案の定、発表準備は朝までかかり、結局徹夜で会場へ。つくづく、会議が午前で終わってよかったと思いつつ、Unter der Lindenへ。
幸い、発表は好評を得ることができ、プロジェクトについてのいくつかの質問も受けた。
午後昼食後に近くのペルガモン博物館の階段で集合写真を撮影。ここの博物館には三年前の会議の時に来た事があるが、とにかく展示内容に圧倒される。なにしろ、三十段近い階段を含むゼウスの祭壇や、天にそびえるようなイシュタル門がそのまま博物館の内部で展示されているのだから……
集合写真を取るのを待つ間、会議参加者の写真を撮ってみた。
写真を撮り終わって解散。
そのまま、観光バスへ。
午後のexcursionはポツダムへ向かう、とのことだった。バスに乗り込むと、隣は先の会議の後で私に話しかけてきた女性と相席になった。彼女とは研究分野が近いこともあり、実は先の会議でも幾度か共にランチをとりに出かけた仲だった。
彼女は現在はアメリカに住んでいるが、ポーランド出身だ。発表の準備で忙しく今日の目的地を知らなかった私は、彼女にそれを尋ねたが、やはり今日発表があった彼女もよくは知らないようだった。
「ポツダムというと、」
と、私はつい余計な口を挟んだ。
「どうしても第二次大戦を連想しますね」
ポーランド出身ならば、この地名は忘れ得ぬものであるに違いない。周囲は会議の合間の遠足に皆明るい会話が弾んでいる。彼女は口元に笑みを浮かべ、声を潜めてこう言った。
「ええ、ポーランドがソヴィエトに売られた場所よ」
周囲で沸き起こる笑い声の合間に、私達は共犯者のように密かな笑みを零した。
「日本に行っておられたのでしょう? ヒロシマは?」
「ええ、行った事があります。数年前ですが」
「こんなことを聞いていいのか分からないけど、日本の人は、Atomic Bombの投下についてどう思っているのかしら……アメリカでは、あれのお陰で戦争が終わったと皆信じているけど」
私は、自分が日本人の意見を代表する立場にないことを断った上で、これまでに私が出会った人から受けた印象を述べた。
「私が出会った日本人の間でも、人それぞれですね。太平洋戦争が終結したきっかけについては、アメリカの言い分を認める人もあれば、たとえ結果的にそうであっても、すくなくとも民間人にあれほどの被害を与える必要はなかったはずだ、と言う人もいました。
核兵器を実際に使用したのは、アメリカ側の事情では、結局はあれだけの国費と頭脳をつぎ込んだマンハッタン計画の結果を見ずに終わらせることが出来なかった、ということでしょう。戦力の差は明らかで、どんな道を選んでも結局はアメリカが勝利したでしょうから。それでも一度ならず二度までも投爆した理由は、最初がウラン原料の構造の簡単なガンタイプ爆弾、次がプルトニウム原料の爆縮型爆弾であった事実からも想像がつきます。その実験に口実を与えるために、アメリカではありとあらゆる宣伝が行われ、投爆が正当化された。実際戦争が起これば、如何に自国の被害を抑えて敵国に損害を与えるかが重要ですから、それらの宣伝の全てが間違っているわけではない。
しかし、それを非戦闘員が密集する市街地に投下したことはそう簡単には正当化出来ないでしょうし、さらにそのお陰で日本は軍国主義から開放され民主主義国家に生まれ変わる事が出来た、と恩着せがましく言われるのは我慢がならない、というのが彼等の被害者としての本音なのだろう、と思います。アメリカの立場に同調する人であっても、核兵器を二度と使用するべきではない、という点に関しては一貫していました。無論、我々の中にも一人としてそれを望む者はいないでしょうが、あの国ではそれが核に対する嫌悪感に根ざしています。もっとも、それも近年薄れているようですが……」
「そうね」
彼女はそう零して、天に向かって息を吐いた。
「私の国でも、嫌悪感は薄れている……。あの戦争の体験者は、あまりに酷い体験をしたから、多くの人が戦後長い間その体験を語ろうとしなかったの。漸く最近になって、記憶を風化させないために皆話すようになってきたけれど」
「そうですね。ポーランドの傷はまた複雑でしょうから……」
「こんな話があるのよ。信じられる?
