悪魔の取引

神としてのイエス・キリストを信じるか、と言われたら、あまり、と答える。
二千年も昔に自分以外の者への愛を説いたこと、その史実に敬意は払うけれど、別に神でなくてもいい、と思う。むしろ、キリストが自分と同じ悩みを抱え、同じ過ちも犯す人間であったなら──どうしても握り潰すことの出来なかった醜い心を捧げ、生活と過去の全てを捧げ、熱心に教えを乞い願ったかも知れない。
ミロが紹介してくれた新しいピアノ科講師、ユーリ・ナジェインとの出会いも、とても至高の存在の采配とは思えなかった。結果を見れば、むしろそれは、悪魔の囁きに近い。
もっとも、歴史を振り返れば、悪魔に唆された人間は五万といるが、神の声を聞いた人間は一握りしかいない。悪魔に縋る方がよっぽど簡単だ。
三十年生きて来て、今までは悪魔の助けすら得られなかったのだから、上等だ。
同時に、つまるところ、私はこれまで、それだけ漫然と日々を生きてきたのだろう、とも思う。


ユーリと暮らすようになって、一日が48時間でもまだ足りないと思うほどスケジュールが過密になった。
勿論、多少のアドバイスをもらえることを期待していなかったわけじゃないが、ユーリの口煩さは予想をはるかに超えた。文字通り、生活習慣から、食事の内容から、ナイフとフォークの使い方にまで注文がついた。
朝はどんなに遅くとも7時には起床、すぐに朝食で、まだ目も覚めていないというのに普通にピロシキが出て来る。
朝食の飲み物は紅茶からカフェオレに変更、強引にプロテインの粉末を大量投入。
食事当番の日に魚を買って来ると、露骨に不機嫌になる。
肉は(あまり)食べない主義だ、と言ったら、頭ごなしに怒られた。
「あのさ、そんなひょろ長い体で、タンパク質摂取しないで協奏曲とか弾ききれると思うわけ?! その肩と二の腕、最低でも1.5倍になるまではこっちのメニューでこなしてもらうから!」
「努力はしますけど……既に成長期を過ぎているので、油物はメタボの原因になるだけでは……」
「その程度のカロリーも消費できないんなら、まだ全然練習が足りないね! ちゃんと体使って弾いてる?! ってか、体力も全然足りないし、あと一時間早く起きてランニングでもしたら?!」
一々、正論なので頷くしかない。
結局、今は朝6時に起床、顔を洗ってすぐに外に出てランニング、シャワーを浴びて朝食の用意、8時には家を出て、授業の前に練習室で指慣らし、授業後はすぐに家に戻って練習、提出課題は夕食を作りながら台所で済ませ、夕食後午後八時から十時ギリギリまでまた練習、という生活だ。
同居を初めてからすぐにミロの誕生日があって、一人でどうしているか気にはなったけれど、結局忙し過ぎて前日に慌ててカードを出すのが精一杯の有様だった。
毎週火曜日と金曜日は、プライベートレッスンが入る。
月曜と木曜には授業でレッスンが入っているので、合わせて週4日、ユーリに指導してもらっていることになる。
これは、心身共に大変キツかったけれど、有り難くもあった。
授業では、どうしてもカリキュラムに沿った進度の課題をやらざるを得ないからだ。
でも、ユーリに言わせればそもそも指のフォームや楽譜の読み方からして修正が必要なのだそうで、残り2日のレッスンはそういった基礎的な訓練に充てられた。
で、いきなり、最初のレッスンで注意された。
「あのさ、なんで初見でミスするわけ?」
「えっ……初見だから、じゃないですか?」
「そこがそもそも間違いなんだよ。初見は100%ミスなしで当たり前、なの。君、ただでさえ出遅れてるんだから、音楽じゃないところで時間使うヒマはないだろ? 初見の訓練、ちゃんとやったことないの?」
初見は自分ではそこそこ出来る方だと思っていたので、これには驚いた。
曰く、ミスをする度に、ミスの癖を指に覚え込ませることにから、最初に楽譜を見た瞬間から、音を間違って弾いてはいけない、ということなのらしい。
