一杯」
「水? ビールも冷えているよ?」
「いや、水でいい」
遅くまで仕事をして、アルコールも飲まないなんて、よほど疲れているのか、まだ仕事を続けるつもりなのか。
とにかく、着替えて寛いだら、と言ってサラダとスープをテーブルに運ぼうとすると、アイオロスはキッチンにまで入って来て、「いいよ、ここでつまむ」とキッチン脇に置いたサラダボールから直接一口サラダを頬張り、チーズを挟んだバゲット半分を一口で飲み込んで、一気にグラスの水を空けた。
「さて、サガ。少し話があるんだが、いいかな?」
ここに至って、私は、アイオロスの疲労の原因がどうやら仕事の為ばかりではないらしい、と漸く気付いた。
思えば、ロスが家に戻って一番にすることといえば、まずネクタイを外すことだ。スーツもさっさと脱いで着替えてしまう。それなのに、今アイオロスは、ネクタイを閉め直す素振りを見せたのだ。
第一。
まともに「サガ」と呼ばれたのなど、一体何年ぶりだろう??
思わず、なんと応えたものかわからず、呆然としていると、手を引かれて居間のソファに連れていかれた。促されるまま腰を下ろすと、なんとアイオロスは隣ではなく正面のソファに腰掛けた。
これは、相当に怒っているか、あるいはこちらにとって大問題のことを打ち明ける気か、どちらかだ。
そしてまずいことに、私には、アイオロスが怒る理由に嫌というほど心あたりがあった……。
「サガ、俺の職業は知っているよな?」
アイオロスが、所謂弁護士の職業スマイルを全開に浮かべながら、そう訊いて来た。
「弁護士はな、弁護人がどんなに腐った……で……な……野郎だとしても、全力で弁護する。サポートする。金も大事だが、それ以上に重大なものがある。
『全て』を吐いてもらう事だ。これがなけりゃ、助けられるどころか、こっちまで引きずり込まれてどんなチャンスにももう手が届かなくなる。届いたはずのものにも、だ。
分かるか? 真実の無い所には、どんな助けも……以下だ」
所々、とても文字には出来ない単語が飛び出したところをみると、仕事で何らかの大きなストレスがあったのは確からしい。しかし、彼の論点がそこにはないことは、次の台詞で明らかだった。
「今日の昼。カノンからわざわざ事務所に電話があった」
ああ、カノン……!!!
どうして、口止めしておかなかったのだろう、と悔やんでももう遅い。
これまで、カノンがこちらに連絡する時にはいつも私の携帯にかけていたし、まさかアイオロスに直接、しかも職場に連絡が入るなど、想像もしなかった(そもそも、カノンはアイオロスの職場の番号をどうやって知ったのだろう?)。
父の誕生日に実家に戻り、絶縁状ともいえるあの書類を置き去りにしてロンドンに戻ったのが既に二週間前。翌日にカノンから電話があり、「証拠を見せろ」と凄まれて投函したロイヤルメールは二十四時間以内にカノンの手元に届いた筈だから、丁度DNA検査の結果が出たころだ。
つまり、カノンはDNAが恐らく彼が提供したサンプルと一致したので驚き、怒りのあまりその矛先をアイオロスに向けてしまったのだ。不満はまず私にぶつけて来ると思っていただけに、この予想外の展開の予防策は何もとっていなかった──もっとも、口止めしたところで、どれだけ意味があったかは定かではないのだが。
「で、サガ、何か俺に話すことはないか?」
思わず絶望的な溜息をつくと、アイオロスはそうにっこりと笑いながら訊いて来た。
笑ってはいる。けれど、まるで、狼が獲物を眺める笑顔に私には見える……。
「……カノンは一体どこまで喋った?」
「サガ、言っただろう? 弁護士に隠し事はなしだ。カノンが何を言ったかは問題じゃない」
「でも………」
「でも?」
ひくり、とアイオロスの口元が歪んだ、ように見えた。(被害妄想かも知れない)
私は、周囲の空気の密度が急に下がったような気がして、思わず口を開けた。
「……………」
「どうした? サガ。言ってご覧」
「……………」
声がでない。本当はまだ迷っている。言っていいものかどうか。
「ほら。怒らないから」
この台詞が信じられるかどうかは、甚だ怪しい。アイオロスは怒らないと言ったら本当に怒らないが、その代わり、多少夜の生活が多少荒れる事は多々あるからだ。
しかし、今問題なのはそのことではなかった。アイオロスが怒っても仕方がないと思っていたし、知られたら怒るだろう、とは最初から覚悟していたからだ。
「……でも、言えば、きっと君は傷付くよ……」
漸くそれだけ押し出すと(最早アイオロスの顔は見ていられなかった)、アイオロスは深い溜め息をついた。
