春の声

 イギリスの厳しい冬に比べれば常春に近いようなこのローマでも、暦の春が訪れればどこからともなく春の香りが立ち上る。狭い住宅のベランダの僅かな隙間に置かれた鉢植えの花や、街路樹のさわやかな緑の葉擦れに、甘い花の香りや若々しい緑の香りが風に混じるのだ。


 今日は三月二十日、イースター休暇まであと二週間あまり。休み中の予定を口にする者もちらほらとあらわれ始めた。自分はといえば、最後まで試験の日程調整がうまくいかず、未だに三つもある予定表と格闘する毎日だ。
 大体、この国の大学の試験システムは効率が悪過ぎて、お話にならない。
 クリスマス休暇明けから一ヶ月、十分に検討の上発表された筈の試験日程が、必修科目や重要選択科目の試験が同日同時間に行われることになっていたりなんてのは日常茶飯で、これに学生達がめいめいに教授に対し文句をつけ、教授がもっとも声の大きい学生(多数決ではないところがミソ)の意見を酌んで勝手に日程を変更したりするから、一週間後には収拾のつかない事態に陥る。更に、そのスケジュールの管理は一応大学が提供する旧態依然のコンピュータシステムで行うこととはなっているが、教授が勝手に作成した手書きの予定表や、何故か事務が持っているエクセル表まであったりして、どれが最新版で正しいものなのかも分からない。教授が固まったと信じている日程では教室が確保できず、結局あとでまた変更という事態もある。
 つまるところ、自分が受けたい試験の日程は、直接事務と教授の双方に一々予定を確かめるしかない、というわけだ(しかも、これで万全と安心していると、一週間後には約束の試験日が変わったり、筆記試験のはずがスケジュールの読めない口頭試験に変更されたりするから油断ならない)。
 こんなに面倒なことになっている理由の一端は、それぞれの科目に試験日が複数設定されていることにもある。筆記試験などは、大教室を借り切って一斉にやって、一日で済ませてしまえば良いようなものだが、口頭試験となるとそうはいかない。おしゃべり好き、というか口から先に生まれてきたようなイタリア人の口頭試験ともなれば、試験に関係あることないこと、美味いコーヒーショップの季節のメニューからその店の奥方の不倫話に至るまで、喋り倒して一人につき軽く40分はかかるのだ。そうなると勿論一日では片付かず、試験日程が複数日にまたがることになる。
 そういった複雑な試験日程でも全員が全科目試験を受けられるようにするため、筆記試験の方も予備日が3日くらいついて、どの日に受験するか事前に提出せよ、という話になる。同じ試験問題で複数日受験日を設けたら、2回目以降は情報が出回って試験にならないのではないか、などという心配は要らない。何故なら、筆記試験会場では、全員が紙片やらノートやらを持ち込み、カンニングは当たり前、酷いのになると、席の近い学生同士で相談して回答を記入しているからだ。(ちなみに私は、最初の筆記試験で前後左右から馴れ馴れしく回答の「ご相談」を受け、最初の一度は断ったものの、思い切り背後に立ってこちらの回答を覗き込んでいる学生が煩くなって最後には書き上がったものから順に机の端に回答用紙を積み上げることに決めた。)
 実技が殆どの音楽院だからまだ良いが、これが学生数も講座数も多い一般の大学だったなら、どれほどのカオスに陥るのだろう、と想像するだに恐ろしい話だ。

