バレンタイン・デー

家の玄関を潜ると……そこは、雪国だった……。
青ざめた表情の、青息吐息の熊が一匹、リビングのソファーの上で砕けている。
家の窓という窓は全て全開で、冷たい空気が塊のままリビングを蹂躙し、テーブルに置いておいた書類は吹き飛ばされて床に散らばっている。
テレビは付けっ放しで、姦しいアナウンスが何かを興奮したように伝えている。
『……なんと……棄権! 棄権です! 帝王プルシェンコが、棄権を表明した模様!』
途端に雄叫びが上がり、熊はそのまま顔を覆ってソファーの上で丸くなってしまった……。


二言目には、「僕田舎は嫌いなんだよね!」と、モスクワから脱出してきた経過を自慢げに語るユーリだが、その実、ロシアに対する愛はとてつもなく深い。
彼にとって、経済も技術も弱体化してゆく一方のロシアで、最後まで頑張り続けていたフィギュアスケートの帝王・プルシェンコは、祖国の数少ない誇りだったに違いない。
プルシェンコが、これまで数々の故障を繰り返しながら、フィギュアの選手としては高齢の域に入っても活動を続けてきたことには、私も常々感銘を受けていた。勿論あちらは十代の頃から燦然たる実績を築いてきた帝王で、我が身と比べることなど到底出来はしないのだけれど……年齢の枷は、誰にも等しく積み重なるものだ。自分と年齢が同じ、というだけでも、無条件で頑張って欲しい、と思ってしまうのは止められない。
だからこそ、彼が最後のオリンピックを棄権せざるを得なかったのは、本当に残念だった。もう一度あの演技を見せて欲しい、と世界中のファンが楽しみにしていただろう。
なので、気持ちは分かる。分かる、のだが……。
頼むから、落ち込む度に、家の中の気温を下げて環境をロシアにするのは止めて欲しい……(切実)
「もう僕、明日からオリンピック見ないからね!! この家ではオリンピックチャンネル禁止!!」
やおらソファから起き上がり、目を真っ赤にしたユーリに凄まれた。
……いや、そんな念押されなくても、こちらはテレビなんか見ている暇はないので、見ていたのは主に貴方なんですが?
と、本当のことを口にして、更に機嫌を損ねられると面倒なので、適当に解りました、と返事して台所に向かう。
一応、バレンタインだし、と思って花束を買ってきたが、これはとてもそんな雰囲気ではない、と察して、花束は即刻洗面所行きとなった。
夕食は、適当にパスタあたりで済ませてやろうと思っていたが、機嫌が悪いときはロシア料理の方が無難なので、急遽ボルシチに変更する。
午後7時、ユーリは口から魂を吐いたまま、ボルシチを皿半分ほど食べてピアノ部屋に籠ってしまった。
食後は私がピアノを使う時間になっているはずだが……言っても無駄か(溜息)。
午後8時、Fedexで深紅の薔薇の花束が届いた。差出人名はない。が……
カードに書かれた文字と筆跡を見れば、誰が送り主かは簡単に想像がつく。
イギリスからわざわざこんな贈り物を届ける人物に心当たりはないし、イタリア国内からの贈り物なら、英語でこんなカードを送ってくる人物などそれこそ一人しかいない。
同じ言葉でシールされた花束とカードを、かつてバレンタインの日にミロに送ったことがあるからだ。
……あの時は、SWALKの意味さえ知らなくて、当然花も送ってくれなかったくせに……
どうしてあいつは、別れてからこういうことをするかな(苦笑)。
天然で釣った魚には餌をやらないあの性格は、なんとかした方がいいと思う。
それでも、逃げた魚にまだ未練を持ってくれていること、そして、それをこうして事あるごとに伝えてくれることが、申し訳なく思いつつも、嬉しい。
午後9時、ピアノ部屋からひたすらラフマニノフのソナタ2番が流れ続けている。吹き荒れる心の嵐がそのまま音になったような演奏で、多少乱雑だが、それでも殆どミスタッチはしないし、ちゃんと音楽になっているのが凄い。
……今日は、もう練習はさせてもらえないのだろうか。
明日レッスンなんだが……明日の不機嫌を思うと、今から先が思い遣られる……。
仕方がないので、シャワーを浴びにいく。
午後10時、ようやくピアノの音が止む。
少しは気が晴れたか、と思いきや、扉の外で顔を合わせるなり、じろりと睨まれた。
「君さ、恋人が落ち込んでるってのに、冷たいよね。もう少し優しくしてくれてもいいじゃん!」
いや、そんなこと言われても、全身からブリザード発してナマモノの接近を遠ざけていたのは貴方なんですが?! ウサギでさえ貴方の事避けてましたし!!