最初から音を間違わなければ、すぐに曲想の構築にとりかかれるが、音を間違っていたら、まずそれを直すために訓練の時間を使わなければならない。それは、無駄以外の何物でもない──と、そういうわけだ。
さすがに、初見でノンミスで弾くのは簡単ではなくて、そのための訓練にも結構時間を割かなくてはならない。
そういう訓練が別に必要だとは、他の先生には言われたことがなかったので、かなり新鮮だった。
「ピアノの練習ってさ、ピアノがないと出来ない、とか思ってるでしょ? でもね、僕が学生時代過ごしたモスクワ音楽院なんて、まともに全鍵音が出るピアノは数えるほどしかなかった。そんな楽器だって、学生全員分なんかない。だから、僕は楽器のないところでピアノを練習した。初見の練習なんて、やろうと思えば紙鍵盤でだって出来るんだよ。あんなの、指じゃなくて頭の訓練なんだから。紙鍵盤って、君、使ったことある?」
そんなことをサラリと言われてしまうと、本当にぐうの根も出ない。
音が出ないキーがあるくらいだから、タッチだって相当に酷いものだったに違いない。
私は、ロシアやポーランドなど、東欧系のピアノの音が昔から好きで、持っている音源もほとんど東欧出身のピアニストか、その流れを組む指導を受けたピアニストのものばかりだ。
でも、彼らは決して練習環境に恵まれていたわけじゃない。それなのに、あんなに自在に音色を操るのを見ると、その背景に聳える文化の深さに圧倒される。
そんな感じで、何も余計なことを考える余裕もなく一ヶ月が過ぎて、十二月。
ようやく試験が終わって、ほっとしたところで、家計簿を見直してみて青くなった。
ユーリには、プライベートレッスンの際に、1レッスン200ユーロ渡している。1時間100ユーロと考えると、決して高い相場ではない。第一、レッスン以外にも色々と細かい指導をしてもらっている。
でも、それが週2回となると、一ヶ月で1600ユーロだ。貯金はあるけど、このペースでは早晩食い尽くしてしまうだろう。
かといって、今はレッスンの時間は減らしたくない。レッスンしながら色々教わっている段階なので、まだ自力走行すると余計な癖がつきそうだからだ。
クリスマスを一週間後に控えたある日、私はソファの上にMacBookを持ち込んで、今ある貯金の配分について入学前に組んだエクセルの計算式を組み直していた。とにかく、このままではあと2年家計がもたないのは分かっていたし、どこかで資金調達が必要ならどのタイミングにするか、計画を立てておかなくてはならないからだ。
しかし、ただでさえスタートが遅れているのに、この上休学するなんていったら、ユーリはきっと目を剥いて怒るんだろうな……。
それを告げる時のことを考えると今から気が重いが、ない袖はふれないので仕方がない。
計算式の変更は、いくつか変数を弄るだけで良いはずだったのに、いつの間にかマクロが壊れていて、それを直そうと躍起になっていたら、後ろから肩を叩かれた。
「何やってんの?」
「家計簿です」
計算式に集中していたので、まともに答えるのが億劫で、ついぞんざいな返事をした。
「ふーん、君、そういうのも出来るんだ」
ユーリは、いつもの意地悪な口調を改めて、素直に感心した声を出した。
「一応、会社で働いてましたから。プロジェクトの責任者になると多少お金の計算も出来ないと困りますし。まあ、最終的には担当部署がきちんとやってくれるんですけど──」
「……凄いじゃない。僕、こういうのまるでダメなんだよね」
「いいじゃないですか。貴方はピアニストなんだから、エクセルの関数が分かる必要はないでしょう?」
なんとなく、ちょっと持ち上げられて気分が良くなったので、そう慰めてみた。それで諦めるかと思いきや、ユーリは、ものめずらしい動物でも見るような仕草で、Macの画面を覗き込んできた。
