隠し事

ミロに、バレた。
実際のところ、最初から、いつかこうなることは分かっていた。
ミロは、気配に敏感だ。何度も一緒に朝を迎えて、そういう気配の変化をミロが好意的な眼差しで見詰めていたのを知っている。
体の関係を持てば、次の日の朝には体が変わる。きちんと本来の性の役目を果たした方は、目に見えて逞しく、地に足のついた感じになる。一方、自分とは違う性の役割を引き受けた方は、体が緩む。
女性だったら、多分もっと締まった感じになるだろう。生殖行為の後は、子育てが待っている……動物なら、交尾が成功したら、最早雄を受け入れることはない。
でも、母親にはなれない体を開かれると、その反動が起こらない。どうにも腰に力が入らないのに、とても満たされた気分になって、放っておけばそれが一日でも続く。
安心、安堵、というのが、一番近いかも知れない。
ああいう行為の後に感じる安堵というのは、多分、普通に男性として暮らしている殆どの人は一生感じることがないものじゃないだろうか、と思う。
男だって、安堵を感じることはある。特に、信頼する女性に愛されて大切にされている、と感じる時には、心から安らぎを感じる。女性の持つ母性に包まれた安らぎで、それは多分、母親の記憶と結びつく。
けれど、それとは根本的に違うのだ。
もっと、外向けに築いた鎧が緩む感じ。糸が切れて、自分自身の形も柔らかく、形を定めないものになる。女性はたとえどんな状況に陥っても、自分自身を形作る躾の糸を切ることはないけれど。
この感覚の虜になって、トランスジェンダーや同性愛の道にのめり込む男も、多分沢山いるだろう。
どんなに冷たいシャワーを浴びて、気持ちを切り替えても、一度緩んだ心は綻びのように体の節々から溢れ出す。
隠しおおせる相手もいる。けれど、ミロは、最初からそこからはもっとも遠い相手だった。
だから、午前中はなるべくミロに会わないよう、相当に気を付けていたというのに……
新学期早々に見つかってしまうのだから、私もよくよく隠れるのが下手なのだろう。


ミロの倫理観に照らして合わせて、絶対に容認出来ない事をしている自覚はあったので、最初から、バレた時のシミュレーションはしてあった。
何か、適当なことを言って、ミロを誤摩化すことは出来るか?
幾度考えても、答えはノーだった。遅かれ早かれ、ミロは絶対に、真実に辿り着く。そして、このことを音楽院に報告するだろう。
そうなれば、ユーリは勿論懲戒免職、合意の上の関係である以上、私自身も、おそらく退学は免れない。
それを止めるにはどうしたらいいのか?
ユーリを愛しているからそういう関係になった、と言えば、多分ミロは黙っているだろうけれど……
その嘘を、つき通せる自信がない。いくら頭で打算の算盤を弾いても、最初の夜に感じた嫌悪感や、ほとんど強迫の手口で落とされた経過は、まだ胸の奥に痼りのように残っているし、何より、ミロがそれで失望して私を思い切ろうとした時に、黙って見送ってやる自信がない。
結局、全て本当のことを話すしかない、と結論した。
……分かっている。こんなのは、とてつもなく、狡い。
ミロがまだ私のことを想ってくれているのを知っているのに一方的に関係を解消して、他の男と体の関係まで持っているのに、それでもミロが私を諦めることを許さないなんて。
自分は、どこまで業が深いのだろう、と思う。
ミロは、不幸だ。たとえ、本人がそう気づいていなくても。
こんなに強欲な私に好かれたばっかりに、青春時代にとてつもない重荷を背負い込み、今も青息吐息でその荷を引かされ続けている。
もっと早くに、彼を開放すべきだったのだろう。多分、一度別れた時に。
それでも、お願いだから、あと二年だけ待って欲しい、と、胸の内で叫ぶ。
二年後──私のピアノが、彼の心を揺り動かすことが出来たら、その時は、お前が望む優しい恋人を一生演じ続けると決めよう。
もしも、それが出来なかったら……その時は、今度こそ、お前を私から開放するから……。

 