「お前が言おうが言うまいが、やっちまったもんは仕方ないだろう? それともなんだ、お前は、一生隠しておければそれでいいと思ってたのか?」
「そんなことはない! ……でも、もう少し落ち着いてから言おうと思っていたんだ。今はまだ、誰にとっても痛いことだろうから……」
やってしまったこと、というアイオロスの言葉で、ロスは全てカノンから聞いたのだ、と悟った。本当なら、傷付くのは両親とカノンだけで済むはずだったのに、私の対応がまずかったせいで、結局ロスにまで痛い思いをさせた。
「……本当に、ごめん……」
思わずそう呟くと、また溜息が聞こえた。
「……謝るくらいなら、なんで一言俺に相談しなかったかなあ……」
「……言えば、君は絶対に反対しただろう?」
「反対って、何に?」
思わず顔を上げると、アイオロスの目がじっとこちらを見下ろしていた。まだお前の口からは何も聞いていない、とその視線が語っている。
「……分かった。最初から、話すよ」
私は、溜息を噛み殺して、ソファに深く腰掛け直した。
「精管結紮手術が使えるかも知れない、と思い始めたのは、あのロスをHRSから引き取ったときだった。生殖機能に障害がある当主も過去に居なかったわけではないけれど、その場合、結局その次の代は弟か、最も近い親類が継ぐことになる。弟と年齢が離れているならともかく、同い年のカノンなら初めから彼が継いでもさして変わりはない。カノンの子供が将来当主になることはもう決まっているのだから、ならば最初から当主の家で育てた方がよい、という意見も通るだろうと予測できた。
そうはいっても、vasectomyはほぼ不可逆の避妊術だ。子供を作る気はないけれど、両親の衝撃を考えたら、なるべくやりたくはなかった。……決心がついたのは、今年の一月、公現節に家に戻った時だ」
昨年末、実家に戻らなかった私に対する父の制裁は、私の訴えに対する「完全無視」だった。つまり、私の精一杯の説得も、クリスマスに家に戻らないという反抗も、全くなかったことにされてしまったのだ。
無論、私には父の立場も分かる。アイオロスの実家で、ロスが彼の父親と話している様子を見ると、私と父の関係とは全く違う、と実感する。彼等は父子であると同時に、それぞれが独立した家を持つ大人でもある。意見の衝突も時には起こるし、そんな時アイオロスは決して譲らない。
けれど、私と父の関係はまったく別だ。古い言い方をすれば、私にとってシュローズベリ伯爵は主君であり、父にとって私は臣下に当たる。そして、そんな父が私に下す最も重要な命が次代を継ぐことであり、それは一臣下が説得してどうなるものでもない。厳密に、例外なく長子にのみ家督を譲り、それ以外の子に財産を分ける事を禁じた英国のシステムこそが、財産分与で弱体化の一途を辿った大陸の貴族達と異なり長く繁栄を築いたこの国の貴族の礎だからだ。
「父にも、他に道がなかったのだろうと思う。カノンが家を継ぐためには、私がどうしても家を継げない理由がなくてはならない。彼がイギリスで育っていれば、カノンに継がせることにここまでの難しさは無かったのだろうけれど……。ただ私が家を出たい、継承権を放棄したい、と言ったところで、たとえ父が納得しても親類を説得し切れない。無理を通せば、後を継ぐカノンが周囲の協力を得られず大変な苦労をすることになる。
父は、昔、曾祖父の反対を押し切ってカノンをアメリカに送った。それは、父の弟が、父に万が一の事があったときのために長子と同じ教育を受け、その結果とても不幸になってしまったからだ。兄である父と同じ教育を与えられながら財産は与えられず、自活する術も知らずに、荒れた生活で借金を重ね、父や祖父を恨んで亡くなった。
父は、私と同じ日に生まれながら財産を得る事が出来ないカノンに、早いうちから私とは異なる生き方を教えたかったのだと思う。私はその父の判断を尊いと思うけれど、あの家に連なる人間の意見は決して同じではない……次男は長男のスペアだといわんばかりに、カノンにも私と同じ教育を受けさせるべきだった、という意見が大半だ。それは裏を返せば、カノンには家を継ぐ資質がない、という意思表示でもある。そんな冷たい視線の中に、カノンを置きたくなかったのだろう……」
アイオロスは、ただ黙って、続きを促した。
「私自身は、カノンの方がよほど当主としての資質があると思っている。あの莫大な資産をどう管理するか、現代の貴族というのはよほど優れた金銭感覚がないと、とてもやっていけないからね。世界で揉まれてきたカノンの方がずっとそのセンスがあると本気で思う。
