イタリアでは、誕生日は自分でパーティを開き、友人達をもてなすのだと聞いた。
アイオロスが私の誕生日パーティをカミュのアパートメントで行う旨を、カミュに相談もせず勝手にメールで流した翌々日。
なんとか代替の会場を確保した私のもとに、カミュからの電話があった。
是非、彼の家でパーティをやろう、と言う。
もう代わりの会場を手配したから、と言ったら、そんな時間制限つきの会場では折角のパーティの楽しみが半減する、と笑った。
そうして、こう付け加えた。
「イタリア式でやってみたら如何です? ミロは、あちらでは誕生日の度に友人達をもてなすので大変だそうですよ?」
午後3時。
夏休みに入った大学は学生の数も少なく、早退の是非を尋ねると教授は快諾してくれた。
ショートパスタを三種類、サーモン、トマト、ズッキーニ、ポテト、ベルペッパーなどを買い込んで、カミュのアパートに向かう。肉類とアルコールは、今朝いつもより早い時間に出勤したアイオロスが、午前中に仕入れて既に先方に届けてあるはずだ。
カミュは、この日のために、わざわざ仕事を空けてくれていた。
前菜に夏野菜のショートパスタ、レタスとルッコラのミモザサラダとエビとアスパラガスのテリーヌ。冷たく冷やしたポテトポタージュ。カミュが得意だというフィレンツェ風のピザ。
メインはサーモンのローズマリー焼きとミートローフ、アイオロスが何か肉料理(多分ステーキだろうけれど)。
デザートは、木イチゴのチーズムースとフルーツカクテル。
実のところ、私はあまりパーティ料理のレパートリーがなく、今日作る予定のものは全て市販のレシピから抜いてきたものだ。
ところが、カミュはこれらの料理を殆ど記憶しているらしい。私が持って行ったレシピの紙も、最初にざっと目を通しただけで、あとは殆ど眺めもしなかった。
「昔から器用だと思ってはいたけれど……君は料理も得意なんだね」
思わずそう呟くと、カミュは口元に薄く笑みを浮かべ、手際よく野菜を刻みながら言った。
「手の込んだ料理は嫌いじゃないです。でも、外食すれば、味付けが濃い、人工的な味がする、と一々煩いし……かといって、あいつに任せきりだと、毎日トマト料理ばかり食べさせられることになりますからね」
時計が六時を回った頃、アイオロスが呼び寄せた客達が集まり始める。パブリック時代のクラスメートや、スミスハウスの仲間、オーケストラの先輩、後輩。一人暮らしとしては、決して狭くはないカミュの部屋は、すぐに一杯になった。
「あれ、お前もチョコレートケーキ? まずいな、重複しちまった。味は、ここのなら確かなんだが……」
「いや、大丈夫だろう、これだけ人が居れば、すぐになくなるから」
入口のドア付近で、職場の中学校からそのままやってきたと見えるアイオリアが、ファゴットのウォルトと手持ちの土産を見せ合っている。既にスチュアート先輩、ドウコ先輩からもそれぞれレモンチェリーケーキとシナモンケーキを貰っているのだが、そのことはひとまず伏せて、有難く受け取った。カミュが部屋を提供してくれたお陰でパーティはエンドレス、酒が進めばそのうち甘いものでも欲しくなるだろう。
それよりも、自分の知っている一番美味しい店まで、わざわざ足を運んでケーキを買ってきてくれた彼等の気持ちが、私にはとても嬉しかった。
実は、カミュには言わなかったが、「イタリア式」誕生パーティは私にとってそれほど馴染みのないものではない。
実家に居た頃、誕生パーティはごく当たり前にそれぞれの家で主催されていた。
誕生日の日には、私もカノンも揃って正装をして、私達を祝いにきてくれた人々を出迎えたものだ。
家中で灯されるキャンドル、食べ切れないほどの料理、熱いオレンジソースをかけて食べるプディングや、大きなバースデーケーキ。
