今年のカミュの誕生日は、日曜日だった。
週末は実家に帰っている、という短いメールを受けてはいたけれど、だからと言って何もしないではいられなかったので、夜の便の飛行機に飛び乗った。
カミュが、以前美味しいと言って喜んでいたワインを二本と昨日の晩に作っておいたティラミスを持ってヒースローに降りた。
£4の地下鉄料金でのろのろとロンドン市内に入り、ネットで見つた花屋に頼んでおいた花束を引き取りに行く。オールドストリートから歩くこと15分。なんだか有名なフローリストの店らしく、窓から見えるディスプレイも綺麗だった。
カミュも見たら楽しみそうだな。
そんな事をすぐに考える。
店内は清潔で、店員もテキパキとしていて気持ちがいい。ついつい他の小さなブーケにも目がいってしまって、結局注文していた花束のほかにもう一つ、買ってしまった。
頼んでおいた大きな花束はカミュの誕生日プレゼント、こっちはバレンタイン用だと理由を付ける。
カミュのアパートに行く途中、まだ開いていたWholeFoodsに立ち寄った。なんとなく、直行しづらかったからだ。
プレゼントは用意してきたのに、その上小さな花束まで買い足したのに、それでも足りないような気がして、結局そこでまたワインを一本と麦の苗をウサギ用のプレゼントとして買った。
拒絶されていると分っているのに、何をやっているんだろうと思う。
カミュの部屋はアパートの三階。貰っている鍵で玄関ホールの扉を開け、階段を上り部屋の前まで行った。
居ない、と連絡があったとおり、ノックしてもカミュの返事は返って来なかった。
合鍵は貰ってあるけれど、顔も見たくない、話もしたくない、という相手に家の中に勝手に入られるのはきっと気持ちのいいものじゃないだろう。そう思って、荷物はカミュの部屋のドアに立てかけるように置いた。
ちゃんとリボンや包装紙が掛かっているから、爆弾だなんて思われる事は無いと思うけれど、念のため、最後に買ったウサギ用の生草は花束に隠れて見えないようにしてみた。買い物袋に入っていては怪しまれると思ったから。
ドアの前にはこんもりと小さなプレゼントの山が出来て、数歩下がってその出来栄えを確認したら、溜め息が口から漏れた。
もう一度、絨毯の上を歩いてその小山の前まで行き、跪いて花たちの頭を撫でた。
少しでも、綺麗だと思ってくれたらいいのだけれど……
日本で教わったやり方で手を合わせた。
手の皺と皺を合わせて人の幸せを願うってやつだ。
目を閉じて暫くじっとそんな風に祈っていた。
と、ふと人の気配を感じて目をあけると、カミュと同じ階に住んでいる人なんだろう、廊下の先からこっちをいぶかしむようにして見ていた。
こりゃ、立派な不審者かもしれない。
長居をしてはカミュに迷惑かもしれない。
コートの胸ポケットに入れてきた手紙をプレゼントの箱の下に忍ばせて、カミュのアパートを後にした。
今年は大雪だというロンドン。雪の名残は見当たらないけれど、空気が冷たく吐く息が白くなる。
一泊£20という宿泊代で決めたハイドパーク横のユースホテルに一人で足を向けた。地下鉄のパディントン駅まで直ぐの場所で、空港までのエクスプレスが使えるいい立地だ。
残してきた手紙と、それをカミュが読んだらどう思うか、そればかりを考えながら歩いて、ホテルのレセプションで頭が一気に冴えた。
部屋が無い??
予約を承ってない??
そんな筈、無いだろう???!!
