誕生日

この年になると、誕生日なんて……というのは去年散々愚痴ったので、今年はやめにして。
今日一日の記録。


7:00 AM
朝起きてすぐメールをチェックして、ネットワークプロバイダとYahooと近所の眼鏡屋から「誕生日おめでとうございます」メールが届いているのをみて凹む。
7:30 AM
気が滅入るので朝ご飯は目玉焼きとトーストと紅茶だけにしたら、ユーリに手を抜いていると文句を言われた。メールの件もあって面白くなかったので、つい「今日は誕生日だから楽することにしたんです」と言ったら、
「誕生日? なにそれ。君そんなの祝ってる暇あるの。ってか、年寄りの君がそれ以上年取るのってめでたいの? 年取ったんだったら、そんなにタンパク質いらないよね?」
とあっさりこちらの目玉焼きの皿から目玉をひとつ持って行かれた。
年なら自分の方がもっとかさんでるくせに、相変わらず傍若無人な人だ。
8:00 AM
授業前に練習をするために音楽院へ。ミロに待ち伏せされていたら気まずいな、と思ったが会わなかった。……まあ、待ち伏せを予想すること自体が相当に図々しいか、と反省。
12:00 PM
ランチを準備してこなかったので、近くのカフェへ。一人だったのでカウンターに腰掛けたら、後からやってきたユーリにみつかって、折角頼んだランチサラダを撤回させられて、ポークソテーに変更。
ピアニストは肉食え、とかいうなら、何故今朝の目玉焼きをさらっていったのだろう。
ユーリは特大のクラブサンドにボウルいっぱいのクラムチャウダーを頼んで、デザートにパフェまで食べていた。こんなに沢山どこに入るんだ、と思っていたら、財布をぱかっと開いて、「お金足りない」の一言。
……絶対、確信犯だ。
結局、ユーリの分まで全額払う事になって、カウンターで以前もらっていたクーポンを出したら、
「あら、このクーポンの期限は昨日までよ、残念ね!」
とオバサンに軽くあしらわれた。
最悪だ。
店を出たら、ユーリが「今日誕生日だからクーポン使わせて! ってお願いすればよかったのに、君、へんなところで押しが弱いよね。そんなんじゃ、世の中うまく泳いでいけないよ!」と一言。
……交通違反の罰則金も交渉で値切れると信じ込んでいるロシア人と一緒にしないでほしい。
2:00 PM
午後のレッスンは、ショパンのエチュードとマズルカ。ユーリに昼食を奢ったのがきいたのか、久々に平穏に終了。こんなに機嫌良くなってくれるのなら、週一回くらい奢ってもいいかもしれない。
5:00 PM
レッスン後練習室に行こうとしてユーリに呼び止められる。曰く、
「今日、君誕生日なんだから、夕食は御馳走だよね?」
よくみると、コート来て、鞄も持って、もう帰宅する気満々の様子。
「……僕の誕生日なのに、僕が働くんですか?」
「イタリアでは誕生日を迎える人が日頃お世話になったお礼にパーティを開くんだよ! 君、この僕にこんなに世話になっておきながら、何もしないつもりなの?」
「でも貴方、ロシア人ですよね? 僕もイギリス人だし」
「何言ってるの! 僕らは今、この明るいイタリアの太陽のもとに居るんだよ!」
……いつもは、そのイタリアに散々文句言ってるんじゃないですかね。
「羊! 今晩は羊にしようよ! 早く行かないと、店が閉まっちゃうよ!」
問答無用で部屋を追い出され、そのまま肉屋に直行。
7:00 PM
帰宅。郵便受けに手紙がひとつ。
ミロからだった。

