どうして判る? と聞かれても、判る、としか答えようがない。敢えて言うなら、それはカミュの事だし、自分自身で何回も見てきた事だから、だ。
カミュが、俺のアパートメントからピアノの師匠の元に居を移してから数か月、深々とした空間に慣れた頃、新年が明けた。冬期休暇の後半を、俺はフィレンツェで過ごし、貰ってきた土産を分け合おうとカミュの姿を学院の中に探していた。
練習室の並ぶ棟をゆっくりと歩いた。どの部屋からもカミュの音は聞こえず、終には事務局の前にまで戻ってしまった。
そうそう都合の良い偶然はないか。
携帯電話に連絡を入れた方が確実だ、と背負った鞄の中に薄い金属の塊を探した時、ふと空気を感じた。
低く入り込んでくる午后の光を背に、カミュが廊下に張り出された掲示物を神経質な感じで読んでいた。
膝丈くらいの外套の前は開いていて、太い縞の入った襟巻を首に引っ掛け、黒い徳利襟はきっちり顎の下まで立ち上がって折られていた。
このカミュは、昨日、セックスをしている。
誰と、とか、どうしてそう思ったか、なんて全てすっ飛ばして、カミュの姿を見た瞬間、俺の頭の中にそんな一文が弾けた。
瞬きも忘れてカミュの姿に見入った。
膝丈の外套。ちょっと洒落た切り返しがあって、開襟していても、きっちりと前を合わせてもカミュの細い体型に映える。襟巻は、ロンドンで一緒に買い物をした時に買った物。毛織は肌に刺激が強くて、と言うカミュに、その刺激は天然毛かどうかの問題ではなく、繊維の太さの問題だ、と言ってメリノウールで織られたものを探して買った。俺が、買って贈った。黒の高襟セーターは結構カミュの定番だ。
外套の前が開いている。
カミュの、体全体が、開いている。
腰回りとか。
肩回りとか。
顎とか。
唇とか。
ふわっ、と、開いている……。
カミュと、目があった。
「……うん。落ち着こう、自分……!」
自分に言い聞かせる為の鼓舞の言葉は、しっかり音になっていたらしく、カミュに思いきり不審な顔をされた。
気が進まない事を隠さないカミュに、フィレンツェから持ち帰った酒を渡したいから、という理由で強引に一緒にアパートメントに向かって歩いて貰った。カミュの真っ黒な服の下の胸は平らで、白い首筋はしっかりと隠されていた。でも、昨夜、絶対に誰かが、隠されたその下の皮膚に直に触れていた。
どうしてそんな事が断言できる、と一応自分を窘める努力をした。けれど、そんなのは、見れば判るだろう? と直ぐに自分自身で否定してしまった。
だって、発情前の牛はウロウロして運動量が増えるし、雌羊は牡羊の後を付け回すし、雌犬は膣から出血する。発情に入れば、牛の尻尾の付け根の毛は逆立つし、雌羊の発情のサインは他の家畜と比べると特筆する事に欠くけれど、雄のマウントを許す。雌犬だって、雌馬だって、畢竟、雄のマウントを許す。
そういう事を観察して見極める事が出来なかったら、繁殖は失敗するわけで、失敗したら経済的損失に直結するし、着床したかどうかも見極められなかったら、さらに二回目の機会も失う。
だから、わかるよ?
