ミロが夜の七時から数時間あけておいて欲しいというので、いつもより少し早めに音楽院を出てミロのアパートに戻った。
7時という時間からして、コンサートにでも招待してくれるつもりなのだろう。
少しはまともな服に着替えた方がいいだろうか、靴はどうしようか、と考えながら、仮住まいをさせてもらっているミロの設計事務所の扉を開いて、その場でそのまま固まってしまった。
いつものルームライトは消されていて、窓辺にはキャンドル・スタンド。
足下に、昔私が使っていたテスト用ライトを改造したらしい、間接照明。
どこから持ち込んだのか、ピアノや本棚の端に置かれたアイビーやポインセチアの鉢植え。
キッチン横のテーブルが、窓辺まで移動されていて、白いテーブルクロスの上には、色ガラスの器に水を張って浮かべられた蝋燭。
白い皿と、ナイフやフォークは既に置かれていて、その隣には空のワイングラスとシャンパングラスがあった。
「森のレストランへ、ようこそ」
部屋の中で待っていたミロに、そう声をかけられて、自分が馬鹿みたいに部屋の入口で惚けていたことに気付いた。
普段、よれよれのTシャツにジーンズといったルーズな格好から一歩も進歩しようとしないミロが、きちんとアイロンの当たったシャツを来て、シックな黒のトラウザーズに黒のエプロンをして……
それは、丁度二年前、ミロがロンドンでサプライズパーティを仕掛けてくれた時と同じ姿で、思わず胸が詰まって、何も言えなくなった。
……やられた。
一番幸せだった時間を演出するなんて、ミロにしてはやってくれるじゃないか?
「あ、扉、閉めて貰わないと……森のレストランだから」
「……?」
何のことだ、と思ったら、足につん、と触るものがあって、理由を理解した。
……ああ、森のレストランだから、ウサギつき、というわけか。
ウサギを逃がさないように慎重に扉を閉めて、律儀にお帰りの挨拶をしてくれたブラックベリの頭を撫でてやり、部屋に足を踏み入れる。ミロが、コートを脱がせてくれた。
「最初はシャンパンでいい? それともワインにする?」
「シャンパンがあるのか?」
「よく冷えてるよ」
「お前、飲めないだろう?」
「舐めるくらいなら。これでも、少しは飲めるようになったんだよ」
絶対に昨日までは棚になかったと断言出来るシャンパングラスに、淡い黄金色のシャンパンを満たして、立ったままグラスをかち合わせた。
すっきりと冷えた甘さを口に含みながら、ミロが仕掛けた照明や、あちらこちらに置かれた鉢植えについて、ひとつひとつ案内してもらいながら説明を求める。長い間、そうして質問を受ける側だったけれど、訊ねる側にまわるのも楽しいものだ、と思った。
「このライト、よく残してあったな……」
「酷いな。カミュのもの、勝手に捨てたりしないよ……」
「ポインセチアとアイビーは? 借り物?」
「……にしようかと思ったけど、結局買った。部屋にあれば、目がほっとするだろ? ただでさえ朝から晩まで五線譜で目を酷使してるから。でも、ウサギには食べさせたら駄目だって」
「ブラックベリはともかく、プチは棚の上に上るからな……気をつけないと。まあ、多分彼女は食べないと思うけれど」
腕一本分の距離だけ離れて歩きながら、本当は肩や腰に手を回して歩きたいのだろう気配を、肌に触れるように感じる。それを、言葉ではなく気迫で押しとどめる。何気ない会話には不釣り合いな緊張が、たった腕一本の距離に満ちる。
もう少し、近づけたらいいのに。
そう思う。
何もかも忘れて、素直に笑って、「有り難う」とキス出来たら、どんなに幸せだろう。
そう思いながら、グラスを握る指に力を込める。
「じゃ、そろそろ前菜にしよう。バゲットも、ちゃんとヴァイオリン科の女の子に聞いてローマで一番美味しいって評判のパン屋から買って来たよ」
「バゲット? チバッタじゃなくて?」
「今日はカミュの誕生日だろ。だったらパンはやっぱりバゲットじゃないと」
「お前も私も、本当は英国籍なんだけどね」