けれど、周囲はそう思っていない。私に出来ると思っているし、私が一番だと思っているんだ。どちらも間違っているのに。でも、その思い込みを壊すには、私自身の価値が下がらなければ駄目なのだと、でなければ交渉のテーブルにすらついてもらえないのだと漸く悟ったんだ。
それで、公現節の後すぐにvasectomyをする医者を探した。二月初旬、君が出張でブライトンに行っている間に済ませてしまうつもりで。ところが、実際に診察の予約をしようとすると、まず結婚しているかと聞かれ、まだだと言ったらそれではうちでは引き受けられない、と断られてしまった。あとでよくよく調べてみたら、良識のある医者は普通、結婚して子供も既にそれなりの数おり、もう子供を望まない夫婦が、ご夫人にかかる避妊の負担を軽減するためにしかvasectomyはやらないものだという。流石に困ったよ(笑)。家を継ぎたくないから、などと本当の事を言えば、ますます医者はやりたがらないだろう……」
「……まあ、そりゃそうだろうな。もっとも、金を払えばやる医者もいるだろうが……」
「そうなのかな……三、四件電話したけれど、皆似たような反応で……」
「そりゃお前のその流暢なキングス・イングリッシュで、まだ独身だがパイプカットしたい、なんて、怪しさ百二十パーセントだろうが? 女とナマでやりまくりたいから、って雰囲気でもないし?」
「えっ……? そんな目的でするものなのかい?」
アイオロスは、まじまじと私の顔を見詰めて、それからはあ、と溜息をついた。
「はいはい。続きをどうぞ」
「うん……それで、困って、ドウコに相談したんだ。知り合いの医者で、やってくれそうな人はいないか、と……」
「ふーん……ドウコには話したんだな。俺には話さなかったくせに」
「それは、本当に悪かったよ……でも、ドウコも、家の柵で苦労した人だから、こちらの切羽詰まった状況を理解してくれるかもしれないと思ったんだ。
勿論、止められはしたけれどね。vasectomyによって、精子は出口を無くし、作られては吸収を繰り返し、やがて精子もあまり作らなくなる。現代の医学では、ホルモンは作られるから性欲は減退しない、ということになっているが、自分には不要になった器官がホルモンを出し続けるとも思えない、と。私の方がすっかりその気をなくしても、君とうまくいくのか、と本気で心配されたよ(笑)。
でも、結局ドクターを紹介してくれて……それで、一月の終わりに、そのドクターの診察を受けた」
今迄口元に笑みを浮かべていたアイオロスの眼差しが真剣になった。
「……それで?」
「先にドウコが事情を説明してくれていたらしい。私がどうして精管結紮手術を希望するのか、既に知っていたんだ。それで、今迄にも聞かれた事をまた聞かれた。ドクターは、とても渋い顔をしていたけれど、暫く考えて、こう言ったんだ。
『では、実家の方を説得することが出来さえすればよいわけですね』と。
私がその通りだ、と言うと、また暫く考え込んで、条件付きで引き受けます、と言って下さったんだ」
「条件付き、って?」
「……そう。その条件を、君も飲んでもらわないといけない。でないと、これ以上は話せない」
私は、アイオロスの目をじっと見返した。アイオロスは、また口元に笑みを閃かせ、言ってみろ、と言った。
「今から話す事を、決して誰にも話さないこと。……私は、その約束を破る事になるけれどね。それは君の口の固さを信じるからだ。万が一、このことが外に漏れれば、ドクターの医者生命が脅かされるかもしれない。絶対に───どんな場合でも、たとえ潰れる程飲んだ時でも、このことは喋らないと約束してくれるかい?」
「わかった。約束する」
「条件はもうひとつある。そちらも飲んでもらわないといけないけれど、それはあとで話すよ。そちらにも必ずYesと言ってくれると約束するなら、この先を続ける」
「なんだかよくわからんが、まあ、それも約束する」
普段ならそんなあやふやな約束など決してしようとしないのに、アイオロスはあっさりと二つ目の条件も飲んだ。
「ドクターが提案したのは、二つの精管のうち、一つを切断し、もう一つは可溶性の糸で縛るだけにしてはどうか、というものだったんだ。実は、昔は、精管結紮手術といえば縛るだけだったらしい。でもそれでは再結合の可能性が高い、ということで、現在は切断した上で切口を電気コテで焼き、更にUの字に織り込んで結ぶ、という方法が主流で、多分切断した管を見せない限り実家の人間も信じないだろう、というのがドクターの見解だった。