第一、セックスした次の日のカミュがどんな感じになるか、何度も見てきた。間違えなんかしない。
人間には家畜のような発情期は無い、って考えている人が多いけれど、人間にもちゃんとあるし。
FSHが卵胞を成熟させて、LHサージが起こって排卵が起こる。妊娠の準備が出来た時、女の人の肌とか、行動とか、普段とは変わっている。ちゃんと見れば判るよ? 女の人自身にも判らない人多いみたいだけど、けっこう判りやすい。だから、そういう熱に浮かされている時の女の人からのお誘いには注意が必要だ。
男は女の人のように何日単位で周期があるわけじゃなく、一日の中に何回かパルスのピークがある形だけれど、カミュの場合は自分とやる時は女性の役割をしていた。
ちらりと横を歩くカミュに視線を流す。
間違いなく、今も、カミュは女性の役割だ。
セックスするっていうのは、基本、自分以外の人間を受け入れる、ってことだから、その「受け入れる」「許す」っていう心の変化は、絶対に体に出る。
カミュのこの体の変化は、誰かが自分のテリトリーを犯して、皮膚に直接触れる事を許して、自分自身ではない生体器官が自分の体に入ってくるのを、受け入れる準備ができて、受け入れた結果、だ。
嫌な汗が、俺の背中をじっとりと濡らした。気分が、悪くなった。
「Collect yourself…(落ち着け……)」
俺の呟きに、カミュが少し目を見張って自分を見たのが判った。カミュは、俺の第一国語がイタリア語だと思っている節があるから、こんなふうに俺が無意識のように使った言葉が英国語だった事に驚いたんだろう。
うまく説明できないから説明する努力すらしていなかったけれど、俺の中でイタリア語と英語は完全に二分されている。自分の喜怒哀楽を外に出すにはイタリア語、自分を律して深く思考するような時は英語だ。単純に、両親とどんなふうに関わりながら育ったか、という結果なのだけれど……。
音楽院から俺のアパートメントまではゆっくり歩いても三〇分とかからない。この時は、その近さが恨めしかった。
ちっとも落ち着けていない胸の内を抑え込みながら、寄っていけば、と誘えば「No」の答え。予想内の事だから別に落ち込まない。それでは、酒を持って来るので待っていて、と言って俺は事務所に入った。
深く、深く、息を吐いた。
ワインを一瓶ずつ紙袋に入れ、ぎゅっと紙を絞り麻のエコバックに入れた。機械的に体を動かしていたら、持ち帰った六本全てを入れてしまっていた。
「カミュ、重いから送ろうか?」
事務所の扉を開けてカミュに尋ねた。YESと言ってくれることを願って。すると、カミュは、はあっ、と息を吐くと、
「……本当は、何か言いたい事があるんだろう? だったら、やっぱりここで話す」
と、言って事務所の中にその体を滑り込ませた。
カミュの体が、自分の体に掠った。息が、詰まった。カミュの耳の付け根、顎の骨、そして、その下に浮くうっすらとした筋が見えた。眉が寄った。
誰かが、ここに触れて、きっと、キスを、した。昨日。
ちっとも自分をcollect(集める)事なんか出来ていなかった。バラバラだ。頭も、腹も、指も、目も、全部。全部バラバラだ。怒鳴りたい。カミュの腕を掴んで、問い詰めたい。でも、そんな事をしちゃいけない事も分かっていた。そんな事をしても何も変わらない事が、解っていた。
俺は、もう一度息を吐くと、事務所の扉を閉め、振り返ってカミュを探した。カミュは、数歩部屋に入った所で立ち止まり、俺をじっと見詰めていた。
「カミュ、恋人が、出来た?」
お茶も何も要らない。要件を、聞きたいことを訊け、カミュの赤茶色の瞳が言っていた。だから、芸も無く、前置きもできず、聞いた。しっかりした声は出なかった。けれど、震えてはいなかったと思う。ただ、体の内側が痛んで、声に力を入れる事が出来なかった。
俺の問いに、カミュは目を見開いた。それから、一瞬だけ、痛みを感じたように眉間に皺を寄せた。でも、それは次の瞬間には消えて、あとには憮然とした眼差しで、床の一点を見詰めるいつもの不機嫌なカミュの姿だけが残った。
珍しく、しばらくカミュは逡巡していた。次にカミュが口をひらくまで、一分はかかったと思う。
「──契約、だから」
「……契約? 契約って、何の?」
