ラディッシュ改めブラックベリが我が家の一員になって、一ヶ月が過ぎた。
当初、ウサギらしからぬべとついた剛毛と、ウサギにしては強い体臭を持っていたため心配したが(ウサギは本来体臭はない)、どうやら運動不足が原因だった模様で、この一ヶ月ですっかりスリムになって匂いもなくなった。毛は柔らかい方ではないが、べとついた感じはなくなり、以前より随分とソフトな手触りになった。
随分とクールなウサギだけれど、愛想は悪くない。少なくとも、既に1年以上共に暮らしているプチよりはフレンドリーだ。(プチも最近は撫でても逃げなくなったけれど)
それで、この家に慣れてきたころを見計らって、Georgeがくれたインストラクションに従ってプチとブラックベリのお見合いを始めたのだけれど……
とにかく、一向に良い雰囲気にならない(溜息)。
それはまあ、人間でも奥手なタイプはいるけれど、プチの警戒心の強さは奥手を通り越して対兎恐怖症の域だ。
それでも、暫くは仕方がないと腹をくくって、毎晩1時間のデートを繰り返すこと一週間。
昨日、突然プチがスプレー行為をした。
(スプレー行為というのは、ウサギの縄張主張の一種で、要するに、尿をまき散らすことだ)
一昨日までトイレの角で縮こまって震えていたかと思ったら、いきなりソレか?!
いきなりキレて真反対の方向に突っ走るあたり、どうにも誰かさんと重なって先が思いやられるのだが(本当に、どうしてあんな奴に似たウサギを引き取ってしまったんだろう……)、昨夜突然びくつくのをやめたらしいプチは、ブラックベリの匂腺の匂いを嗅ぎに寄って来た。
(ウサギの匂腺は、顎の下と、肛門の両脇にある。が、ウサギ同士で匂いを確認するときは、常に後者が使われるようだ。顎の下は、何かものに塗り付ける専用らしい。)
そもそも、一昨日までは、近づく事もしなかったのに、大した進歩だ。
ブラックベリも、それを特に気にしている様子はなく、のんびりと寝そべっている。
これは少しいい雰囲気になるか、と期待を込めて見守っていると、、、
プチが、ブラックベリの左足の爪を噛んだ。
そういえば、プチは母親のえせると暮らしていたときも、強い母親に挑むためによく爪を齧っていたらしい……。
当然、ブラックベリは、抗議のうなり声を上げて飛び起き、プチの背中の毛を一房毟った。
………これで、本当に仲良くなってくれるんだろうか??(溜息)
まあ、ブラックベリも本気で咬んではいないし、この程度の諍いなら母親のえせるとも日常茶飯だったし、まだ望みはあるだろうけれど……
つくづく、サガ先輩のところのえせるとロスが羨ましい。
と、二匹の機嫌が悪くならないうちに二匹ともケージに戻し、漸く終わったバレンタインの仕事の決算をしていると、マックスから電話がかかってきた。
「あのさ、……実は、ミロに、お前のこと話しちゃったんだけど……まずかったかな?」
電話の向こうで多分身を竦めているのだろう歯切れの悪い言葉に、溜息が出た。
やはり、ちゃんと名指しで口止めをしておくべきだったか?