「……落ち込んだ時には、ピアノを弾くのかな、と思って、本日の練習時間はお譲りしたんですが……」
「そういうのは優しさって言わないでしょ! もっと、甘い言葉とか、贈り物とかさ!」
そう言われても、ぐずる熊の頭を抱えてヨシヨシもないだろう、と咄嗟に思ってしまったのだから、仕方がない。まあ、確かに、本当の恋人なら何か一言声をかけるところだったのだろうから、少々失敗したのは確かなのだろう。
ちょっとまずったな、と気を反らせた瞬間、ユーリの目が、テーブルの花瓶に生けられた薔薇の花束の上で止まった。
しまった、と思ったが、もう遅い。
「それ、バレンタインの花束だよね?! 僕へのプレゼント?! 誰だろう?!」
急に生き生きと輝き始めた瞳に、思わず言葉に詰まった。
「……いや……多分、違う、と思います」
「なんでさ?!」
「カード、英語で書かれてますし……」
「そんなの、僕のファンからの手紙に決まってるじゃん! 君なんかまだ半人前だし、誰が贈るっていうのさ!」
「ファンは普通、”SWALK”でシールしてあるカードなんか送りませんよ」
「いいから、カード見せてよ! 早く!」
いうが早いか、ユーリはさっとテーブルの上のカードを取り上げて中身を読み上げた。
If I could tell you
How much I really care
Yet it hurts its true
My eyes can clearly see
While yours are blind
You’ll always mean the world to me
「なんだかすごい情熱的だね! 香水の匂いとかしないし、男の子だといいなー! ところで、SWALKって何?」
「Sealed with a loving kiss、の略ですが」
「へー、そうなんだ! 決めた、これ、僕あてね!」
いや、それは、普通、決めるものではないのでは?? ……送り主は、男ですけどね。
というか、この文面を見ても、まだファンからの手紙だと信じているのだろうか?
いや、もしかして、ファンというのは、ピアノではなくて、そっちの趣味のファンだと思っているとか……??
「ところで、君は何もくれないの? どこかのファンがこんな情熱的な手紙くれたのに」
それはいくらなんでもナイ、ミロはそういう趣味からは多分もっとも遠い人間の一人だ、と自問自答していたら、意地悪く眇めた横目と共に言葉の針がちくちくとこちらを刺した。
まったく、そこまで疑い丸出しの顔しなくても良いだろうに。
「……一応、花束買ってありますよ。洗面所のバケツに入ってます」
「洗面所って……君、それ、トイレじゃん! 酷くない?!」
「だって、渡そうとしたら、貴方この世の終わりみたいな顔をして踞っていたじゃないですか! だから、とてもそんな気分じゃないのだろう、と思って……!」
思わずかっとなって言い募ったら、ひょい、と顎をつままれてユーリの近くに引き寄せられた。
「でも、買って来てくれたんだ、花束」
甘さを含んだ低い声と共に、ちろり、と唇を舐められて、思わず息を飲んだ。
「僕、君のそういうところ、結構好きだよ。若い子はそういう気配りしてくれないからさ。流石に亀の甲より年の功、だよね」
「……そんなこと言っても、やっぱり若い子の方が良い、とか思っているんでしょう?」
「何、拗ねてるの? でも、僕の今の恋人は君なんだから、いいじゃん」
気がつけば、ユーリの右手が背中に回り、部屋着の下に潜り込んでいた。そのまま深いキスで唇を塞がれて、意識がふっと遠のく。ユーリがよく使う手だ。キスをするときに、少しだけ頸動脈を圧迫すると、脳にゆく酸素が減り、意識が朦朧として余計に感じる。
こちらの力が抜けてきたのを察して、ユーリの唇の端がにんまりと上がった。
「じゃ、ちょっと早いけど、ベッド行こうか。僕、傷ついてるんだから、今日はよろしくね!」
傷ついている人間が、そんな語尾に♪印がついているような台詞を吐くものだろうか?