俺は、カミュの恋人の有無を訊いた訳で、何かの契約について訊いた訳じゃないのだけれど、カミュが何かの契約の事を話したいのなら、まずはそちらを訊いた方がいいのかな、と思った。今思うと、我ながら頭が回っていなかった。この時は、何か困っているのなら助けたいし、力になりたい。そう思った。カミュのハウスシェアをしているピアノの師匠も今年から音楽院にやって来たような人だ。二人ともイタリア語にはまだ馴染みがない。
「何か、契約関係で困ったことがあった? 不動産関係? 光熱電気?」
カミュの顔を覗き込むようにして尋ねると、カミュはますます不機嫌な顔になった。
「──違う。……その、」
カミュは、そこで唇を開いたまま、また言葉を探して黙り込んだ。
俺の眉間にも皺が寄った。じっ、とカミュの表情を観察した。困っては、いる。けれど、怯えているわけではない。という事は、脅迫とか、そういう事件性のあるものではないのだろう、と取りあえず推察出来た。
「何か、音楽院の事務関係で問題でもあった? まさか、二重に授業料請求されたとか、ないよね?」
情けない話だけれど、ちょっとイタリアの事務方は信じ切っちゃダメな所がある。けれど、こっちの肝がちょっぴり冷えてしまうような問いかけも、ますます深くなったカミュの眉間の溝に否定された。
ふと、音楽院の事務局の前で難しい顔をしていたカミュの姿が思い出された。音楽院の誰に聞かれる心配もないというのに、声を潜めて尋ねた。
「それとも、新しい先生とやっぱり反りが合わなかった? 後期から、誰か新しい講師を探している?」
「そうじゃない」
と、今度は即座に反応があった。ちょっとその速度に感情的な性急さを感じて、それが、先刻まで感じていたはちきれそうな怒りをひっかいた。
カミュがもう一度息を吐いて、今度はまっすぐに俺を睨みつけて言った。
「恋人の、契約を結んだ。……ユーリと」
なんだか、何度も瞬きをしてカミュを見てしまった。カミュの顔は白くて、緊張で血の気が引いているのが分かった。カミュの睫毛の陰、引き締められた口元を見つめるうちに、カミュの言葉が思考回路に浸透していった。
「ユーリって……誰?」
カミュの睨みつけてくる瞳をもっと良く見るために二人の距離を僅かに詰めた。恋人の契約、と言ったら、パトロン、という事だろう。いや、パトロンといったって色々な形がある。でも、今、カミュが言った「恋人の契約」といったら、学費や活動の援助を受ける代償に、カミュが相手に性的快楽を対価として払う、という事だ。子供や孫の成長を楽しむように援助してくれる人達も居る。でも、今、目の前のカミュの体の状態が、そんな事じゃないと俺に現実を突き付けていた。最悪の部類のパトロンだ。
「……今の私には、絶対に手放せない人だよ」
カミュは、ますます瞳の力を強くして俺を威嚇した。
「……手放せないって、経済面でって事? それとも、心の問題?」
怒りは、抑えなくてはいけない。そういう自戒がある。人が、自分の怒気に怯える顔は見たくない。怒りは、暴力と同じだ。重さがある。痛みがある。振りかざせば、かざした方もかざされた方も傷付く。
けれど、怒りは、エネルギーだ。膨れ上がったエネルギーは不安定で、破裂できる隙を求めて暴れる。
「……心の問題、と言えば、お前は納得するのか?」
カミュが、ほとんど聞こえないような低い声で呟いた。
「……いや、お前は納得しない。どんな理由をつけても……これは、お前の正義の外にあることで、お前はもうそれに気づいている。……お前は、どんな嘘もすぐに嗅ぎ分ける。そして、全てを白日のもとに晒すまで絶対に諦めない……だから、事実を言った」
多分、カミュの言葉の半分も俺は聞いてなかった。そもそも、契約とカミュが云った時点で、答えは一つしかなかったのだから。カミュの低い声に俺は自分の言葉を叩き付けた。
「じゃあ、それは経済的な理由って事だよな? だったら、俺と契約しろよっ!」
「嫌だ!」
カミュが叫んだ。こんなに感情的に声を荒げたカミュを見たのは久しぶりだった。
「お前の世話には絶対にならない! 第一、お前に払い切れるものか……金で買えるものじゃない。……人の本気なんて!」
カミュの感情的な爆発は、俺の中に溜まっていたエネルギーに衝突して、少しの余裕をくれた。
俺の世話にはならない、これは、カミュの意地と意趣返しだ。俺が、カミュに黙って音楽の道に戻った事への。情けないけれど、悔しいけれど、カミュの依怙地さは、俺の自業自得だ。でも、だからといって、カミュ、この選択はあんまり酷くないか?!