 事務局で再度実技試験の日程の確認をして、とりあえず筆記試験の日程だけ提出して音楽院を出た。まだ日は高いが、今日は帰りに寄る所がある。ユーリの誕生日プレゼントを買いに行くのだ。
 3月20日がユーリの誕生日だと知ったのは、つい一週間前のことだった。ラフマニノフのプレリュード「鐘」のレッスンを初めて受けた時、珍しくユーリは「悪くない」と言ったのだ。そして、その日は機嫌が良かったのか、「僕、ラフマニノフ好きなんだよね、僕と同じ誕生日だし」と言った。
「同じ誕生日、ということは、4月1日ですか?」
 思わず聞き返して、ユーリに思い切り睨まれた。
「違うよ。3月20日だよ」
「えっ、……でも、たしか4月1日のはずですが」
「それ、グレゴリオ暦でしょ。ラフマニノフの時代は、ロシアはユリウス暦を使ってたんだよ。後の人間がいくらそれは4月1日だと言っても、ラフマニノフ本人は人生の半分以上を3月20日だと思ってたんだから、3月20日でいいんだよ」
 そうは言っても、今我々が使っているのはグレゴリオ暦なのでは、という疑問を口にするのは止めた。この、ロシアは田舎だのダサイだのと文句をたれる割には、故国が生んだ偉大な音楽家達を愛してやまないピアニストが、なんだか可愛らしく見えたからだ。

「うん、クスミティ、だよ。多分そちらでも、有名百貨店には置いていると思う……でも意外だね? フランスに詳しい君が知らなかったなんて」
 その翌日。
 久々にかけたイギリスへの国際電話で、受話器の向こうの柔らかい声がそう言った。
 サガ・エインズワース──かつてはチェトウィンド卿と呼ばれた高貴な人は、市井に下っても言葉の端々にそれこそクスミティのような格調高い香りがあり、その声を聞けばつい背筋を正したくなる。時折、こんな殿上人と普通に暮らしているアイオロス・エインズワースはとんでもない胆力の持ち主だ、と思う。自分だったら、毎日気が張って、そのうち草臥れてしまうだろう。
「ええ、フォションは祖母が好きなので昔から知っていたのですが……逆に、祖母の家にはそれしかなかったもので、すっかり見落としました。それで、先輩が以前出してくださったのは、どのブレンドでしたか?」
 以前、サガ先輩の家を訪れたとき、とても香りのよい紅茶を出してもらったことがある。2月にユーリからバッハの平均律のベーレンライター版を贈られた礼に、ユーリの誕生日には何かプレゼントを、と考えていて、この紅茶のことを思い出したのだ。
 本当は、何か音楽に関係のあるものの方が良いのかも知れないが……ユーリは結構好みがうるさくて、なまじのものでは満足してくれない。それで、いっそ実用的なものにしようと決めたのだ。
「うちにあるのは50番だけれど、どれも美味しいよ。どういった味が好みの方にプレゼントするのかい?」
「結構甘いものが好きだと思います。ロシア人なので、紅茶のときはかならずジャムの瓶を持参しているし……」
「ロシアの人なら、ロシアン・フレーバーのシリーズが良いかもしれないね。たしか五種類ほどあったと思う。ジャムにもよく合うと思うよ。ジャムも探しているのかい?」
「いえ、ジャムは……こちらで、フランボワーズとアプリコットのジャムを作ったので……」
 ふと、会話が途切れ、電話の向こうで微笑んだ気配がした。
「……君がそこまで準備するなんて、大切な人へのプレゼントなのだろうね……」