けれど、当時者である私達にとって、この日は一年で一番沢山「有り難う」を言う日、だった。
両親や従兄弟、友人達が祝ってくれる事は勿論嬉しかったが、沢山の知らない大人からの「おめでとう」を笑って聞き続けなくてはならない。
そして、「おめでとう」を受け取った相手の顔と名前は、そのあと遊びも返上して全部執事に確認し、覚えておかなくてはならないのだ。
「へえ! これ、サガ先輩が作ったんですか! 先輩、料理もこんなに上手だなんて、本当に、『サー・パーフェクト』なんですね……!」
私の作ったテリーヌを口にしながら、アンソニーがそう感嘆し、となりでアンドリューがくすくすと笑い声を立てた。
「最初からパーフェクトな人間なんて居ないけれど、人間、努力すれば何でも出来る、という好例だね」
「えっ……そうなんですか?」
「さあね……これは、話してもいいのかな? サガ?」
アンドリューがこちらを見ながら笑っている。私は、首をすくめて見せた。
「サガはね、最初、目玉焼きも作れなかったんだよ」
「えっ……?!」
「なにしろ、ガスレンジの使い方を知らなかったからね」
アンソニーが目をまるくしてこちらを見た。信じられない、と、その目の色が雄弁に語っている。
「本当だよ。クィーンズベリに入学した当時、私は、ガスレンジの使い方も知らなければ、自分で卵を割った事もなかったんだ。それで、ガスレンジの方は、見よう見まねでなんとかつけられたけど、卵の殻が上手く割れなくて……黄身は潰れて流れてしまうし、殻は大量に混じってしまうしで、本当に散々だったよ」
私がそう打ち明けると、アンソニーは二、三度口を開閉してから、言葉を選ぶように言った。
「……で、どうしたんですか? その卵焼き」
「勿論食べたよ。もっとも、途中から、見かねてアイオロスが自分の目玉焼きと取り替えてくれたのだけど……」
「そりゃお前がちまちま殻を避けてたからだ。あんなもん、口に入れて歯に当たってから吐き出しゃいいのに、こいつはお上品にもナイフとフォークでほじり出そうとしてたからな」
何処で聞いていたのか、デスと話していたはずのアイオロスが後ろから肩に手をかけて寄りかかってきた。もっと正確に言えば、抱きついてきたのだが、それはさりげなく避けさせてもらった。
まだ、そこで侵入を許す程酔っているわけではない。
「ま、そのころに比べりゃ大幅に進歩したな、お前♪」
「まだまだカミュには敵わないよ。彼は殆どレシピも見ずに作ってしまうからね」
今、こうして、自分の手でもてなす誕生日は、本当に心から楽しいし、嬉しい。
家の料理長が腕を振るったかつての誕生日の料理には到底敵わないけれど、それでも、心から喜んでくれる人々がいて、自分で足を運んで買って来たプレゼントを届けてくれる人がいる。
それは、実家にいてはきっと知らなかっただろう幸福で、それを得られた事に、私は心から感謝した。
「ところでさ、お前んとこ、暫く冷戦状態だったって噂をきいたぞ?? 何があった?」
夜も更け、妻子持ちの面々が一人二人と去り、残った人間のアルコール濃度が増してきた頃。
デスが、カミュの開けたボルドーの瓶を振りながら私の横へやってきた。
私は身構えた。私は彼が非常に良い人間である事を知っているが、アイオロスと同じ、少々ゴシップ好きな面がある事も知っている。
更に、私は、カミュがこっそり私にだけ出してくれたシャトー・ブリオンのお陰で、先刻ほど脳細胞がまともに働いていない事も知っていた……。
「あの年中発情男が、二ヶ月手出さなかったっていうじゃないか。そりゃもう、れっきとした異常事態だろ? な、何が原因? で、どうやって仲直りしたの?」
「デス。プライベートを暴きたがる癖は相変わらず治っていないのか?」