(よけいな事を口にして余計な口を挟まれるのが嫌だったから言わなかったのだが)
「ここだけの話、当分仲間にはオフレコにしておいてくれ、と言ったじゃないか……」
「分かってるけど、まさか、ミロにまで黙ってるつもりだったなんて思わなかったんだよ! っていうか、ミロは当然知ってるもんだと思ってたし……なんかあったのか?」
「ああ、……うん。別れた」
受話器の向こうの沈黙が痛い。まあ、向こうはもっと痛い思いをしていることだろう。
「……それは……やっぱり、まずかった、かな?」
意外に、すんなりと飲み込んでくれたようで、少し肩の力が抜けた。これがアンソニーあたりだったら、盛大に驚かれて、理由を色々と訊かれるに違いない。
「まあ、済んだことをどうこう言っても仕方がないし、いいよ。知られたところであっちはヴァイオリンだから、何が出来るとも思えないし。でも、もうほかの連中には言わないでくれ」
「勿論、分かってるよ! っていうか、ミロ以外には言ってないぜ? 俺。
でもさあ……余計なお節介だと分かってて言うけど、いくらお前でも、ちょっと無茶なんじゃじゃないのか? 今から、コネもなしで音大に入ろうなんて……
そりゃ、アメリカなら金さえ払えば入れてくれるけど、向こうで学位とったって、こっちで仕事なんてないぞ? まあ、ジュリアードを出た、とかいうなら別だけどさ。アマオケの指揮くらいさせてもらえないかと思って一応就職活動してみた俺が言うんだから、間違いないよ」
「まあ、そうだろうな。正直、自分でも無茶だと思うよ。それでも、まあ、やってみて駄目ならこれ以上未練を引き摺らなくて済むし」
「……やっぱり、あったんだ……未練……」
素直に意外だと驚いた口調に、苦笑した。
自分の昔の決断に後悔しない、と決めていたから、多分、傍目にはそのようには見えなかっただろう、と思う。けれど、未練がなかったわけじゃない。
決断には後悔していない。あのときは、本当にそれ以外の選択肢がなかったからだ。
あの決断を誤りだったと認めるなら、それは私の所為ではなくて、四年もの間正しい情報を隠してこちらに誤解させたミロの所為だということになる。実際のところ、私はこの件に関しては、今もミロに恨みを持っている。本物の演奏家はどんな邪魔が入ってもその道を歩む、とか、実際にその後十年ピアノには戻らなかったのだから、その程度の情熱では所詮ものにならない、とか、いくらでも筋の通る理屈はあるけれど、恨みというのは理屈でどうにかなるものではないから「恨み」なのだと、はからずもこの十年を通して知った。
結局、私に出来たことは、その恨みの部分も含めて見ないようにするだけで、とどのつまり、ピアノと真剣に向き合う事を避けることだけだった。
どうやら、そのあたりの微妙なバランスが、ミロには全く見えていなかったようだが。
「まあ、今頃蒸し返そうというんだから、人並みには未練もあったよ。でも、本当に蒸し返したのはミロだけどね」
「……また……あいつ、一体何言ったんだよ……」
「ミロが言ったんだよ。『音楽を途中で諦めたせいで卑屈になってる、今からでももう一回やり直せ』ってね。笑うしかないだろう? こちらが音楽をやめていて、あいつが有望な演奏家でなければ、とうの昔にあいつの気紛れに愛想をつかしてるよ。……流石に、その一言で、残っていた愛想もつきたけどね」
「……何と言うか……御愁傷様? じゃあ、音大のこと、最初に言い出したのはミロなんだ?」
「そう。だから、あいつにだけは、何があっても頼りたくない。これが、ミロには何も言わなかった理由だよ」
「……だから、それは、悪かったってば……でもさ、別れてたなんて知らなかったんだから」
「あ、そっちもオフレコでよろしく。今ただでさえ忙しいのに、余計なところでつつかれたくないから」
「わかったよ。今度こそ、誰にも喋らないよ。……でも、そんなに怒ってても、結局ミロの言う通りに音大を狙うってところが、やっぱりカミュだよな」
明らかにからかいの色を滲ませた声が聞こえて、一瞬、言葉に詰まった。
そういうのも、端から見れば、「喧嘩するほど仲がいい」というようにしか見えないのだろうか?
ミロがどう思っているかはともかく、こちらには全くそんな気はないのだが。
「……まあ、あいつは、昔から正論しか言わないからな。卑屈になっているというなら、それを無くす努力はするさ。それだけでも、「努力もしないで」という非難を封じることは出来るから」
「うわ……なんだよそれ、子供の喧嘩じゃあるまいし……」
「子供みたいに細かいことをつっかかるのはミロの方だよ。とにかく、もう人のことに分かったような口を突っ込ませないためには、ここで一度昔の宿題を全部済ませておくしかないんだ。……そういうわけで、もし欧州で見つからなかったら、アメリカも検討してみるからそのときは宜しく」
なんだかマックスが呆れているような気配を感じて、そう言うだけ言ってさっさと電話を切った。
痴話喧嘩などではない、と、断言出来る。
……でも、たとえそうでも、もし自分がこんな喧嘩を端からみたら、きっと痴話喧嘩だと思うのだろう……(溜息)
ウサギ達は、相変わらず、お互いケージの一番遠くに陣取って寝そべっている。
せめて、お前達は仲良くなってくれ、と、二匹の頭を撫でてやった。