「……講師、か……!」
予想通り、私の相手が指導教官だと知ると、ミロは弾丸のように家から飛び出そうとした。
行き先も、何をするつもりかも分かっている。ユーリを見つけ次第、飛びかかって殴りつけようとするだろう。
ユーリが大人しく殴られるとは到底思えないから、二人とも、きっと大怪我をする。
ミロのこういう激しさは、パブリック・スクール時代から全く変わっていない。何度も見た流血騒ぎの記憶のお陰で、ミロの一挙一同まで全て映画のフィルムを見るように予測出来る。
だから、そうなる前に、ミロの襟首を掴んでドアの内側に叩き付けた。
「邪魔するなっ!!」
お前のやろうとしていることは、余計な事だ。止めろ、でも、落ち着け、でもない、手出しをするな、と、最初から予定していた言葉を叫んだ。
ミロは、信じられない、といった表情でこちらを睨みつけていた。彼自身、同じ音楽院の講師なのだから、その義憤は理解出来る。
だから、言うしかなかった。そんな、ミロの基準では鬼畜にも劣るモラルの持ち主の講師が担当で、自分は運が良かった、と。
「まともな神経の講師なら、絶対そんな誘いはかけない。その代わり、董の立った学生を給料分だけ面倒みて終わりだ。講師は全力で学生を教えなくてはならない、なんて決まりはないからな。真剣に指導してもらうために体を売るなんていうのは、古典的な手法だよ。でも、普通なら、私にはそれも使えないはずだった。男だし、若くもない。でも、ユーリはゲイだった。……そして、私の容姿は、彼の気をひいた」
正直、最初は、ユーリが少しはピアノのセンスを認めてくれたのかもしれない、と思った。……でも、彼の誘いを受ける、と返事をした翌日から、明らかに変わったレッスンの内容に、それが馬鹿な夢だったことを思い知らされた。それまでのレッスンは、まともな指導を受けてこなかった私にはそれでも得難いものだったけれど──やはり、ユーリは彼なりに、給料分の仕事をしていただけだったのだ。
案外、ユーリは、そうして私の本気を計っていたのかも知れない。どんな手を使ってでも、そこから這い上がる覚悟があるか──そう思っていたと思わせる台詞を、別の夜に一度だけ聞いた。
そうだとしても、私が彼が寝る気にもならないような容姿だったら、多分その誘いもなかっただろう。だから、これは、やはり運が良かったのだ。
「……ゲイに好かれる体質なんて、いいことは何もないと思っていたけどね……。こんなところで役に立った。ユーリは大人だよ。ちゃんと分かっている。私に気があるから、特別に無料で個人指導をしよう、とは言わなかった。契約なら私が乗って来る、という計算も、一線を超えてしまえばその先も攻められる、という自信もあるんだろう……食えない大人だ。私だって、これが契約でなかったら、やはりこんな関係にはならなかっただろう。……愛情を返せないのに、過分の好意を受けるわけにはいかない。いくら何でもすると覚悟しても、それだけは絶対に駄目だ……お前のタブーとは、多分違うだろうけれど」
セクシャル・ハラスメントが犯罪だというなら、私達は共犯だ。実際、ユーリの他の受け持ちの学生は差別を受けている。お前は私を、学内規違反者として大学側に突き出すのか?
正直なところ、それでも、ミロが「駄目だ」という可能性も、私は考えていた。ミロのそういう意味での潔癖さは、時折私の手には余る。正しい道を踏まずに得たものは、いずれ砂上の楼閣に過ぎないと頑に信じ、自分自身は勿論、他人に対してもその価値観を貫き通す行動をとることがある。相手の了承を得ないままで。
そうなったら……もう、私は、むき出しの憎しみを彼にぶつけるしかなくなってしまう。それでも折れてくれなかったら──ユーリと共に、音楽院をやめるしかないのだろう。
でも、その先は?
ピアノを弾けるようになりたい、そのためには何でもする、と誓ったけれど、それは、ミロに聴いてもらいたかったからだ。
ミロと完全に決裂しても、この生活を続ける意味があるんだろうか……?