「でもさ、そういうのも弄れた方がいいよね」
「必要なんですか? 音楽院の何かで必要なら、教えるのは構いませんけど……?」
「ホント?」
私としては、学生の点数管理とかをエクセルでやりたいのかと思ってそう申し出たのだが、ユーリは喜んで私の横にやってきて腰掛けるなり、思い切り脱力する台詞を吐いた。
「だってさ、そういうの弄れると、ちょっとカッコイイじゃん? もてそう」
「……そういう理由ですか……(溜息) そんなことしなくたって、貴方はピアノ弾けばモテるんじゃないですか?」
つい、どこかにもそんな奴がいたな、と意識が一瞬飛んだ。楽器弾くだけでモテそうな男。
あ、あいつは、別に楽器なんかなくても、ナチュラルに女性の視線を集めていたか……。
それにしても、ユーリがそんなことを気にしていた、というのはちょっと意外だった。
実は、ユーリは結構女子学生の評価が高いのだ。
なにしろ、ピアノ科ではダントツで若い講師だし、ピアノも上手い。
それなのに、受け持ちの学生は男ばかりで、私も「ナジェイン先生に見て貰えてうらやましい」と一度ならず言われたことがある。
「……というか、今でも十分モテてますよ? 気づいてないんですか?」
そういうところも、ミロと似てるかも知れない。そう思って顔を上げたときだった。
なんか、一瞬、いやな予感がした。
でも、その予感は一瞬で霞んで消えてしまい、すぐに自分でも何が嫌だったのか分からなくなった。
「……結構、火の車だね、その家計簿」
気がつくと、ユーリがじっと画面を覗き込んでいて、それではっと意識を引き戻された。
しまった……レッスン代のコラム、窓の外にスクロールして隠しておいたのに、再読み込みして画面の真ん中に来ている……(汗)
「いや、これは、その………」
思わず焦って、別のタブに移動した。そのタブには何もまだ書かれていなくて、白々しい白さが画面を埋め尽くした。
「別に、隠さなくてもいいじゃん」
ユーリはひょい、と僕の1.3倍の太さはありそうな人差し指を伸ばし、勝手に矢印キーを押してもとのタブに移動した。
まあ、見られてしまったものは仕方がない。諦めてやりたいようにさせておくと、ユーリは何を思ったか、そのプライベートレッスンのコラムを不器用な手つきで全選択し、いきなりcommand + xで消去した。
「何するんですか!」
「こうすれば、大分楽になるよね?」
どこか、ひそやかな甘さを含んだ声だった。心臓をひとなでされたようで、その瞬間に脈拍が跳ね上がり、声が出なくなった。
見抜かれた、と思ったのだ。
指導には心から感謝しているのに、その代償を払わずに済んだら楽になるのに、とどこかで思っていたことを。
「……そういうわけには、いきません。実際に時間を割いていただいているわけだし……」
ようやくそれだけ押し出すと、はあ、とユーリはひとつ大きな溜息を零し、私の肩に腕を回して大仰に首を振った。
「うん。お陰で僕は、こっちに来て4ヶ月も経つのに今だに恋人の一人もいないんだよ。そのためにローマに来たのにさ」
「……は?」
「僕、パリでひどい失恋してね。新しい恋人探すために職場変わったの。ローマには可愛い子がいっぱいいる、って友達が言ってたから。でも、来てみたら、全然そんなことないし」
……いつの間に、恋愛相談になっているんだ、この話は。
「……まあ、僕も、イタリア人の恋人が欲しい、とはあまり思いませんが」
「あ、やっぱりそう思う?! どうして?」
「うーん……気だては良くて明るい子が多いけど、ちょっとあのお喋りの速度についていけないというか」
つい本音が出た。大体、この国の人間は、口に特製のオイルでも仕込んでいるのじゃないかと思うほど口が回る。
「そうそう! 女性はまあそういう生き物だから仕方がないとしても、男のくせに喋り過ぎだよね!」
……は? 男?!