プリントアウトしてきた紙を見せれば、受付は困惑、俺はがっくり。
けれど、どう頑張っても部屋は埋まっていると言われ、俺はホテルを出てパディントン駅に向かいながら携帯でリアに電話を掛けた。
「まあ、泊めてやりたいのは山々だが、今、ウチはインフルの攻撃を受けて重軽傷者4人といったところでな……」
咳に掠れた声で応えられて、慌ててくれぐれも大事にしてくれと言って電話を切る。
こんな時間に行っても大丈夫なロンドン市内の家、となると物凄く限られてる。
これは、諦めてどこか別のホテルを探した方がいいのかもしれない……。
溜め息を付いて一度出たホテルに引き返して、何処か探してもらおうとした時、
「お前、こんな所で何してんだ?!」
と突然後ろから声を掛けられた。
振り向くと、前髪を後ろに上げて、きっちりネクタイを締めて黒いコートを羽織ったアイオロスが目を見開いてこっちを見ていた。
ロスはざっと、仕事でクライアントと会った帰りに使ったヒースローコネクトがノッティングヒルでストップしたのでベーカールー線に乗り換えようとパディントンに向って歩いていたのだと話してくれた。
道理でこの時間にしては人通りが多い。
それで俺も、カミュの誕生日が明日だったから、プレゼントを届け、ホテルに到着してみれば部屋が取れていなかった、という事情を説明する。
じっと俺の顔を見ていたロスは、話を聞き終わるなり盛大に溜め息を吐いた。そして、指で突いて来い、と合図するなり歩き出した。
途中、ロスは携帯で二箇所に電話をしていた。一つはサガだ。けれどもう一つは、人に遮られて聞き取れなかった。
茶色のベーカールー線に二人で乗り込む。少しガランとした車内で、なんとなくお互い黙ったまま電車はいくつもの駅に止まっては出発を繰り返し、やがて、オックスフォードサーカスの駅構内を発車した。
「次で降りるぞ」と、ロスが一言、短く言った。
ピカデリーサーカスで降りると、ロスはまたさっさと街中を歩き出した。見失わないようにその背中を追ううちに、どんどん中華街に入り込み、奥まった小さな路地を進み、やっと一つのドアにロスの手が掛かった。
看板は、あるのか無いのか良く分らない。あったとしてもとても目立たない代物か、チャイニーズキャラクターで表されていて気付かなかったかなんだと思う。
小さなドアをくぐると店内は意外にゆったりとしていて温かかった。冷たい外気に慣れていた頬がちくちくした。
ちらっと視線を送ってきた案内係に、ロスは「連れが来るから」と断って、コートを預けるとさっさと店の奥の席に移動して慣れた様子でメニューに目を走らせると注文を済ませてしまった。
店の中の空気から、アルコールを飲むような場所では無い事が推測できて意外さが増す。
と、テーブルに小さな指貫みたいな形をしたカップとティーポットが運ばれてきた。
なんだか訳が分らなくなってロスを思わず見詰めると、
「ここは飲茶専門店。つまり茶を飲む場所って事だ」
と、更に意外な事を言われた。
「……ロス、どっか具合悪い……とか?」
思わず聞いて盛大に睨まれた。
「煙草、気にしないだろ?」
「ああ、うん」
ちっとも俺の返事なんて待ってないタイミングで、ロスは背広の内ポケットから煙草を取り出すと一本咥えて火を付けた。
「イギリスって、飲食店での喫煙は禁止されたんじゃなかったっけ?」
煙草を吸っている人間が決してロス一人ではない店内の様子に、声を低くして訊ねると、
「治外法権」
とまた短い答えが返ってきた。
「お前も吸うか?」
「……いや、後で。欲しくなったら貰う」
ちらっと、ロスは俺の顔を見てから、何も言わずに煙草を咥えたまま小さな器にお茶を入れてくれた。紅茶とも緑茶とも違う匂いがふわっと湯気と一緒に鼻に届いた。
やがて、小さな竹の蒸し器に入った一口サイズの料理がテーブルに運ばれてきて、それを食べながらお茶を飲んでいるとロスの待っていた人がやって来た。
ドウコだ。
ロスが食事を始めたのでてっきりサガがくるのかと思っていたし、それに、ドウコに会うなんて全く想像もしていなかったのでそれなりに驚いた。
けれど、考えてみれば不思議はないのかもしれない。
サガがやってくるならロスは煙草に火なんか付けないだろうし、わざわざ中華街に来たんだ。華僑のドウコの方が余程この店の雰囲気に合う。
思わず立ち上がって挨拶をしようとした俺を、ドウコは笑って止めた。ロスに、「何を飲んでいるんだ」と聞いて自分の分のお茶と料理を注文し、どっかりと席に腰を落ち着けた。
そして、
「さて、」
と明るい声を出すと、笑顔のまま「何があった?」と訊ねられた。
