2012年のクリスマス

「カミュ、ピアノ科次席だって? すごいね!」

 1年次に何かと副科で組むことが多かったファゴット専攻のマリオ・カッシーニがそう声をかけてきたとき、カミュ・バーロウはようやくピアノ科の師匠のユーリのシゴキから解放された直後だった。
「ええと──何だって?」
 芸のない返答をしてしまったのは、頭の中をまだシューマンの交響的練習曲が占拠していて、脳がまともに働いていなかったせいもある。ただ、それはカミュにとってあまりにも想像の範疇外のことだったから、そうでなくてもやはり同じ反応だったかもしれない。
「あれ? なんで本人が知らないの? なんか噂になってるよ? 僕なんかピアノ科2人からその話聞かされたのに」
「………本当に?! どうして? イルマは?!」
 現在のピアノ科のトップ2名は、サミュエル・リンとイルマ・モンティだったはずで、その下にもまだ数名有望株がいたはずだ。自分が彼らを抜いて2番というのはありえない、とカミュが思考を巡らすうちに、マリオは丸い顔の中でさらに目を最大限丸くしてカミュを見上げた。
「何で、って………イルマ・モンティはの今学期の半ばくらいから音楽院に来てないじゃないか。故障って話は聞かないし、交友関係結構派手だったから、多分辞めたんじゃなかな? イルマだけじゃなくて、今学期から顔見てない人まだほかに数人いるし。まあ、さすがに留学生はやめないけど、イタリア人は結構大学や音楽院途中でやめるから、よくある話だよ」
「……そうなのか?」
「うん。現に、僕なんかファゴット1人になっちゃって、問答無用で首席だから。……それにしても、イルマのことは管楽器専攻の僕でも知ってるのに、君ホントそういう情報に疎いよね……ピアノ科に友達いないでしょ?」
 カミュはおもわずぐっと詰まって何も言えなくなった。………はっきりいって、いない。
 マリオはこの2年でさらに薄くなった頭をかきながら、まあ、想像はついてたけどね、つぶやいた。
「カフェでくつろいでる姿見たことないとか、授業終わったら速攻練習室か帰宅するかで、夜の遊びに誘う隙もない、って有名だよ。むしろ、伴奏で世話になる僕らの方が、ピアノ科の面々より一緒にいる時間長いんじゃないかな? この話教えてくれたピアノ科の二人だって、君の上達速度があんまり早いから、練習の秘訣知りたいのに声かけられないって、僕に探り入れてきたくらいだし」
「ああ、まあ………若い人みたいに指が回らないんで、その分練習量でカバーしないといけないから、遊びにいく暇がない、っていうのが一番の理由だけど………実はあまりピアノ科の人と話合わなくて」
「だろうね。っていうか、僕ら管の人間とこんなに馴染んでるんだから、生粋のピアノ科とは基本話合わないと思うよ?」
「いや、これでも努力はしたんだけどね………」
 マリオにはそもそも無理だというように言われてしまったが、カミュだって、最初から同科とのコミュニケーションを諦めていたわけではないのだ。
 しかし、いざやってみると、とことん話が合わない。そもそも、物心もつかないうちからひたすらピアノと向き合って大人になった彼らと、パブリックスクールまで普通の学校で過ごし大学は建築科を卒業したカミュとでは、受けてきた教育の種類が違いすぎる。
 唯一話がわかるピアノの話は、うかつに突っ込むと関係がこじれかねないのと、指導教官であるユーリとのプライベートな関係を悟られるわけにはいかないので、無難なことしか口にできない、ときている。
 しかも困ったことに、カミュのおよそ音楽を志す者とも思えないバックグラウンドに、若く才能もある彼らが一種の引目を感じているようなのだ。そして、それが、目下カミュの一番の困惑の種だった。

 カミュは、同科とのコミュニケーションをまだ諦めていなかった頃に、以前の仕事の話──つまり照明デザイナーとしての仕事について、飲みついでに話したことがある。彼らも知っている有名建築物やホテルなどの照明に関わって、多少若手に与えられる賞の入賞歴もあったから、彼らは大変面白がって話を聞いてくれた。
 ところが、カミュにとってただの飲みの肴だったその話は、お喋り好きの女子学生たちの噂話に乗り、あっという間に学年を超えてピアノ科の全員に知れ渡ってしまったのだ。
 カミュはその時初めて自分の迂闊さに気づいたが、それでもそれが後々問題になるとまでは考えていなかった。なにしろ当時のカミュの成績は堂々の最下位だったし、彼らの視線も、ちょっと毛色の変わった奴が、趣味が高じて音楽院なんぞにやってきた、といったものだったからだ。
 それが、最近になって、成績上位者に名前が上がるようになり、彼らの視線が変わってきている。
 イタリアというのは恐ろしい土地柄で、昔から結構な割合で何もかも神懸り的に『出来る』人間が生まれる。自分の専門以外の分野でも、力を発揮する天才たちだ。そして、彼らは、どうやら、カミュもその一人なのではないか、と思い始めているようなのだった。
 あのロンドンでの一夜以後、ユーリが最早カミュに対する特別扱いを隠そうともしなくなり、そのことが彼らの思い込みに更に拍車をかけている。音楽院では、教授が見込みのある学生を特別に贔屓することは珍しいことではないからだ。カミュも以前、アニータ・バルトリの指導を受けていたころには、彼女のサミュエル・リンに対する期待のしわ寄せを露骨に食らった。
 ただ、サミュエル・リンは純粋に己の実力でその座を勝ち取ったが、カミュはそうではない。むしろ、ユーリがカミュの肉体に興味を持たなかったら、決して選ばれるはずのなかった人間だ。
 それなのに、カミュの過去を引き合いに出して、カミュも超人の一人なのだ、だから自分は選ばれなかったのだ、と諦められてしまうのだけは、本当に勘弁して欲しかった。

 ユーリにこのことを打ち明ければ、「気にする必要はない、そんな脆弱な精神では、所詮プロとして生き残れない」と言うだろう。
 ミロに言えば、「だから、音楽院の教師と学生は絶対にそういう関係になってはいけないんだ、フェアじゃない」と言うに違いない。
 どっちの言い分も正しい。でも、正しいからって、誰もが正しくあれるわけじゃない、とカミュは思う。
 その途端、頭の中で、想像のミロとユーリが、それぞれに「なんで?」とツッコんできた。
 ユーリはいつもの人を小馬鹿にした口調で。そして、ミロは、心底不思議そうな、わからない、といった表情で。

 ………小馬鹿にされるより、天然で返される方がむかっとくるのは何故だろう?