 何故か、その言葉にどきっとした。……大切な人には違いない。彼がいなくては、ピアノを教えてもらえなくなる。けれど、同じ家に住むユーリの目を盗んで、こっそりジャムを煮詰めていたこの数日間、本当にそれだけだっただろうか?
「ピアノの……師匠なんです。こんなに出遅れた僕にも、とても真剣に教えてくれて……」
「そう……それは、良い先生に巡り会えて、良かったね」
 サガ先輩の言葉は、ごく普通の言葉であっても、背後にいつも優しい思いやりがある。私が色々な面で苦労した事を知っているからなのか、その言葉は本当にほっとしているようで、こちらの心も和ませた。と、その時。
「まーた押し掛け女房やったんじゃないのか? 獲物を落とすときは結構手段選ばないからな、お前」
 不意に、受話器の向こうから別の声がした。途端、「ロスッ!」と尖ったサガ先輩がして、続いて「いてっ!」とアイオロス先輩の悲鳴が聞こえた。
 サガ先輩の家にアイオロス先輩がいるのは当然としても、もしかして、この会話、アイオロス先輩にも聞こえているのだろうか。
 そう訝しく思った時、その弁明が早口に聞こえてきた。
「すまない、カミュ。実は、エンジェルが受話器のコードを噛み切ってしまって……今、ハンズフリーモードでしか会話ができないんだ。ロスがまた失礼なことを言って済まない」
「なんだよ、エセル! 本当の事を言って何が悪い! 薹が立ちすぎてる弟子の面倒をそこまで真剣にみて、しかも同じ家に住んでるって、それしかないだろうが! ミロの奴は振られたって話だし?!」
「……ロス。それ以上私達の会話に口を挟むなら、もう君とは口をきかない。私は、下世話な口と話すのは嫌いだ」
「勿論、エセルは聞かなくていいぞ! 俺が話を聞きたいのはその受話器の向こうの赤狐だからな!」
「ロス!」
 サガ先輩の冷え冷えとした声が振って、アイオロス先輩は「ちぇ」と呟いてどこかへ行ってしまったようだった。……アイオロス先輩が、時折わざとサガ先輩を怒らせたくて煽るような事を言うのは知っているが、この声を聞くと、よくぞそんな気が起こるものだ、と思う。普段怒らない人ほど、怒らせると怖い、とはこの先輩のためにあるような言葉だからだ。
「本当にもう……どうしてロスは、君をああまで執拗にからかいたがるのだろう。多分フランスで一緒に暮らした君に甘えているだけだと思うけど……」
「いえ……別に、気にしてませんから……」
 思わずなりゆきでそう返答し、情報に礼を述べて受話器を置いたが、内心はかなり衝撃を受けて、その後暫く腰掛けたソファから動けなかった。
 ……やっぱり、見る人が見れば、そういう風にしか見えないんだろうか。
 ユーリが本気で私を指導してくれていることは明らかで、それが非常に珍しいことだということも分かる。勿論、手段を選ばなかったのはこちらではなくユーリの方だし(約束だからバイトで恋人を演じているが、あれは卑怯、というか脅迫だったと今でも思う)、そもそも最初に誘いをかけてきたのもあちらからだ。まるで私が自分の利益のために師匠をおとしたかのような言動は是非訂正したいところだが、だからといって、いささか卑怯な手段を使っている事実に変わりはない。
 これだけ離れた場所にいるアイオロス先輩にさえばれてしまうような関係なら、同級生はとうの昔に私とユーリの関係に気づいているのかも知れない。
 補欠で入学したくせに、新任の講師に取り入って特別レッスンを受けている私を、皆はどう思っているのだろう……。