前菜のスープはグリンピースのミルクポタージュで、サラダはフェンネルとグレープフルーツ、オレンジのサラダだった。ブラックオリーブとバジル、グリーンオニオンの欠片が入っていて、バルサミコ酢とオリーブオイル、塩、胡椒だけのシンプルなドレッシングだけれど、フルーツの甘みとフェンネルの香りがとても良く合う。
こんな洒落た味は、ミロのレシピじゃないな、と出典を問い質したら、実は、と決まり悪そうにミロが言った。
「俺が作ると、なんでもトマト味になるって、カミュ前に言ってたから……。Everyday Italianっていう番組があって、それのレシピ。ハーブとか結構使うし、カミュ好きかな、と思って」
「うん。とても美味しいよ。……これは、とてもイタリアらしいサラダだな。本当に、食べ物だけは、イギリスはイタリアに逆立ちしても敵わない、と思うよ」
「食べ物だけ? いいじゃん、イタリア。人は陽気だし、気候は明るいし……」
「気候が明るいのはその通りだけど、人はルーズだし、騒がしいし、遠慮ってものを知らないし、挨拶しただけで勝手に友達にされているし、やたら他人に抱きつくし、色々理解に苦しむね」
「うわ、それって、滅茶苦茶ステロタイプのイギリス人の台詞じゃないか……カミュ、音楽院で友達いる?」
「いるよ? 殆どアジアンだけど」
メインは、白身魚をハーブとレモンで蒸し焼きにしたもので、ミロはワインもちゃんとそれに合わせて白を用意してくれていた。
以前はほんの一口で顔を赤くしていたミロが、シャンパンをグラス半分ほど空けた後で、ワインも一杯付き合う、と言う。
本当に大丈夫か、と半分本気で聞いたら、意外に余裕の笑みで「大丈夫」と返ってきた。
「実は、あんまり眠れなくてさ。どうしたらいいか、ってカルテットのメンバーに相談したら、酒飲んで寝ろ、って言われて……それで、去年は、結構寝酒飲んでたんだ。……もっとも、飲んでも結局眠くはならなくて、気持ち悪くなって寝たことの方が多いんだけど」
「気持ち悪くなって、って、どれだけ飲んだんだ?」
「……ボトル、2/3くらい?」
「……それは、いきなり無茶しすぎだろう……」
ミロの下戸は学生時代から有名で、打ち上げではグラス一杯でよく真っ先に潰れていた。
しかし、気持ち悪いのなんのと言う割には二日酔いはしないし、無茶でもなんでもそれだけ飲めるのだから、別にどうしても駄目というわけではないのだろう。単に、あまり酒の味が好きではないのだ。
「無理しなくていいよ。十分、美味しい料理で楽しませてもらったから。……有り難う。こんなに、色々してくれて……」
「別に無理はしてないよ? 一杯くらいなら飲めるようになったから」
「そうじゃないよ。今日だけじゃなくて、怪我をしてから、ずっと、色々力になってくれただろう? ウサギ達のことは勿論だけど、こんな高い買物までして」
部屋の中央で存在を誇示するグランドピアノを視線で指し示したら、ミロが、あ……と呟いた。
「実際、通学時間もずっと短くなったし、正直、家で弾けるピアノがあって本当に助かってる。……まあ、無茶だ、という感想に変わりはないけどね。お前だって、まだヴァイオリンの支払い終わってないんだから。……実は、諸々の事情を差し引いても、少し不思議だったんだ。お前、本当は、あのとき怒っていたんだろう? それなのに、どうしてこんなに良くしてくれるのか」
ミロは、病院で私の顔を見るなり「ふざけるな」と怒鳴った。一方的に振って、音楽院のことで世話になっておきながら敢えてミロの事を無視するような真似ばかりしてきたのに、困ったときだけ助けを求めるなんて、たしかにふざけた話だ。
ミロがいくら弱っている人間に親切と言ったって、これだけ手を焼いて、優しくする道理なんてないだろう。
「……あのとき、って?」
ミロは、心底分からない、と顔に書いた表情で、そう訊ねてきた。
「勿論、あの夜、お前が病院に駆けつけたときだよ。お前、顔真っ赤にして、いきなりそう怒鳴ったじゃないか」
「ああ! あれ……ごめん、怒鳴った、っていうか……なんか、最悪の可能性も考えてたから、もう頭ん中ぐちゃぐちゃになってて……なのにカミュはウサギの事しか言わないし……つい……」