 想像の中のミロの口調に苛つくのは、流石にミロに対してひどい、と気づいた途端、カミュはマリオとの会話中だったことを思い出して、顔を上げた。周囲を見渡せば、それほど長い時間は経っていない。マリオは何か喋り続けていたようだ。
「──でさ、君が日本にしばらくいた、って話したら、ピオの奴、とんでもない事言い出してさ、君が日本でニンジャの技を覚えてきて、それをピアノに応用してるから上達が早いんだって!」
「──は? ニンジャ?!」
 真面目に話を聞いていなかった自分も悪いが、ものすごいタイミングで現実に引き戻された、と、カミュは思わず眉をひそめた。
 日本には観光や仕事で何度か行ったことがあるが、しばらくいたと言えるほど長期滞在したわけではない。ミロがしばらく日本で建築を学んでいたのを話したのが、マリオの中で記憶が混線してしまったのだろう。
「……それで上達できるなら、むしろ僕が日本に行きたいよ………」
「え? 君、日本にいたんじゃないのかい?」
「それは僕の友人。彼は1年ほど日本で建築を勉強していたけれどね。もっとも、1年くらいやったって、ニンジャの技は習得できないと思うけど」
「……まあ、そうだよね。でも、僕も一瞬納得しちゃったよ。なんか、動体視力を鍛えるとか、やったら結構役に立ちそうじゃない? ピアノは鍵盤多いし」
「いや、ピアノを弾く時はそこまで鍵盤見てないから……まあ、管楽器に比べれば目を使うことは多いと思うけど、基本、あまり鍵盤は見るなと指導されるよ。見て弾いたんじゃ間に合わないから」
「そうなのか。……でも、まあ、君のピアノが上達した理由なんて、僕は、結構わかりやすいと思うんだけどね……君たちを見てれば。彼らはあり得ない、って思い込みが強すぎて見えないんだろうけど」
「……え?」
 とんでもないことをさらりと言われて、カミュはその場に凍りついた。
 わかりやすい、君たち、と言ったのか? マリオは?
 笑顔を繕う余裕はなかった。そして、あきらかに思考停止したカミュに、マリコはにんまりと目を弓形にして笑ってみせた。
「やっぱり。僕の直感が正しかったね。付き合ってるんでしょ? 君の教官と。……でも、安心して。絶対に誰にも言わないし、僕が気づいたのは僕もゲイだから、ってのが理由だし。まあ、僕らから見ると、二人で並んで歩いてるときの空気で分かっちゃうんだよね。
 でも大丈夫! ピアノ科はしらないけど、木管セクションなんて半分はゲイか両刀だよ!
 ピアノ科で友達がいなくても、僕らが君を守ってあげる。で、早速、クリスマスに木管五重奏やるんだけど、君も乗らない?
 ピアノがまだみつかってなくてさ!」

 

「はあ? 木五?! 何寝ぼけたこと言ってんのさ、君、サミュエル・リンに負けたくせに!!」
 マリオにユーリとの関係を言い当てられ、激しく動揺したところを押し切られて、カミュは一応指導教官の意見を仰いでみる、と約束させられてしまった。
 しかし、最初から答えなんてわかりきっていたのだ。木管五重奏に誘われた、という話をしたところで、案の定ユーリは信じられない、と声を上げた。
「あんな演奏マシンに負けたんだよ?! 君、悔しくないの?! 今の君が考えることは、残り6ヶ月でどうやってサミュエルを完膚なきまでにやっつけるか、でしょ!」
「いや、あの、僕はサミュエルのピアノはそれなりに評価しているので、別に戦いたいわけではないんですが」
「はああ?! 君耳腐ってんの?! あんな目立ち屋のどこがいいのさ!!! 何でもかんでも派手に弾きゃいいってもんじゃないんだよ!!!」
 いや、それ、あなたの演奏スタイルと結構似てませんか、と、カミュは口元まで出かかった言葉を噛み殺した。
 実は、サミュエルのピアノは少しユーリに似ている。より正確に言えば、この2年で似てきた、というべきかもしれない。もちろん、若さゆえに固い部分もあるし、ユーリほど音色を自在に使い分けることもできないけれど、カミュには、どうやらサミュエルは、ユーリがこの音楽院に赴任してから、彼自身のピアニズムの方向をユーリに近い方へと修正しているように見えた。
 サミュエルの指導教官は、世界的なピアニストを何人も育てている聖チェチリアの名物教師、アニータだ。
 ピアノ科ではまちがいなくトップの人間のみが占めることのできる立場にあって、彼女の指導を受けながら、指導を受けていないユーリに近い方にピアニズムを寄せてくるのは、相当に勇気のいることであるに違いない。
 そういえば、サミュエルから一度「ナジェイン先生の指導はどんな感じか」と訊かれたことがある。そのときにはすでに一線を超えていたので、当たり障りのないことを言ってお茶を濁したのだが、いかにも腑に落ちない、という顔をしていた。
 今思えば、サミュエルは指導教官の変更を考えていたのかもしれない。まあ、現実問題として、アニータが手塩にかけた彼を手放すはずはない、とは思うのだが。
 ユーリは、ぐい、とカミュの体に自分の腰を押し付けて、体をすっぽり包むと、カミュの首を腕で囲うように手をかけて耳元で囁いた。
「僕のピアノの上っ面を真似ると、ああなるんだよ。でも、君は、何をすればいいのかわかってるよね? 僕がこんなにピアノ弾きの真髄を懇切丁寧に指導してるんだから」
「………わかっているなら、サミュエルにも教えてあげればいいじゃないですか。彼、僕より上達も早いと思いますけど?」
「冗談。僕アジアンには興味ないし。彼と、こんなことしたいとは思わないし」
 唇を塞がれた。こうなったら、抵抗しても仕方がない。こちらからも両手を首に回して、丁寧に舌でユーリの口内をまさぐる。ユーリの右手がカミュのシャツのボタンを器用に外した。
「………お腹すいたから、もうここでいいよね? 後ろ向いて、キッチンに手をついて」
 いいよねも何も、もうカミュの衣服はあらかた剥がされている。台所でこういうことをするのは不衛生だとか、最初は抵抗もしてみたけれど、結局「ちゃんと洗うから大丈夫」と押し切られて、一度やってしまったら水場が近くにあるのは色々便利だと結論して今に至る。
 慣れてしまうと、結構こういうのも悪くない、と思っている自分がいる。なにより、ベッドに行くより手軽に欲望を吐き出せて、時間が短くて済むのがいい。