「カミュに音楽院に戻った事を黙っていたのは、俺が悪い。カミュを傷付けたのも、解ってる。でも、こんな選択ってないだろう? 第一、契約なら一方的な世話じゃない。ギブアンドテイクだ。こんな言い方、カミュの気に入らないってのは分かってる! でも、カミュを大学に行かせるくらい俺にだって出来る……! 俺だって本気だ!」
「それで、毎晩、お前の性欲の世話をしろっていうのか。金の代償に!」
毎晩、性欲の世話、という単語を聞いた瞬間に、また怒りが沸騰しかかったけれど、カミュは俺に言い返す暇を与えなかった。
「お前がなんと言おうと、欲しいものを手に入れたかったら代償が必要なんだ。お前は、私に代償を求めない。札束で頬をはたいて、人を奴隷にするなんて、お前には出来ないだろう……? お前が支払う金の価値に見合うだけの要求を、お前は出来ない。そんなもの、契約でもなんでもない。
そもそも、私が今ユーリから得ているものは、金でどうなるものでもないんだ。……確かに、最初は、個人レッスン代が払えないから、そういう関係になった。でもそのうち、ユーリは、『恋人になら、他の学生には教えないことも教える』と言った。……一般の学生と同じでは、間に合わない。そんなことは、私が一番良く知っている。だから、契約した。実際に、私は今他の彼の受け持ちの学生と比べて、相当に優遇されている。一日中、朝から晩まで、食事の内容から姿勢に至るまで指導を受けているんだから」
「え…………?」
カミュの怒涛の言葉の波の果てに、俺はとんでもない答えを見た気がした。目を反らした方が負けだ、とでもいうように、尚もカミュは俺を睨み続けていた。
「…………え?」
人間、驚くと口が開く、とか目を見開く、とか、色々と表現があるけれど、俺の場合は、脳みそが脳天から飛び出した。飛び出したまま、天井に浮かんでる。ついでに言えば、心臓は喉を突き破りそうに鼓動して声がうまく出なかった。
「ユーリって、契約って……」
痛いくらいに熱くなった喉に唾液を流し込んだ。
「……講師、か……!」
目から血が噴き出しそうだった。踵を返してドアノブに手を伸ばした俺を、カミュの両手が許さなかった。俺の胸ぐらを掴みこんでドアに俺の背中を打ち付けたからだ。
「邪魔するなっ!!」
カミュが俺を叱りつけた。口調も、表情も、怒気も、カミュの体から出る何もかもが、俺に余計な事をするなと言っていた。でも、余計な事ってなんだ? 講師が生徒に手を出す、それ以上に指導する代わりに生徒に性的な関係を強制するなんて、
あり得ない。
「カミュ、自分が、何を言っているのか分かってるのか?」
今度は、俺がカミュの顔から眼を離せない。カミュは、事の重大さが分かっていないのか? Accademia Nazionale di Santa Ceciliaは、イタリアで、いや、世界で最も古い音楽学院の一つだ。毎年海外からも多くの学生が留学してくる。そんな教育の場で、契約、だって? いや、それは契約じゃない。ただのセクシュアル・ハラスメントだ!