何があった、と聞いたのは、俺がホテルに泊まれなくなったとかそんな事じゃなくて、カミュの事だった。
「あれも、可愛い後輩なんでな」
カラカラと笑いながら、ドウコは蒸かしたダンプリングに手を伸ばして一口に頬張る。
ドウコはクイーンズベリのオーケストラの団長でパーカッションのパート・リーダーだった。ドウコに声をかけられて、カミュはオケに入団し、パーカッションに入り、そして、団長になった。
俺が、いつまでもシオンやサガに頭が上がらないように、ロスに色々と忠告してもらうように、カミュとドウコの間にも切っても切れない縁があるんだろう。
自然に、喉が鳴った。
今年に入ってロスに言ったのと同じ内容をもう一度、ドウコに向って説明した。
去年のクリスマスにカミュにプロポーズして、断られて、その理由を問い詰める中に、とうとう触っちゃいけなかったカミュの傷に触れてしまった。
そして、カミュは全部を終わりにする方の選択をした。
けれど、俺にとっては、まだその選択だけが全てじゃないから、会って話がしたいと頼んでいる。
そう説明した。
「まあ、お前さん達が所謂『結婚』、エインズワースと同じような関係になるのは、現状では無理だろうな」
俺の話を聞き終えたドウコは、声を上げて笑い、そう断言した。
思わず歯を食いしばった。
リアもそう言う。母さん達もそう言う。カルテットの仲間も、カミュと俺の関係を知っている人間はみんな一様にそう言う。俺には、まだ違う選択肢も見えているのに……。
「でも、」と言いたいのを口を引き結んで堪えていると、ドウコの気配がふっと緩んだ。
ドウコの肉の厚い手の平が、小さな茶飲みを掴んで口元にそれを運んだ。
「お前たちはな、お互いに相手への気張りが多すぎるんだよ。そういうのは、恋人や火遊びをたのしむんにはいいんだろうが、家族として一緒になるのはできんだろう……?」
ドウコの顔を凝視した。でも、ドウコの顔にはそれ以上の答えなんて何も書いてない。
「お前も、あいつも、別に違う人間でもいいんじゃないのか?」
ロスが煙草の煙が立ち上る様を眺めながらゆったり言った。
瞬間、むかっときて反論しようとしたのを、ロスは目を細めて制した。
「お前、ずっとあいつがピアノを止めた事、自分のせいだと思ってるだろう? 思っていながら側から離れないようにしようと心がけてるだろう? 10年前、バーロウのやった事は、当てつけの狂言自殺みたいなもんだ。まあ、多分に若気の至りだが。そういう意味で言えば、むしろお前の後悔の念は被害者が、無意識に追い詰めて犯行に走らせてしまった加害者に対して持つ罪悪感みたいなもので、そういうのを抱えたまま一生側に居ます、と言われても、正直ウザイと思うし、まっぴらごめんだ、というのがいくら多少の好意を持っている相手からの申し出としても本音って所じゃねぇか?
俺の目には不毛な関係に見える」
「儂らのような人間の目から見れば、体が意地を張っているというふうに見えるな」
ロスが面白くなさそうな顔で言った言葉を、ドウコが二カッと笑って継いだ。
「……俺は……罪悪感とか、そんなんじゃなく、カミュの事が好きで、でも辛い思いもたくさんさせてきたし、謝ってもすまないような事もたくさんしたから、だから……」
「ほら見ろ、罪悪感じゃねぇか」
ロスの黄色の目がじろっとこっちを一瞬見た。返す言葉が出なかった。
ロスは凭れていた椅子の背から上半身を起こすと、両手を組んで肘を両足の膝に乗せ、前かがみの姿勢になって俺の顔をピタリと視線に捕らえた。
「バーロウがお前と結婚すれば、お前がバーロウにした事は全部チャラになるのか? お前のそのゲイジュツカ特有だかなんだか知らんが我侭体癖が修正されるのか? バーロウがお前の申し出を受ければそれで一生が丸く収まるのか? 呆れてものが言えんぞ俺は」
「違う……! そんな風になんて思ってない……!! ただ、カミュが、どんどん、色んな事を諦めるのが嫌だったから。どんどんとカミュがやりたたかったことや、俺にして欲しかった事とかを、全部一人で諦めて、それでも「いい」って自分自身を納得させるから、納得させながら、いつでも離れてもいい準備をしているから、そうじゃない方向に踏ん張る為の申し込みだったんだ!」
上手く言葉に出来ない。
カミュに説明できていたのか、その自信も危うい。
「だから、そうやって、無理に縋って続けていくもんじゃないだろうが? そんなんで一緒に暮らしてみろ、双方にとってそんな生活は地獄だね」
ロスの言葉が、俺の胸を抉った。
そうじゃない、そういうことじゃない。そんな言葉だけが頭の中をぐるぐると回った。
カミュにも分って貰えなかった事を、どうやってロスに分ってなんて貰えるだろう?