アウシュヴィッツ、という名前をポーランドの学生に見せて、それが何かを四択で回答させたら、なんと一番多かった回答が、ドイツの大手グロッサリーストアの名前、という話」
「えっ……そんな名前のグロッサリーストアが本当にあるのですか?」
「まさか。知らないから適当にそう答えた、ということでしょう。まあ、アウシュヴィッツはドイツ語の地名でポーランド語ではオシフィエンチムというから、そのせいも勿論あるだろうし、私も聞いた話だから本当かどうか知らないけど。でも、本当だと言われても驚かないわ」
イギリスでも 、2004年2月にBBCが行った世論調査で回答者の45%がアウシュヴィッツの名前すら知らなかったという結果(35歳以下、及び女性では60%以上)が得られて話題になった。過去の悲劇がここまで風化している事実に私も驚いたが、まさかホロコーストの被害を受けた側であるポーランドで同様の現象が起きているとは想像もしていなかった。悲劇の経験者にとっては、口にすることはおろか、思い出したくもない地名だということなのだろう。
しかし、イギリスでは先の調査結果を報告したBBCのアウシュヴッツ開放60周年記念ドキュメンタリー番組の放送後、2005年1月に行われた調査で、アウシュヴィッツの認知度は94%(35歳以下で86%、女性では92%)に回復したのだ(もっともこの間、Prince Harryがナチの軍服で仮装パーティに出たというスキャンダルがあり、それが知名度に貢献した可能性も否定できないが)。悲劇を自分の口で語ることが辛いポーランドであればこそ、メディアの助けが必要なのかもしれない。
二時間ほどの旅程をそんな話や互いの研究の話で潰し、漸く到着した場所で私はやっとこの小旅行の行き先を理解した。
ポツダムといえば、サン・スーシー宮殿があるではないか……。
ベルリンの観光冊子でも持っていれば、必ず出て来る地名だけれど、今回は会議のために来たので何も持って来ていなかった。会議は明後日に終わるが、そのあとすぐにナポリへ立たねばならないこともあって、ベルリンで観光が出来るとは思っていなかったからだ。
バスを下ろされたのは、大きな風車の隣だった。バスに乗る前にひかされた籤で彼女とはここで分かれることになり、四つの小グループがそれぞれ庭園ツアーに出発した。
有名な庭園のある側の反対側から。
ポツダム宮殿は、私は実は宮殿そのものより庭園の美しさに惹かれる。実家の庭園は一面芝生に覆われていて、勿論それはとても私の好きな風景だけれど、ここの庭園の森は広大で深いからだ。
実はサン・スーシー宮殿(無憂宮)は以前にも一度訪れていて、本当は見るなら今度は新宮殿とCommuns(ポツダム大学の一部として使われている)を見たかったのだけれど、単独行動の時間はなく断念した。
シノワズリ風(中国風)茶館から無憂宮への道で。
ここまで軽く四十分程度は歩いた。携帯に付属のカメラしか持っていなかったので、光線の調整があまり出来ない。
ところで、このあたりは土竜の天国らしい。手前の芝生にも、土竜塚が沢山出来ていた。
実家で老ヘンリーがこのようなものを見たら、さぞかし眉を顰めるのではないだろうか。
無憂宮の階段を上る会議参加者達。この階段の両脇は葡萄棚になっているのだけれど、この葡萄がどうせ酸っぱいだろうとためしに一粒口に含んでみたら大層甘かった。
夕刻の無憂宮。人がいないところを狙って撮ろうとしたら、歪んでしまった……
(またアイオロスに笑われるに違いない……何故かこれだけ高解像度で撮れていた)
その後、Schloss Glienickeでディナーをとるコースだったらしく、バスはポツダムからベルリンへ戻る途中でグリーニケ宮殿に立ち寄った。
明るいうちならば景色も美しかったようだが、残念ながら日が落ちかけていてあまり風景は見えなかった。
入口の門。
中庭で、アペリティフを飲みながら。
ところで、このグリーニケ宮殿のレストランというのは地元ではかなり有名なレストランだったらしい。
実はドイツの会合で食事の内容はあまり期待していなかったのだけれど、とても美味しかったので驚いた。美食家で有名なベルギー出身の研究者が、スピーチを三十秒で打ち切って、興奮気味に「過去にベルリンで訪れたレストランで、唯一三ツ星をつけても良い」と締めくくったのが印象的だった。
写真の量がかさんだので、続きはまた後日。