カミュ、誕生日おめでとう。
……正直、去年みたいに、カミュの誕生日を祝えないのが寂しい。
何かプレゼントを、と思ったけど、モノは何を渡してもカミュの勉強の邪魔になりそうだから、結局つきなみなものになっちゃった。
2月7日というと、トマスモア、チャールズ・ディケンズの誕生日。日本のプリンス・ショートクの誕生日も2月7日だって。あ、そういえば、日本のヴァイオリニストの、アキコ・スワナイもそうだったかな。
2月7日は、あのミゼレレを書いたグレゴリオ・アレグリの命日でもあるね。
こないだWikipedia見てて知ったんだけど、この曲、ずっと秘曲とされていて、システィーナ礼拝堂からの持ち出しを禁止されていたんだって。
写譜したら破門だってさ!
でも、その曲を聞いた当時14歳のモーツァルトが、それを記憶をたよりに楽譜にしてしまったんだって。1回聞いて暗譜して楽譜を書き、2度目に聞いたときに間違いを直した。その楽譜がイギリス人歴史化の手にわたって出版されて、禁書が解かれた。
モーツァルトが早熟の天才でなかったら、イギリス人歴史家がローマ教会を恐れて楽譜を出版しなかったら、あの曲がここまで有名になることはなくて、今もシスティナ礼拝堂の中のカビ臭い倉庫にしまわれて、ミサの時だけ遺物みたいに恭しく取り出されるような秘曲だったんだろう。
そうしたら、俺達はあのポールの歌声を聞く事は出来なかった。
そもそも、400年以上前に、このローマにアレグリが生きていて、あのミゼレレを作曲したんだと思うと、ローマってとんでもない場所だな、と改めて思うよ。
ポールはどうしてるかな。久々に演奏会に行ってみようかな。
…でも、どれほど沢山の有名人の名前を並べても、2月7日はやっぱり俺にとってカミュの誕生日だ。
一年で一番大切な日だよ。
正直、お互い三十を超えたし、年を重ねるごとに厳しさが増すものがあるのは分かってるけど……
それでも、いくつになっても、やっぱり、カミュの誕生日には、「おめでとう」と言いたいな。
あまり無理しないように、あと、あまり酒を飲み過ぎないように!
M.

………。
アレグリのミゼレレとモーツァルトの話は、かなり有名な話なんだが……(汗)
知らなかったのか? 今まで?(汗)
まあ、でも、ちゃんと「おめでとう」と言ってもらったのは、今日はこれが初めてだ。
……案外、悪くない。
プレゼントは、手紙に同封されていたiTunesプリペイドカード。なんと100ユーロ分もあった。
有り難く、参考音源のダウンロードに使わせてもらおう。
9:00 PM
遅めの夕食。ユーリがフランスから持ってきたワインを開けてくれた(でも3/4は自分で飲んだ)。
食事はまずまずの出来。腹十二分にタンパク質を詰め込んで満足したのか、ユーリは至極ご機嫌。
11:00 PM
ベッドに行って寝ようとしたら、ユーリから包みを手渡された。
「こんな不肖の弟子に誕生日プレゼントを用意するなんて、僕って本当に優しいよね!」
と一人悦に入っているので、放っておいて包みを開けたら、とんでもないものがでてきた。
「……これ……!」
「しっかり勉強してよね! あと、いらなくなったら、返すように」
「それって、プレゼントっていいませんよね?」
「僕の研究の成果を見る権利をプレゼントするんだよ! モノまで奪おうなんて図々しいよ、君!」
包み紙の中から出て来たのは、バッハの平均律ベーレンライター原典版の全集だった。
ベーレンライター版は、最新のバッハ研究の全てが詰め込まれていると言ってもいい。
しかし、運指が書き込まれておらず、演奏するには難がある。主に研究用と言われる所以だ。
でも、この楽譜には、ユーリが運指や指示記号を書き込んでいた。
何度も鉛筆で書き直した跡のある楽譜だ。試行錯誤した痕跡が、そこかしこに残っている。
「……ありがとうございます。頑張って勉強します」
包みの中身はくだらない大人のオモチャではなかろうか、と邪推した自分を反省した。
11:59 PM
もうすぐ、2月7日が終わる。
明日は、早速バッハの平均律の音源をiTuneで買って、この楽譜を見ながらそれを聴こう。
……ちょっと、悪くない誕生日だった、と思った。

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