 セックスに時間をかけなくて済むのが楽だとか、たぶん以前だったら不謹慎、マンネリ、と捉えていただろう。
 カミュは、ユーリと付き合い始めて、色々と、「恋愛はこうあらねばならない」という縛りが消えたことを自覚していた。
 貪るように相手に向き合う時間もあり、戯れで寝てしまう時間もあり、恋愛感情より単に体の熱だけで交わってしまうこともある。この人とはどれでもいいのだ、と思ったら、驚くほど心が軽くなった。
 ミロ相手にもそうであったなら、たぶんこんなことにはなっていなかったのだろう。
 それを思うと、胸が疼く。かれこれ15年以上付き合ってきた疼き。カミュには、もはや慣れた痛みだ。
 ミロとユーリの決定的な違いは、ミロには、おそらくそこまでの体の熱はない、ということだろう。
 愛情はある。それも、カミュがその身で抱えきれないほどの広く、大きな愛情だ。
 けれど、ミロは今もストレートで、なにか心の中に深刻な動機を抱え込まなければ、同性の体を抱くことはできない。それはミロの責任ではない。それでも、ミロは、まだカミュに対して、性的興味を抱いているのだ。

 私が、彼のものではないから。
 そしてそれは、一度本当の意味で手に入れたら消えてしまう興味だとわかっているから、余計に恐怖する。
 いっそ、体の熱を知らなかった時代に戻れたら、きっともっとうまくやっていけるのに。

 

「木五はともかく、ちょっとクリスマスに手伝って欲しい話があるんだよね」
 昨夜の残りもののコールスローとスープ、バゲットだけ、という手抜き夕食で気だるい時間を過ごしていると、ユーリがいきなりそんな話をカミュにもちかけてきた。
「これまで、パリでは毎年やってたんだけど、去年スキップしたら今年は絶対来いって催促がうるさくてさ。まあ、僕のお得意様がみんな来るから、顔を売るにはいい機会だと思うよ?」
「手伝う、って………なにか演奏会でもやるんですか?」
「演奏会、っていうか、サロンコンサートだね。お得意様の家で、ゲストの前で演奏する。まあ、他の演奏家連中も来るから、2〜3曲聴かせてやれば十分なんだけど、今年はデュオにしたらどうかと思ってさ。ブラームスのセレナード4手編曲版とか、面白いでしょ?」
「それはとても面白そうですが………あなたのお得意様ってことは、もしかしてホストも客も全員そっちの趣味の方々ですか?」
「君さ、客がゲイかどうかで差別するのはよくないよ!」
 わかってはいたけれど、こうまであっけらかんと言われるということは、たぶんそういう趣向のサロンコンサートだ。
 さすがに純正ゲイとの付き合いも1年となれば、そういう趣味の人が集まって酒を飲むとどういうことになるか、カミュとしても保身のためにある程度の調べはつけてある。
 もちろん男女のパーティでもあることなので、別にゲイだから、という話ではないのは百も承知だけれど。
「じゃあそれ、後半は間違いなく無礼講ですよね? 僕は、乱行パーティには絶対に参加しませんよ?」
 ユーリが体の関係を飯のタネのように考えている面があるのは最初からわかっていたことなので、先に釘を刺すと、案の定、ユーリははあ、とため息をついて、思い切り口を尖らせた。
「君、だんだん可愛くなくなってきたよね! ブラームスなら絶対ノってくると思ったのに!」
「あなた、去年のクリスマスに僕に何をしたか覚えていないんですか? 僕はもうクリスマスといえば浮かれた連中がハメを外しまくることしか考えられないですよ。しかもゲイ友達が集まるサロンコンサートとか。どう考えても、メインイベントはコンサートの後でしょう」
「そうだけどさ! でも、僕だって好きでヤってるわけじゃないんだよ?! あれは営業活動の一環! お得意様に酒の席で言い寄られたら、袖にはできないよ!」
 ああもう、営業活動とか言ってきた。ユーリとしては、自分のお得意様を紹介してくれるつもりだったらしい。
 困ったことに、最近のユーリは完全に好意でそういうことを言ってくるのだ。彼なりに、カミュを今のうちに売り出しておかないと、といろいろ考えているのはわかるし、ユーリがそういう手を使ってでも演奏家として生き抜いてきたことには素直に尊敬してもいい、と、口には絶対に出さないが、カミュは内心そう思っている。
 だがしかし!
「そういう営業活動に頼るのが間違ってるんですよ! あなたには十分な実力があるのに、なんでいまだにそういうコネに縋ってるんですか!」
「ふん! 人気なんてね、明日の天気より気侭だよ。一瞬売れたって、次の年にはどうなるかわからないんだよ? その点、コネは裏切らないからね、こっちが相手の弱みを握ってる限りはさ」
「………それ、コネじゃなくて、脅迫っていいませんか?」
「僕は別にゲイだって言いふらされてもかまわないよ? 困るのは相手だけ。あっちもそれ分かってて仕掛けてくるんだから、向こうの責任でしょ」
「だったら、なおさら僕が同行する理由はないですね。僕はゲイだって言いふらされたら困りますから、弱みを握られにいくようなもんじゃないですか」
「君往生際悪いよね! 僕とこんな関係になってるのに、そろそろゲイだって認めたら?!」
「おことわりします! 僕は別に女性を愛せないわけじゃないし、僕が元彼やあなたと付き合うことになったのは中身に惚れたからで、同性だから、というわけじゃないですから!」
 つい、勢い余って余計なことを口走ってしまった。カミュは思わず息を飲み込んで口をつぐんだが、気がつけば、目の前にもっとびっくりした顔があり、それがそのまま、ほわり、と笑んだ。
「………うわ、君が僕に惚れたって言ってくれたの、もしかして初めてだよね?! 僕、マジですごくドキドキしてるんだけど?!」
 意表をつかれる、というのはこういうのを言うのだろう。
 まるで、初めて告白を受けた少年のような顔でそう言われて、カミュの頭も真っ白になった。
「いや、でも、あなただけじゃありませんから! 僕は、今でも元彼のことが好きですし!!!」