頼むから、飲み込んでくれ。
そう必死で祈っていたら、ミロがゆっくりと私の肩を掴んでいた腕を上げ、私の頭の後ろに腕を回して、髪に小さなキスをした。
「カミュは、この選択が、最善の選択だと考えてる?」
その声は、仕方がない、と諦めているような、何も手出しが出来ない彼自身の無念さを滲ませたような声で、思わず胸が詰まった。
ああ、ミロは、分かってくれたんだ………
そう安堵するのと同時に、それがミロにとって、どれだけ不本意な決断かが痛いほど分かってしまって、何も言えなくなった。
「……良いとか、悪いとかじゃない。それ以外に、道はないから。……頼みがある。このことは、誰にも言わないでくれ」
良い、とは決して思っていないよ。
でも、手段を選べる状態じゃない。たった一本垂らされた蜘蛛の糸だ。いつ切れて、真っ逆さまにもとの泥沼に落ちてもおかしくない……それでも、掴まなければ、永遠にこの底辺からは這い出せない。
思わず、そんな本音が溢れた。そんな事、言えばミロを苦しめるだけだと分かっているのに。
「期間は? 『契約』は、いつまで?」
「……とりあえず、Corso di Diploma Primo Livello 終了まで。……それ以上は、指導してもらえるかどうかも分からないし、 それ以前に、Secondo Livello へ進学出来なければ意味のない話だから」
「それじゃあ、カミュ、口止めの交渉をしよう。一つ目、Primoが取れたら、俺と契約して。二つ目。今ここで、昨日カミュが契約相手にした事を俺にして」
全く想像していなかったタイミングでそれを言われて、背筋が凍った。
いや、似たような状況になる可能性は、この家に入ったときから考えていた。そもそも、無傷では出てこられないかも知れない、と思ったから、車の中ではなく家の中で話すことを選んだのだし。
本当のことを知ったミロがどうするか──怒りに任せて殴られるかもしれないし、押し倒されるかも知れない、とも思った。
「昨日やったことを今ここでやってみろ」と言われる可能性も考えていた。
……でも、それを、こんな風に、口止めの条件に使われるとは、想像もしていなかった……。
ユーリにするように。
とにかく、相手をその気にさせて、喜ばせるための手管──ユーリから教わったものばかりだけれど。
ゲイの男を喜ばせるような仕草なんて、中身はストレートのミロに対してやったら、気味悪がって引くんじゃないだろうか?
そもそも、ミロ相手に、男娼の真似事なんて、出来るんだろうか……?
侮蔑するために、醜態を晒せ、という要求に応える覚悟はしていたけれど、こんなに冷静なミロに仕掛ける覚悟は、できていなかった。
ミロは、激情が募るほど、冷静になる傾向がある。
彼にとって、怒りや激しすぎる情熱は、露にしてはいけないものらしい。正当な理由──たとえば、義憤とか、犯罪絡みだとか──そういった着火剤がなければ、決して爆発させてはいけないとでもいうように、強い自制が働く。その一方で、一度火がつくと、その激しさは周囲を焦土に変える。ミロ自身、その激情の激しさに、恐怖しているのかも知れない。
いや、それも、結局、都合のいい憶測に過ぎないのか……
激情が募りすぎて、呆れて、爆発する気も失せた、というのが本当のところなのかも知れない。
今は関係を解消しているとはいえ、まだ未練のある元恋人が、他の男に体を売った。怒り狂って犯すなり、殴るなりしてくれれば、どれほど安心出来るか知れないのに、と、自分にばかり都合の良いことを考える。
ミロは、絶対に暴力はふるわない。性的な暴力なら尚更だ。それは、私の目からみても、ミロのとても好ましい特質だ。
それでも、時折、その暴力がふるわれない事実に、ひやりと絶望が胸の底へ音もなく滑り込む。
本当は、激昂してもいないのじゃないか──そんな価値も、自分にはないのじゃないか、と、疑いが忍び込む。
……自分で、ミロを傷つけて、振ったくせに。
「……先のことは、約束出来ないけど、覚えておく。……二つ目は……後悔しても、責任は持たない」
ミロに嫌われるのが怖い。蔑まれるのが怖い。
ミロに、触れたい。抱かれたい。
そんな色々の感情が一気に溢れて、何一つ整理が出来ないまま、かっと体に熱が灯った。
ミロの耳を舐めねぶり、脚や腰を押し付けて、性急にミロのシャツのボタンを外した。息も熱くなっていたと思う。
要するに、私はさかりのついた猫と同じで、十二月から体だけ追い上げられて満たされなかった心を、ミロの交換条件に便乗して満たしたかったのだ。
我ながら、酷い。
でも、そんな自分にばかり都合の良い夢がかなうはずもなくて……
ミロが、その動きを止めた。
「最後まで聞いて……。同じことをしてって言われて一瞬戸惑ったそのカミュの気持ちを、その契約が切れるまで持ち続けてくれたら、それでいい。持ち続けて貰えるように、俺も頑張るから……」
まだ何もしていない。
あまりに早いストップに、逸った心と体が引き裂かれるように感じた。
ミロは、何かの代償に人を抱けるような性格じゃない。そんなのは分かっている。……でも、もう少し、肌に触れるくらいまでは許されると思っていたのに。
無理矢理に奥歯を噛んで熱を散らすと、ミロが薄いキスをしてきた。舌が唇の間から滑り込んできたけれど、噛み締めた歯を離したら、みっともない吐息が溢れてしまいそうで、緩めることが出来なかった。
「誤解しないで欲しいんだけど、カミュが今想像したような事でカミュを止めたんじゃないよ? 最初から条件はさっき言った通りの二つだ。ただ……」
今想像したようなことって、どんなこと?