「最悪の可能性?」
「……俺が行ったらもう死んで崩れてたらどうしよう、とか……」
「……え?! 看護士から話聞いたんだろう? 頭殴られたけど、意識はあるとか、言わなかったのか?」
「でも! 俺が駆けつける前にどんどん失血して、間に合わなかったらどうしようとか……!」
「いや、もう病院にいるんだし、動脈切ったとかでなければ失血死ってことは」
「だって、そんなこと考える前に、血だらけのカミュが霊安室にいる映像が浮かんで消えなかったんだからしょうがいないだろ!」
そういえば、ミロは一瞬で非常に極端な空想が出来る摩訶不思議な特技を持っていた、と思い出した。
私などは、空想は順を追って広がっていくものだが、ミロの空想は瞬間的に因果の鎖をぶっちぎって世界の果てまで飛んでいってしまうのだ。
それにしても、「死んで崩れてたら」ってことは、ミロの空想の中ではもう腐敗していたのか、私は。
「馬鹿だなあ………」
思わず、こみ上げてくる笑いを胸の奥にとどめておけなくて、つい声を上げて笑った。
血だらけの私が居た場所は本当は霊安室だけではなく、きっと墓穴の中の棺桶の中にまで突っ込まれていたに違いない、と思いながら。
「それじゃ、怒ってたわけじゃなかったのか……」
「なんで俺がカミュに怒るんだよ」
「だって、お前のお陰でなんとか音楽院に入れたのに連絡もしなかったし、お前の誘いはことごとく断ったし、普通、それで困ったときだけ助けを求めたら、ふざけるな、と思うだろう?」
「なんで? カミュ最初から、自分から連絡するまで待ってくれ、って言ってたし、あんな怪我して病院に担ぎ込まれたら、助けを求めない方がおかしいだろ? ああ、なんでさっさと連絡寄越さないんだ、とは思ったよ? 俺が呼ばれたの、カミュが救急車で運ばれてから二時間も経ってたじゃないか。その間に何かあったらどうするんだ、って……」
ミロは、ぶるっと身を振るわせて、グラスの中身を一気に空けた。
「あと、あんな夜中まで大学に残ってたことも。あの時間に外を外国人が一人で歩き回るなんて、それこそ無茶だ」
「ローマの治安は大分改善したと聞いていたけど?」
「ローマ市内はね。でもカミュのアパートは郊外だったじゃないか」
ミロはじろり、と私を斜め下から見据えて言った。
「そのアパートだって、凄く荒んでたし。あんなの、カミュらしくないよ。なんか、自分を大事にしてない感じがした」
「……いや、手が回らなかっただけで、別に荒んでいたわけじゃ……」
「ウサギがいなかったら、本当、最低限の生活もできてなかっただろ。なあ、ルーファス?」
いきなり、ミドルネームを呼ばれて、思わず耳を疑った。
今、ルーファス、って言ったか?
もしかして、ミロ、酔っ払ってるのか?!
「お前もそう思うよな? ルー?」
弟が私を呼ぶのと同じ呼び方で呼ばれて、あまりの事に硬直した私の前で、ミロは、私ではなく、彼の足下を見ていた……。
えーと、今、その黒いウサギに向かって、ルーファス、と言ったか??
そして、ブラックベリは、あろうことか、ルーファス、と呼ばれて、愛想良くミロの足を舐め返した……。
「……今……その黒いウサギに、何て……?」
「えっ? ルーファスさん」
「……彼には、お前も知っている通り、ブラックベリ、という名前があるんだが?」
「うん、でも、このウサギカミュにそっくりじゃん。優等生で、なんかいつも制服着てるみたいにビシッとしててさ。義理堅いし。朝、ペレットをやると、かならず鼻でつん、と押して挨拶してくれるんだ。もう、ルーファスさん、って呼ぶと寄って来るよ?」
「だから、何故勝手に名前を変えて、しかもそれが私のミドルネームなんだ?!」
「だって、サガのとこだって、ウサギにお互いの名前つけてるし。あ、でも俺はプチじゃないけど」
当たり前だ! と叫び返そうとして、ふと背筋に悪寒が走った。
……群れるのは嫌いだけど、ほかの群れは気になって、滅多に人に気を許さず、勝手に一人で遊んでいて、年齢からは想像もつかないほど身軽で健脚。
もしかして、プチは、ミロそのまんまなんじゃないか?!