 

 アイオロス先輩の言葉を思い出して少し滅入った気分になったのを、カフェに立ち寄って一杯のエスプレッソで振り切り、コロンナ広場に面した百貨店「ラ・リナシェンテ」に向かう。
「クスミティのロシアン・フレーバーセットですね。お取り寄せしておきました」
 フードマーケットの中の紅茶専門店で、女性店員がにこやかにカウンターの下から箱を取り出した。色鮮やかな五種類の缶が詰まっていて、たしかに贈答品には良さそうだった。
「プレゼントですか? お包みしますか?」
「いえ、自分でやりますので、そのままで結構です」
 店員が、意外、といった視線で私を見た。なるほど、男がこういったものを自分で包むというのは珍しいのかも知れない。
 紅茶専門店を出て、色とりどりのラッピング用紙が溢れる売り場の一角でリボンと紙を選び、花屋でそれに添えるミモザの花を選んだ。
 ミモザの花言葉は、豊かな感受性、感じやすい心。……まあ、色々我侭だが、豊かな感受性の持ち主であることに変わりはない。
 百貨店を出て、グロッサリーストアに寄り、ユーリが好きな羊肉を買って家に戻った。ミロが羊が好きだったお陰で、羊肉のレシピはそらで覚えているものがいくつかあって、頭の中で今晩の晩餐の段取りを考えながら、食事の下ごしらえをする。ミロのために覚えたレシピを他の人のために使うことへの躊躇いを、なるべく見ないようにしながら。
 オーブンに入れた羊が良い香りを放ち始めた頃、ユーリが音楽院から戻ってきて、鼻をひくつかせた。
「何? すごくいい匂いがしてるじゃん。何かいいことあったの?」
 コートも脱がずにキッチンへ直行して、嬉しそうにオーブンの中を覗き込む姿に、思わず笑みを誘われた。
「今日はあなたの誕生日でしょう? 一応、日頃の指導のお礼に、あなたの好きなメニューにしたんですが」
 ユーリは、きょとんとしてこちらを見た。
「……ホント? それ、マジ、嬉しいんだけど。今まで僕、彼氏に誕生日のディナー作ってもらったことないよ!」
「……それは、貴方がいつも、あまりに若すぎる恋人ばかり捕まえてくるからじゃないですか? 20歳そこそこの男なんて、一人暮らしの経験も浅いし、自分の食事だってまともに作ってないですよ、きっと」
「でもさ! 好きな人をもてなすためだったら、一生懸命勉強して出来るようになろう、って思わないか?! 普通!! なのに、いつも、フォークとナイフ持って僕が作るの待ってる子ばっかりでさ!」
 ぷっとふくれた横顔を見ながら、その文句に心の中で共鳴する自分がいるのを自覚した。 ……私がそこそこ料理が出来るのも、もとはといえば、味に煩いミロになんとか喜んで食事をしてもらおうと色々研究した結果だ。
 案外、恋人に求めるもの、という意味で、自分とユーリは近いのかも知れない。
 ミロも勿論、私がそうして料理を作ればとても喜んでくれるけれど……その背後にある下心までは読んでくれない。そういう感覚が、なんの説明もなく伝わるのが、なんだか心地よかった。

 早い時間に食事を済ませて、食後のケーキと一緒にプレゼントの包みを渡すと、ユーリはまた盛大に驚いた。
「へえ、君、こんな才能があるんだねえ! こんな洒落たラッピング見た事ないよ!」
「まあ、一応……以前は、照明だけでなく、インテリアデザイン等のコーディネート系の仕事も手がけてましたから」
「それ全部投げ打って、ピアニストになりに来たの? 無茶だねえ」
 またいつもの人のからかう口調でそう言われて、思わず溜息をついた。
「……無茶ですか」
「その自覚はあるんでしょ。一度成功した仕事を全部捨てて、こんな狭き門に無理矢理ねじ込んでくるなんて、無茶以外のなにものでもないよ。君がそっち関係の専門教育を受けている年齢に、僕らは朝から晩までコンクールの入賞目指してピアノ弾いてたんだからさ」
「……それは、まあ……」
 言われなくても重々分かっているつもりだが、ユーリに扱かれている間にそれをすっかり忘れていた自分に気づいて、少々驚いた。
 思えば、前の指導教官の時は、毎日その差を思い知らされて、その絶望的な圧力に抗うのに必死だったのだ。
「Kusumi Tea? ふうん、見た事ないブランドだね。美味しいの?」
 包みを開けて中をみたユーリが、面白そうに缶のひとつをつまみ上げて光にかざしてみせた。
「以前、知人の家で御馳走になったときは美味しかったです。──もっとも、そのブレンドの味は知らないんですが」
「僕がロシア人だから、ロシアン・フレーバー? 結構安直だよね」
 ぐっと言葉に詰まったが、その通りなので仕方がない。
「……安直ですみませんね。で、どれにしますか? ケーキのあてに、今淹れますから、ひとつ選んで下さい」
 ついぶっきらぼうにそう言って立ち上がると、ユーリは、楽しそうに瞳を煌めかせてこちらを見上げた。
「ケーキもいいけど、ちょっと気が変わった。ピアノ部屋に行こうよ」
「──え?」
「ラフマニノフの「鐘」。僕にプレゼントするつもりで、弾いてみてよ」
 ユーリが席を立って私の腕をとり、強く引いた。
「ちょっと……師匠?」
「ユーリ」
 振り返ってユーリが笑う。
「レッスンじゃないからね、恋人として弾いてよ」
「……恋人に、「鐘」ですか? ちょっと、暗くないですか?」
「僕がそれでいいって言ってるんだから、いいんだよ」