「ちょっと待てよ、オレはお前達の事を心配してやっていたんだぜ? なにしろ、ロスから再三、愚痴を聞かされたからな。あの手の早い男が、じっとお許しが出るまで我慢してるってのも尋常じゃねえし、お前がそんなに頑なのも、今更な感じだろ? で、これはちとヤバい事があったかな、って」
「愚痴って……文句だけ言って、ロスは原因を話さなかったのか……」
「なんか、相変わらずタダレた事言ってたがな。生理前だとか何とか」
「あの馬鹿……!」
ぷつん、と何かが脳内で弾ける音がした。
冷静になってみれば、そんなのはいつものロスの事で、今更怒るような事でもないのだが、このときの私は、数ヶ月前の怒りを思い出してすっかり頭に血が上っていた。
アイオロスが浮気をし、その事がトラウマになってしまった。我ながら馬鹿馬鹿しいとは思うが、一度しみついた嫌悪感はどうにもならなかった。
ロスが、彼なりの最大の譲歩をして謝罪してきたので、もう忘れる事にしたが、今でも思い起こせばそれなりに腹は立つ。
その時は本当に、あんな浮気男には指一本も触れて欲しくなかったんだ、と、勢いに任せて口走る寸前、カミュの穏やかな声が、それを遮った。
「デス先輩。言わなくても、想像がつくような話ですよ。なにしろ、その前一ヶ月ほど、アイオロス先輩は出張でしたから」
「マジ? じゃあ、計三ヶ月?」
「ええ。もつはずがないでしょう?」
「ああ──それで本命からおあずけ食らった訳ね。バカだな、あいつ」
「ええ、バカですね」
「なーにがバカなんだ? 礼儀正しい後輩君?」
突如、背後から声が被さって来た。
思えば、二歳も年下のカミュに何故か異常な対抗心を燃やしているアイオロスが、この会話を逃す筈がなかったのだ。
「それはバカでしょう、一番大切な人を傷つけて、お預けをくらってまでする事でもないでしょうに」
カミュは少し目を細めてロスを睨み返した。彼のこういう表情は、勿論本人に悪気はないのだけれど、もともと整った顔立ちが鋭さを増してアイオロスのような人間には相当に生意気と映るらしい。
もっとも、カミュがこんな鋭い表情を見せる相手など、本当に数えるほどしかいないのだけれど……
「フン。半年も放っとかれて、誕生日のデートまでキャンセルされたヤツの戯言なんぞ聞く耳持たんね。Pussy cat !」
「ロス! いい加減にしないか!」
ロスが例の調子で品のない言葉を浴びせたので、私は思わず声を荒げた。
カミュはいつどんな時にも大変大人の振る舞いをするが、その下に隠しているものは決して見た目ほど穏やかではない。
そしてどういうわけか、アイオロスはそのカミュが隠しているものを故意に引きはがそうとする悪い癖があるのだ。
「おい──ちょっと待てよ、半年も放っとかれて、って本当か? 誕生日すっぽかされた、とか?」
アイオロスの襟首を掴んでこの場から引き離そうと思った刹那、デスが、至極真面目な口調でそう口を挟んだ。
「ミロの奴、お前と全然会ってないのか?」
カミュはロスの方に向き直ったまま、ちらりとデスの方へ視線を投げた。
「つい一週間ほど前、妹に呼び出されたとかなんとかで来ましたけど、翌日の朝には帰りました。なんでも、とても忙しいんだそうです。まあ、あれでも一応事務所の社長ですし、仕事が回っているのなら、無理に時間を作ることはない、と僕の方からも言ってあるのですが」
「はーん、仕事、ね………」
「……何か?」
ふと、カミュの気がロスから逸れた。デスは、何か悪戯でも思いついたような表情で含み笑いを浮かべている。
「あいつ、仕事で忙しいわけじゃないみたいだったが、まさか、お前知らないの?」
「……僕は、仕事だとしか聞いてませんが?」
カミュが真顔でデスに向き直り、デスは身を乗り出して声を潜めた。
「オレ、見ちゃったんだよね。あいつの家で。こないだイタリア行った時にあいつの家に押し掛けてさ」