「勿論、分かっている。大学にバレたら、ユーリは首、私は退学だ。他の学生だって、黙ってはいないだろう。……私は、運が良かった」
最後の一言を強調して、カミュが言った。
「まともな神経の講師なら、絶対そんな誘いはかけない。その代わり、董の立った学生を給料分だけ面倒みて終わりだ。講師は全力で学生を教えなくてはならない、なんて決まりはないからな。真剣に指導してもらうために体を売るなんていうのは、古典的な手法だよ。でも、普通なら、私にはそれも使えないはずだった。男だし、若くもない。でも、ユーリはゲイだった。……そして、私の容姿は、彼の気をひいた」
カミュは、そこで、少し皮肉な笑みを唇の端に浮かべた。
「……ゲイに好かれる体質なんて、いいことは何もないと思っていたけどね……。こんなところで役に立った。ユーリは大人だよ。ちゃんと分かっている。私に気があるから、特別に無料で個人指導をしよう、とは言わなかった。契約なら私が乗って来る、という計算も、一線を超えてしまえばその先も攻められる、という自信もあるんだろう……食えない大人だ。私だって、これが契約でなかったら、やはりこんな関係にはならなかっただろう。……愛情を返せないのに、過分の好意を受けるわけにはいかない。いくら何でもすると覚悟しても、それだけは絶対に駄目だ……お前のタブーとは、多分違うだろうけれど」
次第に小さく落ちていく声と共に、カミュの視線も下がり、あれ程のきつさを放っていた瞳が隠れた。
ああ、自虐もきちんと感じているのか、と俺は少し安堵した。馬鹿な事をしているという自覚があってくれるのなら、少しは、救われる。そう思った。そして、俺が救われてはダメだろう、と。
カミュがどう考えているのか、確かめた事はないけれど、俺とカミュの間にある「音楽」は決して優しいものじゃない。パブリックの時からずっと、お互いに遠慮と蟠りがあった。奇しくも今カミュが俺に言ったように、過分の好意は受けられない。受けるのは苦しい。俺は、その苦しさを、身を持って知っている。
なんとか、カミュの好意に見合うだけの好意を返したかったパブリック時代。音楽院で、カミュが精いっぱいの、大げさではなく、自分の人生を掛けてまで俺に与えてくれた音楽を壊してしまった時の、途方もない罪悪感。けれど、俺の罪悪感なんて関係なしに、カミュは音楽の世界から落っこちた俺を、どこか安心したように愛してくれた。
それで、気付いた。やっぱり、本当は、カミュ自身が、音楽の世界に生きたかったんだと。俺に音楽が無いのなら、それでもいい。でも、俺だけに音楽の翼があるのは、それだけでカミュを苦しめた。
たった一度の人生だ。傷を見ないようにして愛し合うより、傷なんて気にならない人生をカミュに歩いて欲しい。だから、二年前のクリスマス、プロポーズの言葉と一緒に酷いことを言った。カミュの傷を抉るし、どうしようもなく怒らせるという事は分かっていた。でも、「できない」と常識で答えを出すカミュをひっくり返すには、怒らせるより他に考え付かなかった。理屈で攻めても、カミュは絶対に動けない。
だから、今、この結果は、全部おれ自身の責任でもある。カミュが追い詰められると苛烈な選択をする事も、自分で決めた目的の為には自分の内側の色々な感情を無理矢理ねじ伏せて邁進することも、みんな分かっていて、上手くサポート出来なかったんだから、自業自得だ。
パブリックの頃のカミュは、滅茶苦茶うまく俺を転がして専科に押し入れたのにな……。
自由な両腕を伸ばし、カミュの頭部を包み込み、前髪に隠れたカミュの額にキスをした。
「カミュは、この選択が、最善の選択だと考えてる?」
カミュは、暫く凍り付いたように動かなかった。
「……良いとか、悪いとかじゃない。それ以外に、道はないから。……頼みがある。このことは、誰にも言わないでくれ」
肺の奥から、息を吐いた。カミュの頭部に柔らかく添えていた掌を離し、両腕で抱き込んだ。
「期間は? 『契約』は、いつまで?」
「……とりあえず、Corso di Diploma Primo Livello 終了まで。……それ以上は、指導してもらえるかどうかも分からないし、 それ以前に、Secondo Livello へ進学出来なければ意味のない話だから」
「それじゃあ、カミュ、口止めの交渉をしよう。一つ目、Primoが取れたら、俺と契約して。二つ目。今ここで、昨日カミュが契約相手にした事を俺にして」