 

 ピアノ室は昼間から窓が開け放たれたままで、少し冷えた風が窓から滑り込んでいた。
 ラフマニノフの音楽は、北のロシアの大地が生んだ音楽だ。この冷たい風は、その北の空気を連想させる。ユーリが、たまに、わざとピアノ室の窓を開け放したままにしている理由を、私はこのときなんとなく悟った。
曲は、重厚な三つのA,G#,C#の音で始まる。「鐘」の呼び名は、この3音のモチーフが鐘のように聞こえることからあとから付けられたもので、本当の名は前奏曲嬰ハ短調という。
 だからというわけではないけれど、私はこの三音に鐘をイメージして弾かなかった。
 この曲の中盤に出て来る和声は、とても金属の鐘の音で収まる音じゃない。私には、まるで声を失った者の心の叫びに聞こえる──生前、決して自身の楽曲で甘い演奏をしなかったラフマニノフの、心の奥底の叫びだ。
 だから、そのように弾いた。甘い恋人の空気なんて何処にもない。失望に足を引き摺り、叫び、救いを求めて天を仰ぐ──たった数小節だけ現れる天の恵みに必死で手を伸ばす。
 弾き終えたら、全身に汗をかいていた。技術的に難しい曲はもっと沢山あるのに、こんなに消耗する曲はそんなにない。
 ユーリは、薄く笑って、パン、パン、パン、と三つ手を叩いた。

「……この曲の本質を理解している学生は少ないんだよ。大袈裟に喚いてみたり、逆に技巧に凝ってみたりね。一番ひどいのは、「鐘」って俗称に踊らされて、本当にあれがモスクワの鐘なんだと思い込んでる連中かな。
カミュ、君は、技術的にはまだまだだけど、目指すところは正しい方向を向いてる。──その感性を酌んで、一度だけ、お手本を見せてあげるよ」

 ユーリは、仕草で私にピアノの椅子からどくように伝えると、椅子に浅く腰掛け、暫く目を閉じて瞑想した。
 夜の涼やかな風が吹く。──と、ユーリがゆっくりと、鳥が舞うように左手を鍵盤の上にかざした。
 それから、何が起こったのか、自分でもよく分からない。
 最初に聞こえたのは、三つの運命の雷だった。
 力だけではない。私が立ち上がって全身の力を振り絞っても、あんな重い深い音は出せない。
 それを、ユーリは、いとも簡単に、腕の力だけで弾いてみせた。
 それから、囁くような、すすり泣くようなピアニッシモ。小さいだけではない、中に熱いうねりを込めたピアニッシモだ。これなら、きっとホールの隅々まで届く。
 それから、主題に絡められた和音が立ち上り、その頂点で、一瞬だけ長調に転じた主題の変形が現れる。全曲を通して、唯一救いや慰めを感じる事の出来る音列だ。
 今迄で一番、出したかった音がその瞬間聞こえてきて、息が止まった。
 ──そう。ここは、こんな風に奏でたかった。これこそが、思い描いていた音。
 全身が痺れ、震えるのがわかった。喉が乾いて、ひりつくように感じた。
 このたった三つの音列に、同じように心を動かされた人がいる……。
 そして、彼は既に、その音を体現する技術を持っているのだ。