結構な長い時間、誰も喋らなかった。
お湯のお代わりをドウコが頼んで、熱いお茶を飲みながら、考えているふりをして時間を過ごした。
でも、頭の中にはなんの言葉もありはしない。
「10代の頃、バーロウは本当にお前が欲しくて堪らなかったんだろうよ。だから、捨て身でお前に与えられるだけのものを与えた。20代前半のあいつは、お前の事を自分が与えたから自分を好きになってくれたと考えていた。不安もたくさんあっただろうよ。一度お前と別れて、それでまたなんでお前とよりを戻す結果になったのか、俺もリアと同じで判断がつかん。そういう脅迫観念に縛られた親子や人間関係を俺は知っているが、そこまでアイツはお前の存在に切迫しているわけじゃないと見える。しかし、よりを戻した。
でも、お前、本当はバーロウのその熱意が怖いんだろう? 傍目から見るとお前はアイツの熱意に怯えてるように見える。だからバーロウは一人で空回りする。相手を怯えさせるのなら自分の情熱を控えるのがいいのか、虚勢を張ってどんな態度のお前も受け止める振りをすればいいのか。
お前も30になってんだ、いい加減覚悟ってもんを決めとけよ。でないと見苦しいぞ。少なくとも、俺の目にはバーロウは自分の人生に一つのケジメを付けたように見えるぞ」
ああ、そうか。
と俺は思った。
いつもはカミュをからかいたくて俺をエサにカミュの毛を逆撫でしてばかりいるロスだけれど、それだけカミュの事をよく見ているし、弟分みたいに遠慮が無く、だから、ここぞと言う時ではしっかりカミュが壊れてしまわないように目を光らせている。
俺は、今、ロスにカミュから手を引けって言われてるんだ……。
そう分った瞬間、なんだかとても可笑しな気分になって、でも、なんだか、とても幸せな気分になって、俺は声を上げて笑ってしまった。
本当は、カミュと俺なんかより、カミュとロスの方がもっと遠慮がなくて近い距離で生きていけるんだ。そういう人なんだって思ったからだ。
ロスは、笑い出した俺を眉を顰めて見詰め、やがて睨み付けた。
俺は、なんたが急に、もう本当の事を言ってもいいや、という気分になって笑顔でロスの顔を見詰めて言った。
「俺は、自分が物凄く我侭な人間だって知ってるよ。狭量だし、大抵の人間とは本当の意味で分かり合えたりしないだろうなって感じてる。俺は、人間も動物も植物も大抵のものは好きだけれど、でもその中で特別を見つけるのは難しい。特別っていうのは大切なものになってしまうから。大切なものになると、どうしても守りたくなるし、ただそっとしまっておきたくなる。
自分の我侭な色々に影響されず、そのままでいて欲しいと思ってしまう。逆に、自分の芯の部分からは遠ざけてしまいたくなる。
確かに、カミュと付き合い始めた時、そのときは一生懸命にカミュが満足できるモノになろうと必死だったんだと思う。カミュが、好きになって欲しいと願うから、それに応えたかったんだと思う。
カミュのくれる愛情が怖かった時もある。逃げ出したかった時もある。
けれど、今は違う。
何億も居る人間の中で、数え切れないほどある命の中で、カミュの存在だけが特別なんだ。カミュと付き合った時間の中で、だんだんにカミュの存在が俺の中で変わって来たんだ。俺の中でカミュの形が変わっていった間に、俺は散々カミュを傷つけているから、カミュの中での俺の存在も変わった。
今回の事は、その結果の一つだ。
カミュは最初、100くらいの気持ちで俺が好きだった。それが、今、50を下回ってしまったのかもしれない。それは分る。納得もいく。
でも、俺は、まだそうじゃないから。どういう風にカミュが好きなのか、分る前に付き合い始めて、カミュを引っ掻き回して、言葉は悪いけれど、カミュを練習台にして、いろんな事を学んできた。
その上で、カミュと一生、特別な関係でいたいんだ。