ひょっとして、自分はミロにそっくりなウサギをわざわざ選んで引き取ってきたのか、と思うと、頭を抱えたくなった。
……どうして、こういう難しいのにばかり、心を奪われてしまうのだか……(溜息)
デザートは、ミロが唯一作れるスィーツだというティラミスに、巨大な蝋燭が一本突き立てられてやってきた。
本当はミロは三本立てるつもりだったらしい。まだ大台までは一年あるというのに、勝手に四捨五入するとは、失礼な奴だ。
「願い事はなんにする?」
「それは勿論、無事進級出来ますように、だろう」
「……なんか、夢がないなあ……」
夢があろうがなかろうが、今絶対叶って欲しい願い事はそれしかないので、そう祈りつつ蝋燭を吹き消した。
柔らかいマスカルポーネに無理矢理極太の蝋燭を立てたので、火を吹き消すと同時に倒れてしまい、ミロが苦心して丸く抜いた形は崩れてしまったが、味は悪くなかった。
窓辺で、小さくなった蝋燭の炎が不規則に揺れて、ひとつ炎が消えた。
久々にゆっくりと楽しんだ夕食だったけれど、時計をみたら、まだ漸く九時を回ったところだった。
スタンドライトをつけて洗い物を済ませて、ピアノの蓋を開ける。
ショパンのエチュードを練習しようと思ったけれど、少々ワインを飲み過ぎてあまり指が回らなかったので、代わりにノクターンを弾いた。
ミロがシャワーを使って上がってきて、何も言わないまま、スタンドライトを消した。
いつもなら真っ暗になってしまう部屋は、今日は窓辺に置かれた燭台と足下の間接照明のお陰で、淡いオレンジの光に照らされていた。
「はい、そこで終わり。もう十時だから」
「……ああ、もうそんな時間か……」
いくら周辺には事務所しかないといっても、矢張り夜十時以降に音を出すのはまずい。
いや、本当は、こんな事務所の中でピアノの練習をしているのも、相当にまずい話なのだけれど。
急に灯りが消えて目がまだ慣れず、ピアノの椅子に腰掛けたままじっとしていたら、後ろからふわりと肩に温もりを感じた。
「……これ、誕生日プレゼント。ここ、一階で冷えるから、夜に羽織るのに丁度いいかと思って。──誕生日、おめでとう」
耳元で小さな囁きが聞こえて、それから、その温もりの上から強く抱き締められたのを感じた。
それから、髪に、小さなキスが降った。
こんな挨拶は、ラテンの人間はともかく、イギリスでは、少なくとも男性同士ではやらない。
友達の範囲を超えた接近は許してはいけない、とずっと身構えていたのに、虚をつかれた。
動くことも出来ず、息もする事が出来ず、じっと固まっていたら、その温もりはゆっくりと離れて、少し残念そうに、こう囁いた。
「……それじゃ、お休み。」
ミロはそのまま、静かに部屋を出ていき、淡い光でゆれる部屋はしんと静まり返った。
スタンドライトを点ければ、この夜の魔法はとけて日常の光が戻ってくる。
そう分かっていても、なかなかスイッチに手を伸ばすことは出来なくて……
もう少しの時間だけ、感傷に浸ってもいいか、と、苦笑する。
追いかけて、キスして、抱き締めることができたら、どんなに幸せだろう。
甘い誘惑に流されて、今日だけの期限付きで恋人に戻れたらいいのに、と、身勝手な夢想を抱く。
ミロはきっと、それでもいいから、仲良くしたい、と言うのだろうけれど……
……そのために、全て今まで築き上げたものを捨ててまで、ここに居るのではないから。
深呼吸で夢想を振り切って、灯りをつけ、蝋燭の火を消していたら、ブラックベリが今晩の野菜をねだりに来た。
冷蔵庫からロメインレタスを取り出し、一枚分けてやりながら背中を撫でると、冷たい雫に触れた。
……どうも、またプチにスプレー(匂い付け、縄張り主張のためにまき散らす尿)をかけられたらしい。
お前も相変わらずいろいろかけられているな、こっちも今日はコナかけられたけど、と呟いたら、つぶらな黒い瞳がじっと私を見上げて、雫を拭った手を律儀に舐めてくれた。