カミュの背筋が、はっきりと分かるくらいにぴんと伸びて、硬直した。俺の胸倉を掴んだ手が、一度ぎゅっと握り締められて、それから、その両手の指がシャツのボタンにかかった。
カミュの、俺の肩口に押し付けられていた顔が傾いて、耳に湿った柔らかい感触を感じた。
「……先のことは、約束出来ないけど、覚えておく。……二つ目は……後悔しても、責任は持たない」
言葉と一緒にカミュは体を猫のように擦り付けて来た。今のカミュには、俺からの好意を好意として受け取るのが苦しいからこその交渉という提案だったけれど、胸が痛かった。そんな風にして、自分の体を使って夜を過ごすのかと思うと、どんな理由であれカミュを行かせたくなかった。
すり寄り、わかりやすい媚を売りながら動くカミュの体を力一杯抱きしめ、カミュに正しく伝わりますようにと願いながら耳元に言葉を吹き込んだ。
「最後まで聞いて……。同じことをしてって言われて一瞬戸惑ったそのカミュの気持ちを、その契約が切れるまで持ち続けてくれたら、それでいい。持ち続けて貰えるように、俺も頑張るから……」
カミュが体の動きを止めて、呆然と俺を見た。熱を帯びた視線と薔薇色の頬、一瞬見えた、自分の熱を恥じるような瞳の色、そんな色々の表情が、次の瞬間にはくしゃっと小さく丸まって、泣きそうに寄せられた眉と食いしばった歯の間に隠れた。
あれ、これは、正しく伝わってない、と直感した。カミュを、拒んだわけじゃないんだ。きつく結ばれた唇に思いを込めて唇を押し当てた。歯は食いしばられ、顎の筋肉は硬く強張っていた。
唇の隙間に舌を差し入れ、カミュの歯を舐め、薄いその下唇を吸った。そしてカミュの高い襟に隠された皮膚の薄い部分に唇を押し当てるとそのままカミュに尋ねた。
「誤解しないで欲しいんだけど、カミュが今想像したような事でカミュを止めたんじゃないよ? 最初から条件はさっき言った通りの二つだ。ただ……」
カミュの匂いを胸に吸い込んだ。あんな無茶な条件を飲もうとしたカミュの勇気に、自分も答えなきゃいけない、そう思った。カミュの肩口に額を擦り付けて苦笑と共に言葉を吐く。
「昨日カミュがした事を、今ここでやったら、絶対に俺はカミュの道を潰すよ? カミュが、これしかないって思って、悩んで、決意した道を潰す。我儘な八つ当たりだって分かってるけれど、情けないけど、自分で手綱を取れる自信が全然無い……。カミュが無事にその契約を全うしたいなら、そんな傷付いた顔をしないで、ドアを開けて出ていくのがいいと思うんだけど、どう?」
ふっと、カミュの体から張りつめた緊張がとけて、小さな溜息が聞こえた。顔を上げると、また、いつもの二重、三重に生の感情を隠した微苦笑で、「そういえば、お前は据膳は食わない奴だった」と呟いた。
「……そういうお前の妙に冷静なところ、何度も腹立たしく思ったものだけど……でも、お前が正しい。……間違っているのはいつも私の方だ。……見逃してくれて、ありがとう。感謝する」
それからカミュは、俺の体をそっとドアから退かせ、ドアを開けて、一度も振り返らずに出て行った。その硬い表情や、苦い笑みは理性で割り切れないカミュの落胆を伝えてきた。
カミュは、俺を冷静だと言ったけれど、ちっともそんな事はない。何やっているんだろう、自分、と思うし、カミュも何をやっているんだ、と思う。絶対に俺は、これから毎日、カミュが契約という正義を盾にあのピアノ講師と寝ているということを考えずにはいられないし、カミュを見ればその姿を想像するだろう。
どうしてカミュがそこまで追い込まれていると気付けなかったのだろう? どうして適切な手助けを、適切なタイミングでできなかったんだろう? 自分のしでかした失敗だけれど、勘弁してほしい。
その晩、眠くなる酒量を超えてうっかり飲んでしまったワインの量は、フィレンツェからの土産を全て空にして終わった。翌日は、焼けるような胃の痛みに終日悩まされた。胃が痛くなるだけで、意識も失わず、酩酊も出来ないのだから、本当に、世の酒飲みの云うことは分からない。気持ちよく眠れる所でやめておくのが一番いい。
カミュの、二度目のイタリアでの誕生日、ローマは二十七年ぶりに白い雪で覆われた。某楽曲ダウンロードサイトで使えるクレジットカードと、ハッピーバースデーのカードをカミュの暮らす家のポストにカタン、と落とした。カミュを思えば、夜の空想に苦しめられるけれど、一つでも多く、幸せに笑える事がその日々の中にあればいい、と心から願った。