不満や寂しさを誤魔化しながら、繕って続ける関係じゃなく、カミュにいろんな事を飲み込ませて維持する関係じゃなく……」
「お前、そりゃ何年分の負債があるか分っての台詞か?」
ロスが、がっくりと首を垂れてガリガリと頭をかきながら聞いてきた。
「10年分はあると思ってるよ」
俺は溜め息を吐いて応えた。
「今から10年粘る気か?」
「それは、そうなっても仕方がない、とは思ってる。っていうより、もうたくさんだってなってるカミュの態度をどうにかしてニュートラルにする事が先なんだけど……」
「あいつなら、10年あればいい女見つけて結婚するぞ」
「するだろうな、という気はしてる。だから、困ってるけれど、借金だらけで、今の俺では何を言っても信憑性がない」
ロスが、もう一度盛大に溜め息を吐いた。
「でも、しょうがない。カミュみたいな人間は、もうきっと二度と俺の前には現れないよ。だから、俺にはカミュしかいない」
「……だから、お前、頭でそう決めてるだろう……そういうのが、」
「頭で決めてるわけじゃないよ。寧ろ、勘だよ。しょうがないよ。カミュは、きっと他の何人とでも上手くやっていける。でも、俺は、もうカミュ以外はいらない。だから、カミュが欲しい。離したくない。そういう事なんだ」
「はあああああ……お前みたいな奴を相手に離婚調停するのが一番骨が折れるんだ……」
ヤダヤダ、と言いながらロスはまたもう一度盛大に溜め息を吐くと、腕時計を確認して湯呑みに残っていった茶を一気に開けた。
「帰るのか?」
ドウコがロスに向って言った。
「帰りますよ。土曜日はサガと仲良くする約束の晩なんで」
ロスは胸のポケットから財布を取り出すと、さっと何枚かの紙幣を取り出し皿の下に半分に畳んで挟んだ。
「というわけで、今晩はお前、こちらの先輩の家にでも泊めてもらえ」
ロスは俺の頭を拳骨で軽く叩いて店から出て行った。
「さて、どうだ? 腹はくちたか? だったら、儂らも帰るかの」
ドウコはにっこり笑って俺の顔を覗くと、店員を呼んで会計を済ませ、タクシーの手配を頼んだ。
「パディントンに宿泊を希望していたのなら、明日は早いのか? だったらタクシーを使った方がいいだろう」
ドウコは二カッと笑うと、シオンへの土産だというダンプリングの詰め合わせを受け取って席を立った。
診療所の電気は玄関の小さな明かりだけが点いていて、ドウコは静かにドアを開けると、
「シオンの奴はもう寝ているからな。シャワーはもう使えんぞ」
と囁くと一階の隅の小さな部屋に案内してくれた。
「ムウの奴が時々使っているから埃臭くはないだろう。朝は適当に起きて好きにやってくれ」
そう言うと、来る途中に棚からひっぱりだしてきたタオルとTシャツを渡してくれた。
冬は、ヨーロッパはコンサートシーズンで、ちょこちょこと小さな活動が入って慌しい。
慌しいっていうのは、何個か受けたオケの賛助団員になったりしたので、トラの話が突然入ったり、突然入るかもしれない予定に身構えてたり、という落ち着きの無さを言う。
いくら国際コンクールで入賞したといっても、一番じゃない。これからも自分持ちのコンサートとかしなきゃそうそう人前で弾く機会なんて降って湧いたりしない。
でも、取った賞の名前が使えるうちに活動はしておくべきだから、2月の終わりと3月の終わりに、小さなホールを借りて何人かの音楽家と一緒にコンサートをする。
なにがしかの賞を取ったから終わりじゃないし、取れたから生活が一変するわけでもない。
やれることを、精一杯、そして、積み重ねて行くしかない。
2月8日、カミュから2月最後の週の週末だったら空いている。引越しの準備中なので私物の処理をして欲しいと連絡が入った。
読んで、正直凹んだ。