我ながら、ちょっと気づくのが遅過ぎた。頭の中を、ホロヴィッツの有名な一言が駆け巡った。
『ピアニストには三種類しかない。ゲイか、ユダヤ人か、へたくそなピアニスト』
ユーリは、決して『へたくそなピアニスト』ではない。ユダヤ人かどうかは知らない。が……。
思わず、ちょっと座り直して距離をとろうとしたら、「遅いよ」とにんまり笑われた。
「君さ、実はゲイでしょ? その年で彼女もいないみたいだし」
「はああ?!」
「いいよ別に隠さなくたって。僕も女に興味ないから」
「僕も、って、勝手に同類にしないでください!」
「赤くなっちゃって、意外に可愛いところもあるんだね。僕からこれだけ嫌味言われ続けても平然としてて、鉄面皮で可愛げないなーと思ってたのに」
「それは……! 一応、師匠の指導に嫌な顔したら駄目だと思って努力した結果です! 内心はしっかり傷ついてますよ!」
「え、傷ついてるの? その程度のピアノで? それはまた、あつかましいなあ」
……ったく……一々と人の神経逆撫でするようなことを……!!
頭の片隅で一瞬ひらめいた、これでも師匠だ、という遠慮を瞬殺して、肩に回された腕を引き剥がした。
「とにかく、ゲイというのは誤解です。会社に努めていた頃には、ちゃんと結婚を前提に付き合った女性もいました!」
「でも、別れちゃったんだよね? 今こんなことしてるってことはさ」
「それが何か?! 大体、なんで僕のことをゲイだなんて思ったんですか!!」
「え、気づいてないの?」
ユーリは、無理矢理くっつこうとしていた力を緩めて、驚いたようにまじまじとこちらを見た。
「ストレートの男は、別の男がこんなに簡単に側まで寄るの許したりしないんだけど? 半径1mだって難しいのに、50cm以内に入ったら普通反射的に身を引くよ。考える前にさ」
……しまった………
昔からミロが普通にその距離の中まで入ってくるので、すっかりこの距離感に慣れてしまっていた。
もしかして、やたらゲイに気に入られる傾向があるのは、その距離感のせいで同類だと思われてるからなのか?!
「……それは、ですね……同居していた幼なじみの友人が、そういう距離感の近い人間だったもので、つい慣れてしまっただけで……」
我ながら苦しい言い訳だが、事実だから仕方がない。ついでにまた近づいてきた体も押し返すと、今度はその手をはっし、と両手で掴まれた。
「ふーん、で、そういう距離感で、耳に息吹きかけたりしてたんだ?」
「……なんですかそれ?!」
「だって、さっき僕そうやって君に声かけたのに、全然動じなかったじゃん」
「気づかなかっただけです! マクロに集中してたから!」
「だからさ、ストレートの男は、どんなに集中してたって、男にあんなことされたら、ぎょっとして飛び上がるんだよ」
「とにかく!」
手の平がじっとり冷たい。情けないことに、身の危険を感じた。
ユーリはロシア出身だけあって、上背がある。見た目はそんなにがっしりした体型には見えず、むしろスレンダーな印象だが、なにしろ全てが大きいのでそれでも骨格はかなり太い。
こんなのに本気で押さえつけられたら、簡単には身動き出来ないだろう。
「僕は、そういうご要望にはお応えできません!! 僕のレッスンが忙しくて恋人探しの時間がないなら、プライベートレッスンの時間削ってもいいですから、外で調達して来て下さい!!」
「言ったじゃん。だから、イタリア男は好みじゃないんだってば。僕、若い子が好きだから、正直君だと薹が立ちすぎてるんだけどさ、それさえ目瞑れば、君かなり悪くないよ」
「……人の話、ちゃんと聞いてますか?」
「そもそも、君ならフランス語で会話できるしさ。──あと、僕、寝る相手からはレッスン代とらないよ? この際、君はゲイじゃなくてもいいよ、AVに出てる子だって、ほとんどはストレートだし。バイトだと思ったら時給悪くないでしょ」
うわ、寝る相手とか言って来た。ゲイにも色々なタイプがいるのはパリで学んだけれど、彼はどうやらかなり露骨にそっちの方に興味があるタイプらしい。
「体売れっていうんですか……それ、曲がりなりにもイタリア随一の音楽院の講師の言うことですか?!」