「お、いよいよ、あいつも女に目覚めたか?──いでっ!!」
首を突っ込んできたアイオロスを拳骨で黙らせておいて、デスの次の言葉を待つ。
その口から飛び出したのは、あまりに意外な単語だった。
「あいつ、ローマ音楽院の大学院に在籍してるんだよ。今年で卒業。で、卒業試験やら、単位やらで忙殺されてるわけ。俺は勿論知らなかったが、まさか、カミュ、お前にも黙ってたとはなあ……!」
「……まあ、あいつらしい、かな」
沈没した宿泊客に毛布をかけてやって、散らばった食器の片付けをしながら、カミュがそうぽつりと呟いた。
「カミュ、ミロのことは………」
「ああ、違うんです。別に怒ってもいないし、落ち込んでいるわけでもない。……多分、私だから、一番言えなかったんでしょう。……馬鹿だなあ、とは思いますが」
デスからミロの秘密を聞いた後、カミュは暫く宙を見詰めて黙り込んでいたが、やがて穏やかに、この話は聞かなかったことにする、と言った。
自分に話さないのは、ミロに何か考えがあるからだろう。だから、自分はミロが自ら伝えてくれるまで、黙って待つ、と。
カミュのこういうところを、本当に強いと思う。
ミロのカミュへの配慮というのは、ミロが気を揉めば揉む程、的がはずれてしまいなかなかカミュにうまく伝わらない。カミュはそのことに、時折不平は抱くけれど、それでも、ミロへの絶対の信頼が揺らぐことはないのだ。
自分自身を振り返れば、そこまではアイオロスの事を信じ切れていない自分がいる。
彼の人間の良さに疑いを抱いたことはないのに、時折、彼の真意がわからなくなり、信頼が揺らぐ。
何を考えているのか分からない人間を信頼する、その強さが、私にはない。
「それじゃ、今日は本当に有り難う……このお礼は、またそのうち」
「いえ、僕も楽しかったですから。人が集まるのは嫌いじゃないんです。……で、これから、恒例の旅行ですか?」
「いや、今年はやめにしたよ。なにしろウサギが7匹もいるからね」
カミュはそうですか、と笑い、それから、僕もウサギでも飼おうかな、と呟いた。
「本当に? うちの子をどれか引き取るかい?」
「──いえ、ちょっと言ってみただけです。生活は不規則だし、家を空けることも多いし──引き取っても、可哀想ですから」
カミュは慌てて手を振り、私は喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
寂しくなったら、いつでもおいで、と。
「さて、帰ったら、風呂入って仮眠だ、エセル。週末は、遊ぶぞ!」
カミュのアパートからサザークの家までの道すがら、まだ少し人通りもあるというのに、アイオロスが隣を歩く私の腰を引き寄せた。
「週末は、って……週末でなくても同じじゃないか」
「いいや、違うね。なにしろ、まる二日、起きなくていいんだからな!」
「そんなことはないよ。掃除も洗濯もあるし、買い物もしておかないと来週大変なことになる」
「お、お前、それまるっきり主婦の台詞だな♪」
「君がやらないからだろう!!」
毎日代わり映えのないそんな台詞をやりとりした後、アイオロスが、あれ、というように目を細める。
「……お前、今日は逃げないんだ? まだ人居るのに」
「……そうだな。……少しくらい困った事があっても、こうして側にいてもらえるならそれでいいじゃないかと、そういう気分だからかな? 今日は」
「ほう?」
「まあ、カミュのワインのせいだから、誤解しないように」
「じゃ、あいつからまたワインふんだくって来よう」
アイオロスは薄く笑い、腰に回した腕に力を込めて引き寄せ、私の首筋をもう一方の手で捕らえて髪にキスをした。地面に長く伸びた影は、まるで仲睦まじい男女のカップルのようで、私達はその影を壊さぬように寄り添いながら、家までの道を急いだ。