とても事務的なメールだったし、この文面からは、カミュのが何を思っているのかまったく掴めない。
それでも、やっと繋がったカミュからの返信だから、俺は連絡を感謝する言葉と、2月28日の晩にロンドンに行きたいと返事を書いた。
そして、少しずつ頭を冷やしながら、日常を過ごしていた時、マックスから、一本の電話が入った。
園芸用品店の結構有名な会社の社長を父に持つマックスは、大学はイギリスでなくアメリカを選んだ。
理由は、ダブル・メージャーで音楽と経済、両方取りたかったからだ。10年近くかけて学位を取ったマックスは、最近イギリスに戻って来て父親の会社で働いている。
そのマックスが、5月に地元で開催する祭りの催しの一つとして、リサイタルをしてみないか、と電話をかけてきてくれた。
「いや、小さな地元のお祭りだし、パガニーニで2位を取ったミロに頼むのもどうかと思ったんだけど、こういうのって縁じゃないか? どこにどんな縁が転がってるか分らないし、聞くだけ聞いてみようかと思ってさ。一応、うちの会社も賛助してるから、交通費、宿泊代は大丈夫だと思うし、多くはないけど謝礼も出せると思うんだ。どうかな?」
俺はカレンダーを確認して殆ど二つ返事でOKしていた。マックスの地元はクイーンズベリに近い。
学校を、覗いてこようか?
懐かしさと、5月の気候を思って久しぶりに胸が膨らんだ。
と、その時だった。
「なあ、ところで話は変わってカミュの事なんだけどさ、ミロ、なんか伝みたいなのないのか?」
話は確かに変わっていた。一体なんの事だと思う。
「ツテって、なんの話?」
「いや、だって、カミュ、なんか音大に入るような事言ってたからさぁ。音楽療法とか、教育とか作曲とか、指揮とかじゃなくてピアノで入るみたいな事で、アメリカの大学の事聞かれてさ。パフォーマンスで入るんなら、やっぱり師匠がいるとこじゃん? ヨーロッパじゃ年齢制限あるし、アメリカも学費が馬鹿高いし、今から入るんならてっとりばやくコネを使うのが一番確実なんじゃないかって言ったんだよ。
でさ、そういうコネなら俺なんかよりミロの方があるんじゃないかって思ってさ。
今、音大の先生やってんだろ? まあ、弦とピアノじゃ畑違いかもしれないけど、俺よりはマシだろ?」
頭を、後ろからぶん殴られた感じがした。
本当に、暫く目が見えなくなってた。視界が真っ白だった。
カミュは、音大に行こうとしている?
ピアノをしようとしている??
多分、そうなんだろう。
だから、事務所も閉めて、実家に戻って。
カミュの実家には、グランドピアノがある。
それで、練習して、今から受験??
マックスにアメリカの大学事情を聞いていた??
待て、待て。
落ち着け。
俺は、マックスに心当たりを探してみると約束して電話を切った。
マックスの言うとおりだ。
教育や医療の一つとしての音楽でなく、奏者としてピアノ科に入るなんて、どれだけ高い壁に挑戦しているんだ、って話だ。
趣味でやりますっていうなんら、そんな選択もあるんだろう。
でも、カミュは違う。違うはずだ。
12月の言い合い。
その結果、カミュは俺と別れる答えと音大に行くという答えを出したという事か?
体の筋肉が、緊張でガチガチに硬くなった。
これじゃあ駄目だ。
こんな方法じゃ、カミュの意図している事は現実にならない。
頭の中で言葉にならない試算が走る。
カミュが、音大に行く方法。
答えなんて、一つだ。
頭の中で、ドウコの声が一つ、蘇った。
飲茶専門店から診療所に向う途中、タクシーの中で言われた言葉。
「お前は、随分沢山の覚悟をしてそれをやり切るだけの粘りも持ってる。だが、一つだけ、昔からどうしても出来ない覚悟があるな。
バーロウに嫌われる覚悟だ。」
ドウコの言葉が、今、突然、ホールに響くシンバルのように、大きく頭の中で震えて鳴り止まない。