 曲がりなりにも今付き合っている相手に、別に好きな人がいる、とここまでキッパリ宣言してしまうのは、われながら本当に最悪の人間だ、とカミュは思う。
 けれど、どれほど自分に嫌悪感を抱いても、消せない感情はあるわけで………。
 ユーリもミロも、もうこうなってしまっては、カミュが自分の心に嘘をつくことを多分一番嫌がるだろう、ということくらいは、カミュにももうわかっていた。
 彼らの想いは、それだけ真剣だ。だから、下手な同情や妥協は、かえって彼らの心をひどく傷つける。
 そんな、自分がどうしようもない身勝手な人間であることを認めて諦めたのは、11月にそうせざるを得ないような、この上なく苦い自分自身への敗北があったからだった。

 

『車だけでいいって言った』
『この車には、運転手の俺はオプションで付いてきます。取り外しは出来ません』

 朝夕が肌寒く感じられるようになった11月の中旬、カミュは久々にミロに連絡をとった。
 もとはブラックベリという名前だったのにミロが勝手に「ルーファス」と名付けたウサギが、1週間以上もまともに自分で食事をとれなかったからだ。
 最初は歯の伸びすぎを疑って、一度歯を削った。歯の問題なら歯を削ればじきに回復するはずが、まったく回復の兆しを見せない上に、どうやら悪くなっているように見えるのと、少しずつ目が飛び出してきているように見えるのが気になったので、再度通院となった。

 初診時には、ウサギをキャリーケージに入れてバスで病院に向かった。しかし、その後の1週間でルーファスは体力も落ちていて、長時間徒歩で揺られるのはリスクが高い。レンタカーも、近場の営業所は車は出払っていてすぐに借りられる空車がなかった。
 それで仕方なく、ミロに電話して車を借りたいと頼んだのだ。
 ところが、ミロの事務所(兼アパート)に出向いて車のキーを受け取ろうとしたら、ミロが路地に予め停めてあったスマート・フォー・ツーの運転席に陣取ってがんとして譲らず、さきの問答に至る。

 ラテン語をきっちり教え込まれたパブリックスクール時代の遺産のおかげで、カミュが日常会話をイタリア語でこなせるようになるまでにそれほど時間はかからなかった。
 しかし、医学用語となれば話は異なる。立て板に水に喋られると、カミュには半分も理解できないのは、2年前の暴行事件ですでに証明済みだった。目が飛び出てくるなどというのは、腫瘍などの難しい病気の可能性もあるから、ミロが多少強引でも同席したのにはそれなりに理由がある。
 ただ、カミュには、そのミロのがんとした態度に潜む意図も見えていた。もちろん、ミロがその空気を隠そうともしなかったためだが、要するに、「ユーリにばかり頼って自分には何もさせないのはどういうことか」と言いたいのだ。
 ピアノのことならば、ミロには何もカミュに与えられるものがない。
 しかし、それ以外のことで困ったことがあるならば、付き合いの長い自分にまず相談するのが筋だろう、と怒ってもいるだろうし、疎遠になってしまった関係をもう一度繋ぎたい、という願望も、その頑なな視線に見え隠れしていた。
 ミロには感謝しているし、もちろん傷つけたいわけではない。
 けれど、ここで楽しく会話が弾んでしまえば、ミロは多少なりとも希望を抱いてしまうだろう。
 なにひとつ未来について保証ができない以上、下手に希望をつなぐようなことは躊躇われ、カミュの口は閉ざされがちになる。
 そしてそのことに傷ついたように視線を伏せるミロの横顔を盗み見ては、小さく溜息を漏らすのだった。

 なんとか平静を装いつつ、具合悪そうに縮こまっているウサギの検査を終えてみれば、幸い腫瘍ではないが、長期の抗生物質の投薬が必要とのことだった。
 栄養の乏しい草を主食とするウサギは、盲腸内の細菌に必須アミノ酸やビタミンを生成させることで必要な栄養素を補っている。細菌を殺す抗生物質の経口投与は、薬の種類によっては即死を招きかねない。そこで、ペニシリンの注射を行うことになった。

「半年間、2日に一度注射になりますが……お家でできますか? 難しければ、通院していただくことになりますが」

 なんの医学スキルもないただの飼い主が注射なんてして良いものか、とカミュは驚いたが、そんな長い間通院するのはストレスが大きすぎるので、もちろん自宅投与を選択した。
 ところが、薬の準備にかなり時間がかかってしまい、ようやくペニシリンを満たした注射器が手元に来たときにはすでに病院の営業時間を過ぎていた。注射のやり方は教わったものの、最初の一回がいきなり一人で本番というのは流石に怖い、と訴えようとしたところ、ミロが「動物の注射なら慣れているから」というので、結局そのまま薬だけをもらって帰宅することになった。
 疲れてすっかりふてくされたルーファスの入ったケージを膝の上に抱えて、来た時と同じようにSmartの助手席に乗り込む。
 ユーリは今日は別の学生の指導で夜まで帰宅しないから、鉢合わせる心配はない。ただ、部屋の中に二人の関係を匂わせるようなものを放置していないか、それだけが気がかりだった。
 カミュとユーリが現在どういう関係か、ミロはすでに知っているが、それをまざまざと見せつけられるのは気分が悪いだろう、とカミュは思ったのだ。