ただ、ドクターはやはり万が一を心配していて……もし両方の精管を切ってしまった後で、君にもしものことがあった時に、私はどうするつもりなのか、と聞かれたんだ。もしかしたら、女性と結婚することがあるかも知れない。そのときに、不妊手術をしてしまったことが、大変な重荷になる可能性も否定できない、と。糸は2ヶ月くらいかけて解ける溶解の遅いものを使えば、一ヶ月後の検査で精子数0を達成することが出来る。あとは、糸が解ければ、もしそれまでに管が癒着していなければ、精子自身の圧力で管が再び繋がるだろう、それで、私の目的は達成できるのではないか、と言われたんだ。……私は、結局、その手術をお願いした」
途端に、はあっ、と大きな安堵の息がアイオロスの口から漏れた。
「……流石、ドウコの知り合いだな。まともな医者でよかったよ」
「でも、ドクターに偽のカルテを書かせることになってしまったよ……」
「俺達がバラさなきゃ問題ないだろ。それで?」
「右の管は1インチほど切って、うまく二本の管から切り取ったように加工してもらった。これで多分大抵の医者は誤摩化せるだろうけれど、万が一半年後に再検査、などという運びになったら、その時は信用問題に関わるから、もう一本を切らせてもらう事になる、と言われた。これが二つ目の条件だよ。もっとも、私にはたとえ君に何かがあったとしても他の誰かと暮らす気はないから、両方切ってしまっても良かったのだけれどね。
でも、カノンが君のところへ電話してきたということは、カノンも両親も、私の不能を信じてくれた、ということだと理解していいのかな?」
「……まあ、今のところな。なんか、親父さんとお袋さん、相当まいってるらしいぞ。……親父はともかく、お袋さんには、ちゃんと謝れよ」
「ああ……手紙を書くよ。……きっと、私はもうあの家の門は潜らせてもらえないだろうから」
父は、多分私の顔など見たくもないに違いない。そして、その父に、母は逆らえないだろう。
最後に見た母の姿は、顔を覆って泣き崩れている姿だった。もっと優しい声をかけられたはずなのに、とそのことに痛い思いをしていると、ふと、ソファーの隣が沈んだ。
アイオロスが、隣に腰掛けている。
そして、いつものように、私の肩を抱き寄せた。
「あのな、一度しか言わないからよく聞いておけよ?
もし万が一、俺の身に何かがあったら、お前は、またちゃんと別のパートナーを見つけて、ここで生きて行くんだ。
あんな、牢獄のような家に戻る必要は何処にもない。
お前は、昔のお前とは違う。ちゃんと、自分で職も持っているし、やりたいこともあるし、家事だってなんだって出来る。嫁さんも、まあ、やる気になりゃ養えるさ。
何百年ものカビが生えたようなしきたりでがんじがらめの、あんな非人間的な場所で、お前ほどの才能を腐らせる事なんて、地球上の誰だって強要できやしない。いくらお前の親父でもだ。
だから、まあ、その残った種は大事にしとけ」
何か、とても重大な事を言ったらしいアイオロスの、とても優しい横顔を、私は呆然と見詰めていた。
アイオロスは、一体何を言っているのだろう?
私が家を出る決意をしたのは、アイオロスと離れたくなかったからだ。カノンの自由を奪い、両親をひどく傷つけても、どうしても戻りたくなかったのは、ただひとつだけ、アイオロスと共に生きる道がそれしかなかったからだ。
アイオロスがいなくなったら、私がここに居る意味なんて、何もないのに?
「ロス、………それは、困るよ………? 私は、君と生きるために、実家と訣別したんだ……君にとっては牢獄のような家でも、私にはたったひとつの帰る場所だったし、決して実家での暮らしが嫌だから家に戻らなかったわけじゃない。ただ、君と一緒にいたかったからだ。
もし万が一、君に何かがあったら……私は迷わず実家に戻るつもりでいたよ? それを捨てたのに……。
君は、まさか、君が居なくても私がここで生きる事に意味があると、本気でそう思っているのかい? だとしたら、それは間違いだ。私は、君を選び、そのためにいくつもの大切なものを諦めた。君がいないのに、それを諦め続けなければならない理由が何処にある? でも、実家と訣別した今となっては、それらはもう二度と戻らない。……それなのに、君は、私より早くさっさとこの世に別れを告げるつもりなのかい?」
アイオロスの両目が大きく見開かれ、私の髪を優しく撫でていた手が、その形のまま硬直した。

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