「ま、女の子に言ったら大変なことになるよね」
「アカデミック・ハラスメントに男も女もないでしょうが!!」
「アカ・ハラって、つまんないこと言うなあ」
ユーリは、気分を害したようにぷっとむくれた。
「僕、嫌がるのを強要したりとかしないよ。そこまで不自由してないし。それに、君、断ったからって別に気に病むような性格じゃないよね? 嫌なら、この話に乗らなきゃいい。その年になれば、自分で判断出来るでしょ。単に大人の取引の話じゃないか」
あまりにも罪悪感なくそう言い切るので、思わず反撃の機会を逃した。
一瞬、そうか、と納得してしまった自分の素直さが恨めしい。
「でもね、言っとくけどこれ、どう考えても君に有利な取引だよ。レッスン代はチャラになって、レッスン時間は増える。でも、僕にとって都合がいい点なんて、多少夜に楽しめるだけだ。たったそれだけなのに、見つかったら変態教師のレッテル張られてクビ。馬鹿げてるだろ。
そういうところ、女の方がよっぽどずる賢いよ。パリじゃ、受け持った女子学生に随分迫られた。学生だって知ってるんだ。そりゃ教師だって人間だもの、深い関係にある弟子の方が教えるのも身が入るってね。姫君の機嫌を損ねないようにいちいち断るのも面倒だから、女子をとるのはやめたんだよ。ふられたショックで成績落とされちゃ、僕の評価に響くしさ」
「馬鹿げてると思うなら、なんで誘うんですか?」
「たまたま、寝たら面白そう、と思った奴が生徒だったんだから、仕方がないじゃん」
「暫くそういう付き合いはやめる、って選択肢もあると思いますけど?」
「君、本気でそんな事言ってるの?! それじゃ、ピアノ上手くならないよ! そんなひからびた生活で、どうやっていい音楽がやれるっていうのさ!」
「……そこにばっかり頼るのもどうかと思いますが………」
ああ、なんだか疲れてきた。
しかし、たしかに、言われてみれば、こちらに有利な話ではある。
女の子じゃないから間違っても子供はできないし、誰かと寝たからといって減るわけでもないし。
何より、それでレッスン代免除してもらえるなら、休学しなくても良くなる。
ミロが聞いたら真っ赤になって怒りそうだが、私はその点、そんなに貞節に重きを置いていない。
むしろ、ユーリが本気で私に気があって、だからレッスン代は要らない、と言われる事の方がよほど居心地が悪い。愛情を返せないと分かっている相手に、一方的に好意に甘えるのは、いくら相手がそう望んでもやっぱり気がひける。
でも、夜に遊ぶ相手が欲しいから、その相手をする交換条件でレッスン代をとらない、という話なら、まあ夜のバイトをやっていると思えば済む話だから、それほど心も痛まない。
おもわず黙りこくって考えていたら、ふ、とユーリが意地悪く笑った。
「ま、もっとも、君があんまりヘタクソだったら、時給値引きするかもしれないけど?」
「はああ?!」
「当たり前じゃん。水商売のホストだってね、高給もらうために一生懸命技を磨いてるんだよ? 十代の娘じゃあるまいし、30の大台に乗った男が脱ぐだけでそんなにお金もらえるわけないでしょ」
「あのですね! 僕はゲイではないわけで、そういう経験もそんなにありませんから、そっちの方の技なんて持っているはずがないんですが!」
「あ、白状したね。そんなにない、ってことは、全く経験皆無ってこともないんだ」
しまった、と口を押さえたがもう遅い。ユーリは悪魔の笑みで覆いかぶさってきた。
「ま、ピアノもヨチヨチだから、そっちも最初はヨチヨチでいいよ。口くらいは使えるでしょ? その他はおいおい覚えてもらうとして」
「ちょっと! まだYesとも何とも言ってないんですから、覆いかぶさらないで下さい!」
「ふーん、断るの? 結構いい条件だと思うんだけどなー」
ユーリは、つまらなそうな口調でそう呟くと、急に体を引いて、溜息混じりに言った。
「ま、さっきも言ったけど、強制じゃないからさ。そっちで決めてよ。でも、返事は明後日までにね。クリスマスを一人で過ごすなんて、冗談じゃないから、君がダメなら早く他を探さないと」
なんだそれ。クリスマスに一人でいるのが格好つかないから、慌てて恋人(セックスフレンド?)を探しているのか?