「──泣くほど、良かった?」
 間近に顔を覗き込まれて、初めて自分が涙を零していることに気づいた。
「あ………」
 何か言おうにも、言葉が出て来ない。何を言ったらいいのか分からない。
「……それとも、自信なくした?」
「……っ……」
 必死で首を振る。まだ止まらない涙が床に散った。
 そういうことじゃない、そう思いたいけれど、それすらも分からない。
 ……いや、わからないというのは、嘘だ。
 本当は、認めたくないのだ。あのとき、この音を奏でられる存在が現れたことに、気の遠くなるような安堵と幸福を感じたことを。
 これで、もう、声にならない想いを必死で叫ばなくとも良いのだ、と思った。
 ……同じ感性を共有できる人が現れたから。
 ユーリの奏でる音楽に全てを投影してしまえばいい、と思った。
 ……あの指の持ち主と、全て同化してしまいたい、と願った。

 これは、裏切りだ。
 誰よりも大切な存在である、ミロへの。

「カミュ」
 優しい声が降りてきて、気がつくと、ユーリの腕に囲われていた。
「──今、ここで、したい。いいよね?」
「……それは───」
「駄目? でも君、もうまともに立てないよね? 今日はどうせやるんだし、そのつもりでシャワーも浴びてるでしょ。なのに、わざわざ二階まで行く?」
「ユーリ、……お願いだから、今日は───」
 やっとの思いで、それだけ絞り出した。特別な日だし、今日はそういうことになると分かっていて、既に準備もしている。けれど、今ユーリと寝てしまったら、自分の中の何かが崩壊してしまう、と思った。
 ユーリとは、アルバイトの契約で恋人を演じているにすぎない。そう、自分自身に言い切れなくなってしまうのではないか……そんな気がする。
 ユーリは、更に優しい声で、私の耳に直接吹き込むようにして囁いた。
「──あのさ、僕だって、音楽家なんだ。僕のピアノに、そこまで全身で感動してくれた恋人がいたら、すぐに身も心も自分のものにしたいって思って当然だと思わない? 君の元カレがどうだったか知らないけど──そういうところ、僕は君ととても近いところにいるんだよ」
 その声の響きに、足が震えた。ユーリは、本気だ。本気で、この私を落とそうとしている。
 逃げなくては。
 とっさにそう思って、ユーリの体を押しのけた。けれど、頑丈な腕はびくともしなかった。
「まだ元カレに義理立てしてるの? 君もかなり頑固だよねえ……じゃあ、ひとつ、言い訳を教えてあげるよ」
 ユーリは小さく含み笑いをして、私のおとがいに添えた手を持ち上げて、私の唇を舐めた。
「……僕も、君と同じで音楽に酔うタイプでね。今晩何があっても、それは音楽のせい、ラフマニノフの傑作のせいだよ。僕は、熱烈な僕のピアノのファンの体を愛したい。君は、僕との刹那的な同化願望を満たしたい。──繋がる理由なんて、それでいいじゃないか」
「……嘘だ……」
 たまらなくなって、そう絞り出した。
 何故そう確信したのか分からない。でも、ユーリは嘘をついている、そう思った。
 ユーリは、多分、本気で私を愛し始めている。
 最初はただの遊びだったに違いない。けれど、恋人の契約が成立して、指導に熱が入るようになるにつれ、その熱は少しずつ変化を遂げた。
 ユーリ本人も気づいていないのか。それとも、ただの私の自惚れなのか……。
「嘘じゃないよ。僕は、君と同じだ」
「じゃあ!」
 無理矢理に、馬鹿力を発揮してユーリの腕から抜け出した。こんなこと、多分言っても意味がない。それでも、言わずにはいられなかった。
「誓って下さい! 明日にはもとの貴方に戻ると! 私が今晩何を言っても、何をしても、それは音楽のせいだ──その結果で貴方自身が傷つかないと約束してくれますか?!」
 こんな酷い言い訳はない、と我ながら思う。それでも、こんな未熟な自分のために、ユーリが傷ついて欲しくない、と思う気持ちは本当で……
 ユーリが、ふっと苦笑を漏らした。
「……そういう言い草、僕にはまるで僕を落とそうという台詞にしか聞こえないけどね。まあ、いいよ、それは約束する」
 そのかわり、と呟いて、ユーリは再び私の腕を捉え、彼の体の方に引き寄せた。
「……沢山、僕の名前を呼んで。君が僕の名を呼ぶ声が聞きたい」
 夜の闇がねっとりと濃くなり、窓から吹き込む風が生暖かく震えたのを感じた。