「ウサギが足を踏み入れたことの無い部屋とか、このダイニングテーブルの上でもいい。動物は知らない場所では暴れないから。大きいタオルある?」

 リビングに入り、くるりと部屋を見渡したミロは、表情も変えずにそう言った。
 普通、他人の家に入れば、つい部屋の内装などを見渡してしまうものだ。照明デザイナーとして働いていたカミュは特に、無意識にもそちらに目がいってしまう。しかし、ミロは、頑なにテーブル以外の場所を見ようとしなかった。
 見たくない、と、全身で訴える背中に、カミュはかける声を失った。
 当然だ。自分だって、ミロの立場だったら見たくはない。
 それでもこうして関わることを選んだのは、彼がきっかけとなって飼い始めたウサギたちに対する、ミロなりの責任のとり方なのだろう。
 昔とまったく変わらないな、と、ちりちりと張り詰めた空気を纏うミロの背中を見ながら、カミュはつきりと疼いた胸の痛みをやり過ごした。
 カミュがミロの立場であれば、このような場合にはもう少し上手く本心を隠す。逆に言えば、それができないときには、関わらない。
 しかしミロには、そもそもそのような小細工ができないのだ。それなのに突っ走って、周囲との関係がこじれたことも一度や二度ではない。それでも、自分が背負うと決めた責任は最後まで背負おうとする。
 なによりも一番に周囲との軋轢を避けることを考えるカミュとは、それでパブリックスクール時代によく衝突した。
 けれど、ミロの稚拙な態度に苛つきながらも、本当は憧れてもいたのだ、と、カミュは思う。自分は、本当に大切なものより、その場の空気を乱さないことを優先する。けれど、ミロは、カミュのやり方では解決できない問題を、何度も彼のやり方で突破していた。
 そのフォローは決して楽ではなかったけれど、その一番大事なもの以外は全て切り捨てられる潔さに、カミュはたしかに憧れていたのだ。

 結局、ダイニングテーブル以外の場所では広さが確保できず、キャリーケージから出されたルーファスは、タオルを広げたダイニングテーブルの上に置かれることになった。
 ミロが病院から渡されたペニシリンをあらかじめフィルしてある注射器を取り出し、針をセットして、無言でカミュに手渡した。最初の一回はミロがやって見せてくれるものと思い込んでいたカミュは、一瞬戸惑ってからその注射器を手にとった。

「ウサギをタオルで包んで……首の後ろ、うん、その辺を掴んで引っ張る。この三角形の底辺のちょっと上あたりに針を入れる。あ、待って。針で刺す前に刺そうと思ってる辺りを指で、こう、トントン、と叩いて……。そうすると針を刺した時あんまりびっくりしないから。針を刺すときおっかなびっくりじゃなく素早く。うん。上手に刺さってる。で、薬を入れるときはゆっくりと……」

 言われるとおり針を押し込むと、ブツッと針が皮膚を突き抜ける嫌な感触がカミュの手に伝わった。自分が注射を受けるときはもっとすんなり入る感じがするので、今のはかなり痛かっただろう、とカミュは思う。
 それでも、これであとは薬を入れるだけだ、と思って親指に力を込めたら、ピストンがまったく動かなかった。

「これ、針が詰まってるんじゃないか? 全然、動かない」

 すでに針は刺さっていて、もう一度刺し直すことは絶対に避けたい。カミュは軽くパニックに陥った。
 この針、絶対イタリア製だ。だから不良品なんだ! これだからイタリア人は…!
 ミロは、そのカミュの動揺を横からじっと眺めていたが、不意に左手を伸ばすと、カミュが注射器を握る右手の上に重ねた。
 ───冷たい。
 ミロの手のひらはびっくりするほど冷たく、その感触がカミュの怒りを急速に冷やした。普段、ミロの手はカミュの手よりも温度が高い。ミロの手が冷たくなるのは、緊張しているときか、怒っているときか、そのどちらかだ。
 ミロは黙り込んだまま、カミュの親指の上に自分の親指を添えて、強く押した。それでもピストンは動かない。ようやくミロが口を開き、その優しく宥めるような声音に、カミュは一瞬焦りを忘れた。

「薬自体が粘ってるみたいだし、痛くないようにかなり細い針にしてあるって言ってたし。もっと押して平気だよ、ゆっくりとだけど」

 それから、ミロの両手がカミュの右手を握り込み、少しずつピストンを押した。針のささった部分がゆっくり膨らんで、きちんと皮下に薬が入っているのが確認できる。ほっと息をついた。
 ミロの掌が、かすかに汗ばんでいるのを感じる。オクターヴどころか、十三度の二重奏(ダブルストップ)も余裕でこなす大きな手のひらと長い指が、すっぽりとカミュの右手を包み込んでいた。カミュの視線はその手のかたちに釘付けになった。酷使される関節が発達してごつごつした指は、世間の基準では無骨と評されるのかもしれない。しかし演奏家にとっては、こんな手があれば、と羨まずにはいられない、大きく美しい手だ。
 ミロが両手に込めた力は、かなりのものだった。親指の力だけ押し込むのは不可能だ。次からは、ピストンは手のひらで握りこむようにして押すか、あるいはユーリに保定だけしてもらって両手でやった方がいいだろう。
 ルーファスは、針を抜かれてもじっと固まっていたが、ケージの中に返すと、酷いことをされた、といわんばかりに大きなスタンピングの音を残して奥に隠れてしまった。
 今日の分が済んだ。次は明後日までやらなくても良い、と思った途端に、カミュの唇からほっと溜息が漏れた。

「手、随分しっかりした感じになったね」

 横に並んだミロの、さきほどと変わらない声色の言葉がカミュの鼓膜を打ち、カミュは我に返った。
 ミロは、なぜこんなに優しい声を出すのだろう? あの手の温度では、とてもそんな穏やかな心境ではないはずなのに。