そんなに呆れた顔をしたつもりはなかったが、多分思わず表情に出てしまったのだろう。ユーリはこちらを見るなり、眉を顰めて口を尖らせた。
「君、表情が少ないと思ってたけど、結構遠慮なくそういう顔するんだね。言っとくけどさ、僕にとってはこれは大問題なんだよ。元カレにクリスマスまでに絶対いい子見つけて写真送りつけてやる、って啖呵切ってパリを出て来たんだから。この上あいつにバカにされるのだけは絶対嫌だ!」
「だったら、とりあえず写真だけ送ったらどうですか? それならすぐにでも協力しますよ?」
「冗談! そんな惨めなことなんで僕がやらなくちゃならないのさ! 僕、これでも、ゲイ仲間には凄くもてるんだよ?!」
……なんだか……。
うすうす感づいてはいたけれど、このユーリ・ナジェインという男、かなり子供っぽい……。
まあ、芸術家なんて、皆そんなものなのかも知れない、と、もう一人身近なヴァイオリニストを思い起こして溜息が出た。
「……わかりましたよ……。まあ、仰る通り、僕はこのままでは休学もやむを得ない家計事情ですし、僕にとって有利な話であることも確かです。別に道徳観念に厳しいわけでもないですし。でも、そっちは守れるんですか?」
「守るって、何を?」
「最後の一線」
「最後の一線って何?」
ユーリが、露骨に眉をしかめた。
「……まさか、君、インサートはなし、とか言わないよね?」
「……それは、ナシにしてもらえれば嬉しいですが、そういう話じゃないです。あんまり言いたくありませんが、僕にとって、貴方はあの音楽院で唯一僕のピアノを真面目に指導してくれる人です。そちらに絶対悪影響を及ぼさないって、約束できますか?」
危険な沼に足を踏み入れている、と、過去に記憶した情報が警鐘を鳴らした。
教える側と教えられる側がそれ以上の関係を持つと、得るものと失うものの差し引きでマイナスになるケースの方が圧倒的に多いことは、十分わかっている。
それでも、ユーリは私にとって、たったひとつの可能性で……
その細い一筋の可能性でさえ、ユーリが本当に本気で私を指導してくれないと、いとも簡単に途切れてしまうものだ、ということも分かっていた。
今のままでは、まだ足りない。
でも、この条件を飲めば、ユーリが本気を出してくれるかもしれない。
声を出そうとして、肺が緊張に縮こまっているのを自覚した。
無理矢理息を吐いて、ずっと腹の底に仕舞い込まれていた考えを言葉にした。
「プライベートで喧嘩したからレッスンは見ない、とか、本業に影響を及ぼすのは困ります。それでは意味がない。……僕は、どうしても、あと2年で、誰よりも上手くピアノが弾けるようになりたいんです」
「──誰よりも、上手く?」
ユーリの瞳の色が、ふと暗くなったように感じた。
「──はい。ピアノ科の、誰よりも。……僕は、首席で卒業したい。そのためなら、手段は選びません」
ユーリは、暫く黙ったまま、感情の読めない眼差しで私の顔を見つめていた。それから、ふと、皮肉な笑みを浮かべて言った。
「上等だね。下手に自分の音楽とか言わないところが清々しいよ。──その通り、本気でピアノが弾けるようになりたかったら、まずサミュエル・リン程度は余裕で超えてもらわないと」
小さく固まった胸の奥が、かっと熱くなった。
──少なくとも、ユーリはその目標を笑い飛ばしはしなかった。
単に、言うだけばかばかしいと、話を合わせているだけかもしれないが……。
「……だから、レッスンが受けられなくなるのは困ります。貴方の要求を飲めば、レッスン代は払わなくて良いというのは、有り難い。……ただ、あくまでアルバイトということにさせて下さい。その条件でなら、ご要望にお応えします。」