(中略)

「そういえば、昨日は、ついうっかり中で出しちゃった。ゴメンね!」
 翌日。
 あちらこちら痛む体をさすりながらキッチンへ行くと、ユーリが昨日の残り物をつまみながら、あっけらかんとそういって笑った。
「……それはまあ、こちらにも責任がありますから、いいですけど……」
 というか、やると決めた瞬間からそのつもりだったくせに、何が「うっかり」なんだか。
 アナルというのは、本来そういう目的で使うものではないから、いくらこちらが興奮しても女性の膣のように滑りがよくなったりはしない。だからこそ、きちんとローションを使って、それが枯渇しないように気を配る必要があるのだが──昨夜ユーリが体を繋ぐ前に言った「ちょっと最初苦しい」というのは、つまるところ、「先に自分が出して滑りをよくするまでは苦しい」という意味だったわけで、あの時点でコンドームをつけない、というのは決定だったわけだ。
 別に、病気があるわけではないから、それは構わない。
 まあ、ミロだったら、多分絶対やらない、というか、何がなんでもこちらを潤してからしか挿れようとはしないだろうけど……
 最低限の手順さえ踏んでもらって、そこにこちらに対する労りの気持ちがあれば、少々相手を苦しめることになってもその手間が惜しい、すぐに相手と繋がりたい、という情熱は、実はそんなに嫌いじゃない。
 謝るなら、むしろ、あの状態であの部屋に自分を放置した事の方を謝って欲しい。
「……それより、自分だけ、ベッドに戻って寝るって、酷くないですか?」
 とりあえず恨み言を言ってみたら、悪びれる様子もない返事が返って来た。
「そんなこといったって、君、途中で寝入っちゃって、動けなかったじゃん。一応、起こそうとはしたんだよ? でもあんまり幸せな寝顔で寝てるから、このままの方がいいのかなと思ってさ。ちゃんと、毛布はかけてあげたでしょ?」
 まあ、それはたしかにかけてもらったが……あの狭い椅子の上で無茶をしたのと、そのあと固い床の上で散々運動したお陰で、あちらこちらに青痣が出来ている。お姫様だっこをして寝室まで連れていけとは言わないが、マットレスくらい持って来てくれてもよかったんじゃないか、と内心不服に思いながら、朝のバゲットを焼いた。
「あ、そういえば、昨日の君の紅茶! まだ飲んでないよね。淹れてよ!」
 あ───はいはい。
 昨夜のことは一夜の夢、と念を押したのは自分だが、あの体を繋げるときに見せた熱の籠った視線と、今朝の明るい空気にギャップがありすぎて、……なんかこう、一気に疲れが増した。
 Kusumi Teaのセットの中から、プリンス・ウラジミールの缶を取り出してティーポットに茶葉を入れ、熱い湯を注ぐ。3分待っている間に、冷蔵庫からこっそり作っておいたジャムを出し、白い陶器の器に入れてスプーンを差し、ユーリの目の前に置いた。
「……これ、なに?」
「貴方専用のジャムです。専用ですから、舐めたスプーンをそのままつっこんでも構いませんよ?」
 実は、ユーリと暮らし始めて、真っ先に驚いたのがこの習慣なのだった。
 ロシアン・ティー、といえば、紅茶にジャムを入れて飲むものだとばかり思っていたら、本場のロシア人はそんなことはしない、というのを学んだのだ。
 どうするかというと──お茶のあてに、ジャムを舐めるのだ。直接、スプーンから!