「まあ、それなりに使ってるから………」

 ユーリのシゴキのおかげで、カミュの指は以前よりは多少関節が太くなっている。しかし、完全に大人の体になってから本格的な修行を始めたカミュの手は、子供の頃から激しい酷使に耐えてきた同世代のピアニストの手に比べればかなり華奢だ。ミロはもちろんそれも知っていて、それでも、この1年の努力を認めてくれているのだろう。
 慰めてくれているのだろうか。そういえば、ミロは昔から、弱っている人間にはかぎりなく優しかった、と思い返す。
 彼の声が優しいのは、今、自分がウサギの病気の心配で手一杯に見えるからだ。だから、ミロも精一杯虚勢を張って、優しい声をかけている。
 そう思うと、自分が今ミロにどれだけの精神的負担を強いているかが伺い知れて、カミュは今更ながらに自分の選択の過ちを思い知らされた。
 やはり、ミロに頼らずタクシーを使うべきだったのだ。
 それでも、感謝していることはきちんと伝えるべきだと、カミュはようやく顔を上げて、ミロの眼差しを正面から受け止めた。
「色々、付き合ってくれて有り難う。………やっぱりまだ、医療用語は分からないことが多くて………正直、助かった」
「俺、通おうか? 薬、やるときの補助とか……保定が必要だろう?」
「いや、それはいい。………力の加減も分かったし、あの子は大人しいから、次からは一人で出来るよ」
「でも、ウサギに関しては、ほんとに変な遠慮しないで俺に連絡して。もともとカミュにウサギを飼わないかって勧めたの俺だし」
「お前が名前つけ変えたウサギだしな」

 これ以上、ミロに負担はかけられない。自分にはそんな資格もない。
 用は済んだ、と理解してもらえるように、自分から玄関の方に歩みながら、カミュはわざとおどけた口調で笑顔を見せた。どうせミロには、作り笑いだと分かってしまうだろうけれども。

「………大丈夫だよ。心配しなくても、お前に知らせないまま死なせるようなことはしないから」

 その瞬間、ミロの中の何かが弾けた。

「だから、そうやって一人で全部やろうとしないでくれ、って言ってるのに………!」

 ぐい、と強く手を引かれて、カミュは思わず目を見張った。ミロはそのカミュの手を、キスするように口元へ持っていき、その見慣れた仕草に、カミュは息を止めた。
 パブリックスクール時代。付き合っていることを公にできない環境の中で、ミロはよくそうやってカミュの手にキスをした。周囲に誰もいないときだけ、ひそかに何度も交された約束。
 カミュが好きだ、一生大事にする、と、まだ幼かったミロの恋がさせた誓いの仕草。
 ………その一方で、そんな夢が叶うはずはないと、ただの一度もカミュが信じることのできなかった約束。

 やめろ、と声をかけることもできず、木偶の坊のように突っ立っていたところに、ミロの唇が、指ではなく唇に触れたのを感じた。

 何を思ったのか、何を感じたのか、全てがぐちゃぐちゃに混じり合って、カミュ自身にもわからなかった。
 ただ、胸が疼き、その痛みに耐えかねて唇を薄く開いた瞬間に、ミロの舌が割り込んできた。
 ミロと交わしたキスの数はもはや数えきれない。それでも、こんなキスは初めてだった。
 切なくて、苦しくて、行かないでくれ、と縋るような。
 他人のものになったと知ったら、こんな奪い方も出来るのか。
 絆されるな、といくら心の中で戒めても、容赦なく領域を侵してくるミロのキスは誰よりも甘くて、1mmでももっと近くに近づきたくて、気づけばカミュは自らミロの舌を誘いながら、その背中を深く抱きしめていた。

 離れなければ──頭の中で焦り、それでも体は言うことをきかず、息がつまる。
 ミロの唇は顔から首筋に逸れ、その唇が触れた場所が火傷をしたかのように熱く疼き、カミュは目眩を感じて固く目を閉じた。
 首筋にキスをするのは、ミロが明確に、体の関係を求めているときだけだ。それは、じゃれ合いとその先の性的な情動の境界が曖昧なミロと、体の関係に移行するまでに多少心の準備が必要なカミュとが折り合いをつけるために、いつの間にか二人の間で交わされた密約だった。
 つまり、ミロは、カミュを抱こうとしている。───今、ここで。
 他人の家の玄関で、家主がいつ戻ってくるかもわからないような環境で、これほど思い切った行動に出るミロをカミュは知らない。
 きり、とカミュの奥歯が鳴り、張り詰めた吐息が食い縛った歯の隙間から漏れた。
 こめかみに力を入れていなければ、きっと、欲望を口にしてしまう。
 首から肩から、ミロの背中に回した腕まで、全身に力を込めて溢れそうな言葉を押しとどめる。
 シャツの裾をたくし上げてミロの手が背中に直に触れたとき、ようやく金縛りが解けた。

 だめだよ。
 そんな資格、今の私にはない。
 
 やっとの思いで静止した自分の声がかすれていて、カミュはそのことにまた苛ついた。
 最悪だ。これじゃ、誘っているようにしか聞こえない。

「資格って、何? カミュが俺と連絡取りたがらなかったり、頼みごとをしてくれなかったり………そういう事をするのにどんな資格がいるんだよ?」
「………そうじゃない。今の私は………お前の本気に応えられない」
「だから、待ってるって言った。カミュに必要とされたいんだ。避けるなよ。無視するなよ。いつでも、カミュが必要としてくれたらなんでもしたいんだ………!」
 青い瞳に力を込めて泣くのを我慢しているような表情で、ミロはそう叫んだ。後ろめたさで視線をそらすことも許さない、強い瞳。
 カミュは、自分の中に必死で築いてきた壁が崩れていくのを感じた。
 自分は、この瞳に弱いのだ。
 カミュの行動を縛ることのできる眼力を持ち合わせている人間など、家族や友人・知人を全部あわせても、ミロくらいしかいない。

 そうだよ。お前だって、そう思うんだろう?
 私だって、ずっとそう思いながら、お前を待っていたんだよ。

 何か力になりたいのに、そうさせてもらえずに蚊帳の外に置かれてしまう、その辛さは、誰よりも、カミュが一番よく知っている。
 ずっと、ミロもそのことを思い知ればいい、と思い続けていた。
 けれど、今折れることができないのは、そのためではなかった。

 こんなにも渇望する相手なのに、今カミュにとって必要なものを与えてくれるのはミロではないから。
 そして、カミュもまた、今はまだ、ミロにとって本当に必要なものは何一つ与えられないからだ。

 去年の夏、カミュがユーリに指導を受け始める前。
 決して言うつもりはなかった本音を、前夜に飲みすぎたアルコールのせいで軽くなった口が口走った。
 きっと夢だった、と思い込もうとしてきたけれど、本当は、自分の口が決して言ってはならないことを呟いたことを、カミュは知っていた。