回らない頭で考える。慰めるようなキスは、別に嫌いになったわけじゃない、というミロのメッセージだ。
でも、それこそ、そんなのは、口で言わなくてもわかる。
何をどう言おうと、ミロは、私のこんな姿を見たくないのだ。
多分、媚びるような動きも、それが連想させるユーリとの夜も、全部。
「昨日カミュがした事を、今ここでやったら、絶対に俺はカミュの道を潰すよ? カミュが、これしかないって思って、悩んで、決意した道を潰す。我儘な八つ当たりだって分かってるけれど、情けないけど、自分で手綱を取れる自信が全然無い……。カミュが無事にその契約を全うしたいなら、そんな傷付いた顔をしないで、ドアを開けて出ていくのがいいと思うんだけど、どう?」

ああ、これが、ミロの最後通牒だ、と思った。
見たら、もう歯止めはきかない。だから、見ない。
それが言葉だけでなく、本当にその通りなのだとしたら、嬉しい。
そして、ミロが、本当にそれを恐れて、無理矢理ここで踏みとどまってくれたのだとしたら、心からミロを尊敬する。
……でも。
どれほど頭でそう認めても、火がついた心も体も、そう簡単には収まってくれなくて……
明日になれば、ミロの方が正しいと絶対実感すると分かっているのに、今この瞬間はそういう気持ちにはなれなくて。
「……そういうお前の妙に冷静なところ、何度も腹立たしく思ったものだけど……でも、お前が正しい。……間違っているのはいつも私の方だ。……見逃してくれて、ありがとう。感謝する」
そんな、憎らしいだけの一言を残して、ミロの家を出た。

 

夜の個人レッスンは最悪の出来で、ユーリは大層機嫌が悪かった。
レッスンを早めに切り上げられてしまったので、その後の予定も順々に繰り上がって、寝室に向かったのが午後十時。
そんな早い時間から色々要求されても、というか、そもそも今夜は相手を喜ばせてやろう、なんていうサービス精神は皆無だったので、喉の奥に深く入ってきたユーリのモノにえづいて吐き出し、その拍子にうっかりかなり強く噛んでしまった。勿論ユーリは目に涙を浮かべて怒り、もとから機嫌が悪かったことも手伝って、私は両頬にたてつづけに平手打ちを食らった。
こっそり夜中に起き出して、悔しくて泣いた。
とうに、自分の中で覚悟は出来ていると思っていたのに。
ミロに会って、ミロに触れて、あんなふうに抱き締められたら、やはり好きな人以外には触りたくない、触られたくない、と全身が拒絶する。
ユーリが怒ったのは、きっとそれがあまりにもあからさまで、ピアノも駄目ならバイトでも役立たずだったから、なのだろう。
ミロのイザイを聴きたい、と思って、無理矢理関係を解消したときに、そのCDも返してしまったことを後悔した。
……耳の奥に、あの音はまだ残っている。それでも、こんなに色々無理矢理に飲み込んだ日には、最大音量のヘッドホンで、エンドレスで聞き入りたいのに。
今日は、金曜日。
ミロは多分、今後はあまり私に近付いてこないだろうけれど……
この赤くなった頬を見つかったら、多分かなり厄介なことになるだろう。
……当分、公共エリアには顔を出さない方がいいかな……。