 その時ユーリが舐めていたジャムというのが、……これまた、砂糖の塊のような、口の曲がりそうに甘いジャムだったので、ひそかに、この糖尿病になりそうなジャムがなくなったらもっと健康的なものに変えよう、と思っていたのだった。
「へえ、どこのジャム?」
 今迄の砂糖の塊ジャムよりは随分と緩い内容物をスプーンですくっては落とし、ユーリが訊いた。
「どこの、って……僕が作りましたが」
「えっ……君、ジャムも作れるの?!」
 途端に、ユーリの瞳がきらきらと輝いた。
「ジャムも、って、ジャムなんて、すごく簡単でしょう?」
「そうなの? 僕作ったことないから知らない。──なにこれ、すごく美味しいじゃん!!」
 スプーンを咥えたユーリが興奮した口調で言った。
「……ユーリ、貴方が今迄食べていたものは、ジャムじゃなくて、砂糖の塊ですよ。それは、完熟のフランボワーズとアプリコット、ピーチを使っていますから、砂糖はほんの少ししか入ってません。……本当は、砂糖なしで作るレシピですが、貴方は紅茶のあてにジャムを舐めるから、少し甘めの方がいいと思って、少しだけ砂糖を足しました」
 紅茶が入ったので、深紅色の液体をカップに注ぐ。ふわりと、シナモンの香りが立ち上った。
「──はい、どうぞ。……本当は、この二つ揃って、誕生日プレゼントだったんですけどね。一日遅れてしまいましたが、誕生日おめでとうございます」
 昨日言うはずだった言葉を紅茶に添えて届けると、ユーリは少し驚いたように、目を見張った。
「……君って……結構、いい弟子だね……」
「感動しましたか? なら、もう少し指導は優しくして下さい」
「えっ、今のレベルの君に、これ以上何を優しくしろと?」
「……冗談ですよ。これは、僕の誕生日に貸していただいた、バッハのベーレンライター版のお礼です」
 まあ、これは、別に照れ隠しでもなんでもなく、本心だ。
 ただのモノではなくて、ユーリが苦心して手に入れた成果を分けてくれた。
 こんなに出遅れた、それこそ薹の立ちすぎた学生に。
 それが、どれほど、心を温めてくれたか知れない……。
 私が、昨年感じ続けていたような絶望と毎日闘わなくてよくなったのは、間違いなく、ユーリのお陰だ。
 ふっと、ユーリの視線が和らいで、こちらを見上げた。
 何故か、その視線にどきりとして、何も言えなくなった。
 窓の外の梢に、ゴシキヒワがやってきて、ツィリッ、ツィリッとさえずり始めた。
「カミュ、」
 ユーリの大きな手が、さらりと私の頬を撫で、頬に落ちかかっていた髪を梳き上げた。
「……春の声が、聞こえるよ……」
 それが、ゴシキヒワの声なのか、それとも、何か別のものの隠喩なのか、私には分からなかった。


すんません……(汗)
このサイトでユーリ×カミュのHをやるのが、古くからうちをご贔屓にしていただいている読者様にどーしても申し訳ないような気がしたので、やっぱり削ってしまいました(汗)
そのかわり、pixivの方で完全版を公開してますので、見たい方はそちらでお願いしますm(__)m(pixivアカウントの作成が必要ですが…)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=2577805
更に、春の声(ユーリ版)をup.
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3763673

コメントを残す