 だから、ミロは待っているのだ。カミュがユーリのものになって1年近くが過ぎ、そのことをミロも知っているのに。
 
 あの言葉は取り消さなければならない。もう、ミロを自分の妄執から解放しなくては。
 わかっているのに、どうしても声が出なかった。
 どんな言葉なら口にできるか、別の言葉を探しても、どれも喉に張り付いたように音にならない。
 それよりも、別の思いが急激に膨れ上がって、それはもう、理性のすべてを総動員しても止められない濁流になった。

「……それなら………ひとつだけ………」

 自分の感情、自分の体なのに、コントロールがきかない。
 やめろ、言うな、と心が叫ぶ。けれど、そこまで追い込まれた時点で、それはもう白旗を揚げたも同じだった。

「………あと一年………一年だけ、他の誰にも心を移さないで、待っていて………」

 溢れてしまった言葉と、自分自身のあまりの不甲斐なさに、カミュは心の中で何度も「お前なんか死んでしまえ」と罵った。
 ああ、本当に、最悪だ!!!

 ミロは、ため息をついて、五年でも、十年でも待つ、と言った。そのかわり、遠慮したり、避けるのはやめてくれ、と。
 初めから分かっていたミロの真摯な願いに、カミュは、ひとりで乗り切ると決めたのだから、と、曖昧な答えで逃げることしかできなかった。

 

 自分のことは忘れてくれ、と言わなければ、と心の中で繰り返すほど、カミュの内部で強く反発する感情がある。
 ミロが自分を諦めるなんて、絶対に許せない、と。
 本当に、欲しくて、欲しくて、どんな手を使っても手にいれたいから、これまで散々無茶もミロに対して酷いこともしてきた。
 今更、もうひとつ非道なことが加わったからといって、なんだというんだろう?

 けれど、その一方で、冷めた声が頭蓋に響く。
 きっと、もう一つ、では済まない。
 自分はかつて、年端もゆかぬ十代のミロを罪悪感の崖から突き落とした。一度そうして己を律しきれずに、悪魔の道に足を踏み入れた者が、大切な存在を幸せにできるはずがない。
 本当に欲しいものを手にいれるためだったら、モラルが崩壊していようが他人を傷つけようが、どんなことでも、何度だって、実行してしまう。
 「好きにすればいいじゃん」と、ユーリの声が耳の奥で蘇った。
 それでも良いと言う相手から選べばいい、と。
 でも、そういう問題じゃない。そこまで最低な人間には、本当はなりたくなかった。

 それから一週間、ユーリが「お腹でも壊したの?」と心配するくらい、カミュは自己嫌悪に落ち込んだ。
 その結果ピアノの方もガタガタになり、結局、いつまでも卑下し続けるほどの価値も今の自分にはないと結論して、今に至る。

 

 カミュが心の奥底に抱え込んだ葛藤には関係なく月日は過ぎてゆき、カミュは、ユーリが誘ってきたデュオについて、とにかく演奏の部分にだけ参加、という約束で引き受けることにした。
 さすがに短期間でデュオと木管五重奏をこなすのは難しいので、マリオに参加できない、と謝ったところ、「カミュなら絶対に引き受けてくれるって仲間に言っちゃったよ!」と泣きそうな顔で恨み節を聞かされることになった。
 はやく、そんな依頼も返事二つで引き受けられるようなピアニストになりたいとは思うけれど、今はまだそんな余裕はない。

 クリスマスの一週間前に、ミロが11月に約束したクリスマス・プレゼントが届いた。
 カードとともに届けられたミロのファースト・CDには、苦心して作ったらしいミロのサインと献辞入りのブックレットがついていた。

『ようやくCDを出せたので、忙しいとは思うけど、ぜひ時間ができたら聴いてみてほしい』

 そんなカードに添えられた言葉を見て、カミュは苦笑した。
 たとえ恋人ではなくなっても、自分が一番の、最初のミロのファンであることについては、一生誰にも譲る気はないのだ。
 CDの中身はミロが苦手だというクライスラーやタイスといった甘い曲調の小曲のオンパレードで、もちろん上手い演奏だし、以前よりは「照れてます」というのが見えないようにうまくコーティングしてはあるけれど、どんな顔をして弾いたのか想像できてしまって、つい笑みを誘われるような出来だった。
 なにより、カバー写真がヴァイオリンにキスしている姿なのが若い女性にウケまくって、発売後しばらくは店頭で売り切れが続出したCDだ。当然、売り出し前の宣伝ポスターを見た瞬間にそうなることも予想していたから、事前に予約して発売当日に入手したし、中身も全部聴いてすでに知っている。
 それなのに、こんなメッセージを送ってくるなんて、相変わらずこちらのことがわかっていないな、と思う。

 けれど、もう1枚、何も書かれていないCD-Rの方は、何が入っているのか見当もつかなかった。
 Macの光学ドライブに差し込んでみると、.aiffの音声ファイルが一つだけ入っていたので、これはオーディオCDだと判断してコンポにかけた。
 そして、しばらくの無音の時間のあと、いきなり堰を切って溢れてきたフォルテのクオドール・ストップに、カミュの心臓は一瞬で凍りついた。

 バッハのヴァイオリンのための無伴奏パルティータ第2番、終曲「シャコンヌ」。

 ミロとカミュのどちらもにとって、この曲ほど特別な思い入れのある曲はほかにはない。
 カミュが聞いたミロのシャコンヌは、17歳のときの転科試験が最後だったし、ミロがカミュのシャコンヌを聴いたのもあれが最後だった。
 お互いの人生を変えた一曲───そして、カミュは、長い間そのことを直視することができずに、あの日以来シャコンヌは一度も弾いていなかったからだ。

 ミロは無伴奏が得意だ。
 バッハはもちろん、パガニーニでも、イザイでも、天から降ってくるような、ただただひたすらに美しい音を紡ぐ。
 けれど、このシャコンヌは、過去にミロが奏でた音楽とは全く違っていた。
 音は非の打ち所がなく美しい。けれど、この音楽は、喉も涸れんばかりに叫んでいる。
 11月に会ったとき、彼が無表情の下に隠して見せなかったものを。

 

 サビシイ、孤独ダ────

 

 その生々しさに、カミュは、一瞬吐き気を感じた。
 全身から血の気がひいていく。激しい目眩に翻弄されながら、この歪な美しさを放つ音楽に、四肢を絡め取られて動けない。
 バッハの無伴奏は、俗世から離れて至高の音楽であるべきだ。
 そこに人の感情が混入することが許されるとしたら、それは音楽に拝跪して感謝を抱く人の思いだけだろう。
 現実に、無伴奏の名演と言われる演奏は全てそうであるし、カミュは決して感情過多なバッハは好まなかった。

 それなのに、このバッハはなんて美しいんだろう………!