……言ってしまった。
売買契約成立だ。
……これから自分が何をすることになるのか、あまり実感が湧かない。
ぼんやりと、ユーリがまだ若く、それなりに見た目も良くて、綺麗好きで良かったな、と思った。
娼館の女の子達は、脂ぎって太ったオジサンとか、骨と皮ばかりの老人とか、色々な客を日替わりで相手にするのだから、それに比べたら、本当にたいした事はない。
「なにそれ。堅苦しいなあ」
ユーリは破顔し、嬉しそうに我々の間の距離を詰め、両腕を私の肩に回してきた。
……そんなに一人身の生活が寂しかったのか?
「僕は、そのうち恋人に発展しても構わないよ?」
「恋人になってしまったら、公私なんて分けられないでしょう? さっきも言いましたが、プライベートでのいざこざがレッスンに響くのは困るんです。適度に距離をおいておかないと」
「大丈夫。僕は、そのへんきっちり分ける方だから」
「そのへんきっちり分ける人は、そもそもこんな提案はしてこないと思いますがね?」
「分かってないね。きっちり分けられるから、そういうことが出来るんじゃないか」
言っている間にユーリの表情はどんどんアヤシイ雰囲気になり、肩に回された両腕の力が強くなって、顔の距離が近づいた。そのままキスされそうになったので、つい、思わず反射的に思い切り押し返してしまった。
「まだ営業時間外!」
「いやに頑だなあ。………あれ? もしかして、君、他に好きな子がいる?」
しまった、というのが、表情に出てしまったかもしれない。ユーリは、おやおや、と呟くと、腕の力を抜いて、まじまじとこちらを見つめた。
「……キスを反射的に嫌がる、ってのは、生理的嫌悪か、他に好きな相手がいるか、どっちかなんだよね。前者はないと思うと……最近失恋して、まだ元カレに未練がある?」
……失恋、というのは多分違う。でも、まあ、未練はずっとひきずっている。
というより、私は、ミロに対して、始まりの時からずっと未練を引きずって来たのだと思う。
黙っていると、ユーリは勝手に納得して、うん、まあ失恋は辛いよね、そういうことなら、当分キスはしないよ、などと呟いていた。
何故前者だとは欠片も思わないのか、それ以前に何故「元カレ」決め打ちなのか、その脳味噌を叩き割って成分分析にでもかけてやりたいと半ば本気で思ったが、折角買った同情をわざわざ捨てるのもあほらしいので、誤解はそのままに、さらにノシをつけて返してやった。
「……ええ……まあ……どうしても諦め切れなくて……だから、体の関係と割り切れば別に構わないんですが、本気で恋人の関係は無理、というか」
「まあ、こういうことは、時間がかかるし。お互い、のんびりやろうよ」
目指しているところが微妙に(いやかなり)食い違っているが、お陰で今にもベッドインしそうな勢いが大分殺げたので、このまま当分なるべく落ち込んだ空気を演出して最大限の同情を買うことにした。
この分なら、今週一杯くらいはユーリがひどい振られ方をしたという元恋人についての愚痴を聞くだけでPayするだろう。
さて……
こうなると、流石にミロには顔を合わせづらい。
クリスマス・イブはまた教会で演奏するというので誘われているけど、きっとユーリに(元カレへのあてつけ写真を撮る為に)ローマ中を連れ回されるのだろうから、会うのは無理だな……。

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