しかし、その言葉通り、その晩は散々無体なことをされ、奉仕を要求されて、挙げ句にその後は明け方近くまで、いかにプルシェンコが偉大な選手であったかを延々と聞かされたのだった……。
翌日。
ユーリは、起きてこなかった。
どうやら、落ち込みは本物らしい。
こちらは夜明け前まで続いたフィギュアスケート講釈のお陰で勿論寝不足だが、ユーリがその程度の寝不足ではびくともしないことは折り紙付きだからだ。
「ユーリ、朝ですよ? 今日は授業もレッスンもある日ですが……」
「僕、今日は休むから!」
ブランケットに包まってふてくされている大人げない後ろ姿は、本気で今日の授業をサボタージュする空気を発していた。
まったく、本当に、こんな子供っぽい人が何故あんなピアノを弾けるのだろうか。
「困ります。こっちは授業料払ってるんですから、ちゃんと仕事して下さい」
無理矢理ブランケットを剥ぎ取ると、またウサギのように赤くした目がこちらを睨みつけてきた。
「僕は落ち込んでるんだよ! だのに、君、ホントに優しくないよね!」
「昨日散々貴方の我侭をきいてあげたのに、何が優しくないんですか。お陰でこちらは朝から腰痛の上に寝不足ですよ!」
「あのくらいで腰痛になるなんて、君、年寄りだよ!」
「僕はイカでもタコでもありませんから!! あんな無茶苦茶な体位で押し込まれたら、そりゃ脊椎だって悲鳴を上げますよ!」
ユーリは最近緊縛系に凝っていて、とにかく人間業とも思えない体位を試したがるので困る。体を窮屈な形に折り曲げられて拘束され、狭くなったその場所に挿入されるこちらとしては、正直体の方が痛くて、なかなか快感まで届かない。それでも一度体に火がつくと、苦しいのか快感なのかよく分からない波に攫われて、立て続けにドライ・オーガズムに達してしまうことがあるから、我ながら順調に調教されているな、と少々情けなくも思う。
とにかく、ずる休みしたら大学に報告しますから、と脅しをかけて、朝食だけ準備して家を出た。
昼、どうやらタクシーを使って出勤したらしいユーリを発見。
そして今、授業の後の個人レッスンの時間だが、これもまたプルシェンコ談義に費やされて一時間が終わる。
「もう、分かりましたから……帰りにビデオ屋に寄って、これまでのオリンピックや世界選手権のDVDを借りてきましょう。それで、今日はそのビデオを見ながら好きなだけ飲んだくれて下さい。僕も付き合いますから……」
落ち込むと結構面倒な師匠は、ようやく素直に頷いた。
今日の夕食は、もう面倒だから肉焼いて終わりにするか……。
なんだか、バレンタインだから、と(体の方が)大変なことになるのじゃないかと警戒していたが、別の意味で色々大変な二日間だった。

薔薇の花を贈ってくれたミロに、直接礼を言えないのが辛いけれど、バレンタインの贈り物は匿名性が重要なのだから、仕方がない。
私からは、ミロには贈らなかった。勿論今の私にその資格はないと思っているからだけれど、ミロにしてみれば、きっとさぞかしがっかりしていることだろう。
Happy Valentine.
HNで作ったtwitterとFacebookのアカウント(勿論後者は規約違反であることを承知している)から、ミロのtwitterとFacebookに一言メッセージを残しておいた。