 いっそ、ミロのヴァイオリンで、カミュの裏切りに対して恨みをぶつけるつもりで弾いてみたら、カミュはひとたまりもなく陥落してミロの言いなりになるに違いない。ミロのヴァイオリンにはそれだけの力がある。他の人には効かないかもしれないが、実際、相手がカミュであれば、他のどんな策より有効なのだ。
 それでも、ミロには、ヴァイオリンをそのように使おうという発想そのものがないのだった。それどころか、普段はあれほど饒舌なミロは、ひとたびヴァイオリンを手にすると、極限まで彼の心の声を隠そうとするのが常だった。
 その閉ざされた扉の、網目のような隙間から、感情未満のミロの叫びが溢れる。
 そして、かたちのない、その空気にみちる色が、カミュを息もつけぬほどに縛り上げ、虜にする。

 おそらく、ミロには、自覚がないのだ………。
 カミュは、呆然と、コンポの前に膝をついた。
 私だったら、こんな音楽を他人に聴かせることは躊躇する。ミロも、彼の音に透けているものに一度でも気付いてしまったら、おそらく二度とこんな演奏はしまい。
 自覚がないから、こんな赤裸々な音楽がやれるのだ。
 私が、そこまで彼を追い込んだ。

 

 ──寂しさに耐えられない、だれかこの声を聴いて………!

 

 こんなに美しい音で、孤独を叫ぶ歌を、私はきいたことがない………。

 背筋に凍りつくような戦慄を感じながら、カミュの脈拍は上がっていった。
 自分がミロに、こんな演奏をさせた。
 自分が彼のそばにいなかったから、ミロは今まで蕾のままだった彼のもうひとつの才能を開花させた。
 このまま──私が彼のもとに戻らなければ。
 この花は、これから先も、咲き続けるかもしれない。

 それは、たぶん、悪魔の囁きだったのだろう。
 たとえミロを苦しめてでも、その先の未来を見たい、と。
 そして、カミュは、またしても悪魔の誘惑に堕ちるはずだった。もしもそのあとの、中間部を聞かなければ。

 バッハの無伴奏パルティータ第2番、終曲「シャコンヌ」はニ短調で始まり、曲のちょうど中間でニ長調に転調し、高らかに主題を展開したあとに、ふたたびニ短調で幕を閉じる。
 転科試験のとき、ミロとカミュのシャコンヌはまったく異なっていたが、そのなかで一番違っていたのが、このニ長調の部分だった。
 ミロのバッハはただひたすら天真爛漫に暖かく、ヴァイオリンを自由に操れる喜びに輝いていた。
 カミュは、この部分に、あの日を限りに切り捨てようとしていた音楽への憧れの全てを詰め込んだ。
 『そこは、そういう音じゃないんだよ』と、ミロをけしかけたかったのかもしれない。
 ……そして今、スピーカーから聞こえてくるのは、かつて、カミュが目指した音楽だった。

 

 ──あの時のことを思い出して。
 世界には、まだ美しい音楽が沢山あって、頂上を目指しつづける限り、その道ははてしなく続く。
 それは、辛いことではなくて、本当は素晴らしくて、とても幸せなこと。
 だから、また、一緒に、やろう。

 

 美しい誘いの音楽。けれど、その向こうには、一人でその道を歩む者の孤独と切望が揺れていた。

 最後は一人で向き合わなければならない道だと、ミロも当然わかっている。
 それでも、やはり、一緒に歩む相手が欲しいのだと……カミュには、ミロがそう言っているように聞こえた。
 自意識過剰なのは重々承知している。あのミロが、そんな具体的なことを考えて音楽をやるわけがない。
 それでも、一度聞こえてしまったそんな想像の中のミロの声は、この美しい音楽を以てしても消え去ることがなく、カミュの内部に咲き続けた。

 

 はっきりいって、自分はミロには釣り合わない。
 ピアノはユーリやジョシュアの方が弾けるし、伴奏だってもっと上手い人間はいくらでもいる。
 それでも、これからも、ミロが他のピアニストと舞台に立ったら、きっと猛烈に嫉妬する………。
 
 スピーカーの前で膝をついていたカミュは、もはや体を起こしていることもできずに、木の床に蹲って泣いた。

 

 

 12月25日、この録音がYouTubeで公開されると同時に、全世界からの閲覧数が爆発的に伸びた。
 これまで、一部の根強いファンはいたものの、いまひとつ音楽が地味な印象を持たれていたミロのヴァイオリンが、ようやく広く世界に受け入れられた瞬間だった。

 自分がいない方が、ミロの音楽にとってプラスになるのかもしれない……。
 ミロと出会ってから初めて、カミュは、その事実を、ごく自然に受け入れていた。
 きっと、自分は満たされてしまったんだろう、と、カミュは思う。
 ミロがシャコンヌに託し、音で伝えてきてくれたその心に。

 ずっと、ミロの役に立てない自分が彼のそばにいることが、耐えられなかった。
 そばにいるのなら、彼の音楽の糧となれる特別な存在でありたいと、ほとんど絶望的な夢に縋って足掻いてきた。
 けれど、所詮、もとからいない方がよいくらいの人間なのなら。

 べつに彼の役に立たないからといって、それほど自分を卑下せずに彼のそばにいることができるかもしれない。
 ──ミロが、そうあって欲しい、と望むのなら。

 

 だから、私は、私が一番幸せになれる道を探そう。
 だれかのため、とか、こうあるべき、とか、そういうものに振り回されるのではなく。
 自分にとって一番大切なものを、今度こそ間違えずに、選べるように。

 ようやく、素直にそう思えた自分が、カミュには嬉しかった。